北里さんちのお正月 その3
テラテラに光った焼きたてのうなぎが美しい。
「これは馴染みのウナギ屋さんに頼んで国産の特級うなぎを用意してもらったのよ」とご満悦のおば様。
「これっておばさんが作ったの?」と遥。
「いや、ウナギを割いて白焼きまではウナギ屋さんに頼んで、仕上げのたれ焼きは家のグリルで焼いたのよ」とおば様。
それでも十分に手が込んでいる。
「餅は餅屋よね。試しにウナギを割いてみたけれどやはりプロにはどうしても敵わないところがあるのよ」
「そういうもんですか?」と俺。
「どーせ、拓郎に食わせるんだったら、スーパーで売ってる中国産で十分なのに……」と司。
「あら、やだ、司。あんたそれでもこの北里家の息子なの?どんな場合であれ手を抜いた仕事は自分の為にはならないのよ」
「まぁ、確かに」と納得と言った感じの司。
なるほど、司のあの完璧主義の仕事っぷりはおばさまからの遺伝なのか。
まあ、なんにせよ、極上のうなぎを頂けるのなら文句はないのだが……しかし、そろそろ俺の胃袋も限界に近かった。
そもそも、これって拓郎とおばさんの勝負だよな。なんで俺達が一緒になってフードファイトをしなければならないのだ……まあ、美味しいからなんだけれどね。
そんなことを思いながらウナギをパクっと一口ほおばってみる。
すると思わずほほがにんまりと緩む。
ああ、どうしてこんなにもお腹がいっぱいで苦しいのに顔がにやけてしまうのだろう。
見ると春樹も陽菜ちゃんもお腹がいっぱいのはずなのに口元がにまーっと緩んでいる。
だってしょうがないよね。美味しいんだもん。
苦しいけれど止まらないウナギの魔力。上にのっけた山椒の芽と粉がいい仕事をしています。
うなぎのたれの香ばしい香りが北里家のリビングに広がっていく。
ああ、幸せってこういう事なんだろうなー……なんて思ったその時、俺の胃袋がピキッとレッドラインを超えた。そして箸がピタッと止まる。
もう無理だー……これ以上何にも入らない。
限界は突然にやって来る。まるで突如として身に降りかかる災難のように。
やばい、もう、一口だって入りゃしない。
みると、つい先ほどまでニマニマしていた春樹も陽菜ちゃんも弥生も司も遥も翔太も顔の表情が固まっていた。
ただ一人、目を血走らせながらウナギを書き込んでいる拓郎を除いては……
するとその空気を察してか、おばさまは出汁の入った急須みたいなものを持ってきた。
「この出し入れの中に、カツオの一番出汁が入ってるから、うな茶漬けにして食べてもおいしいわよ」と。
限界を迎えた我々の胃袋の都合などお構いなしの様子で俺達の目の前に海苔とアサツキとワサビの入った小皿を置いてゆく。まるでテトリスの達人のように我々の胃袋に僅かな隙間すら許さないおば様。
その正体は天使なのか悪魔なのか。一体どっちなのだ!!
おばさまの言葉に唆されて目を白黒させながらうな茶漬けをすする翔太。
おい、あんまり無理すんじゃねーぞ。
とはいえ、拓郎以外のメンバーは、薬味と出し入れを前にして箸が止まってしまっていた。
「お茶碗に残した分はお家に持って帰ってねー」とおば様。
ええー、テイクアウト有りだったんですかー。だったらもっと早く言って下さいよー。
「なら私も持ち帰り」
「私も」
「ボクも」
「僕も」
「陽菜も」
「ぼくもー」
みんなが次々と白旗を上げていく。
だが、「僕もねー」と、拓郎が言った瞬間、
「あなたはここで全部食べていってちょうだいね」と目を光らせるおば様。
そりゃそうだ。これってもともとは拓郎とおばさんの勝負だったんだもの。
ぐっと言葉に詰まりながらも「大丈夫なのねー。冗談、冗談」と言いながら、最後の気力を振り絞って寿司桶の中に残ったウナギご飯に出汁をぶっかけてそのまま食べ始めた拓郎。
まるで優勝力士が大盃に注がれた日本酒を飲み干すような勢いで両手に抱えて、大量のうな茶漬けを啜り始めた。
やめろっ、拓郎!
国産のうなぎはそうやって食べるものではありません!!
お前がここで「ごめんなさい、もう無理です」とさえ言えば、俺達はウナギの折り詰めのお持ち帰りできるんだよ!!
だが、拓郎は、八王子生まれの鯱の意地でゴキュゴキュとうな茶漬けを飲み干していく。
「あーあー、もったいねーなー、一体いくらするんだよ、アレ」と司。
ここにきて信じられないものを見たといった感じの春樹と陽菜ちゃん。
まあ、あんまり子供に見せていいものではないよな。
「ほんとに食べ切っちゃうのアレ」とドン引きしたような遥。
「拓郎君無理しなくていいよ」おそらく本当に拓郎の体を心配している弥生。
やさしいなー、お前は。
「あっ、このお出汁美味しい」と空っぽの茶碗に出汁だけ入れて味わっている莉子。
「どれどれ、僕も味見、味見」と相変わらずマイペースの翔太。
めいめいが勝手なことをやり始めたカオスな感じの北里家のリビング。
すると、ついに拓郎は、寿司桶をぐわっと呷るとうな茶漬けを飲み干してしまったのだ。
あーあー、少しは残せよお前……
「プハァー……」と息をつくと、「ごちそうさまなのね、おばさま」と腹をパンパンに膨らませながら拓郎は言った。
「チッ!!どういたしまして」と、険しい眼つきで眉間にしわを寄せながらおば様。
確かどういたしましての前に舌打ちが聞こえたのは気のせいじゃないですよね。
「すごーい、全部食べちゃったー」と春樹。
「ほんと、飲み込んじゃったー」と陽菜ちゃん。
「ホンマ、鯱やで鯱」と優斗。
「お前一体今日いくら分くったんだよ」とあきれた様子の司。
「すごいねー拓郎君」と今日は空気のようなおじさん。
「お腹大丈夫ー」とパンパンにはち切れそうな拓郎のお腹を嬉しそうになでなでする翔太。
そういやお前、司の時もパンパンのはら嬉しそうにさすってたよなー。
すると、「すごいわねー。拓郎君。拓郎君の食べっぷりにおばさんも、もう降参よ」と白旗を上げるおば様。
おっふー、これで正月早々、狂気のようなフードファイトも幕引きかー……と思ったところで、
「じゃあ、最後に締めのラーメンを作ったの。頑張って作ったから最後にこれだけは食べてもらいたいわ」と心持ち落ち込んだ表情でおばさまは言った。
うーん、しょうがない。
我々ももう限界なのだが、頑張って作ったというのなら最後までお付き合いしましょう。
なんてったって我々だって食べ盛りのアスリート。どうにか頑張れは締めのラーメンくらいは入るってものさ。
俺はお腹をゆさゆさと揺らすと確かに胃袋に少しばかりの隙間がうまれた。
この狂気のフードファイト、最後まで付き合いますよ。おば様。
ところで、その、締めのラーメンというのは、八王子名物の八王子ラーメンですか?
ちなみに八王子ラーメンとは、薬味に長ネギに代わりに玉ねぎのみじん切りを使った八王子市内に30店舗以上あるご当地ラーメンだ。中細の中華麺とスープは鶏ガラと豚骨をベースにした濃い口醤油味。具にはメンマとチャーシューを乗っけ、仕上げにラードを表面に浮かせる。是非、八王子にお立ち寄りの際は一杯と言わず二杯でも三杯でも啜っていただきたい。ずるずる。
するとおばさまは、拓郎が飲み干した寿司桶を抱えると足取り重くキッチンに向かっていく。
「おばちゃん、なんかかわいそう」と、優しさ人一倍の春樹がおばさまの後姿を見ている。
「陽菜もラーメンだったら食べれるよ。おばさん」
「僕も頑張って食べる」と春樹。
「僕も」
「私も」
「ワイも」
「俺も」
みんながみんな手を上げて狂気の宴の締めであるラーメンをリクエストする。
「みんな、ありがとう。おばさん、うれしいわ」とおば様。確かにその目じりには涙が浮かんで見える。
いえいえ、気にしないでください。正月早々こんなにもごちそうになって私たちも大満足です。
優しい空気が広がっていく北里家のリビング。
そうだ、この戦いには敗者など誰一人としていないのだ。
みんながそれぞれの勝者なのだ。
誰も彼もが優しい気分に浸ったその時、おばさまが俺達に尋ねた。
「そうそう、みんな、締めのラーメンだけれど……ニンニク入れますか?」
セイレーンの目が光った。




