熱帯夜
チクタク……チクタク……チクタク……チクタク……
リリィン
チクタク……チクタク……チクタク……チクタク……
暑い……。
エアコンのリモコンが壊れた……。
迂闊だった。
仕事帰り、シャワーを浴びて、買ってきた総菜を広げた。
冷房のスイッチを入れ、リモコンを放り出し、そのまま缶チューハイを飲んで無邪気にバラエティ番組を見る。そこまでは良かった。
チリリィン
気が付くといつのまにか寝てしまっていた。手には空き缶、床に寝転がる俺の目線の先には缶の口から滴る雫と、びしょびしょに濡れたリモコンの姿があった。慌ててリモコンを拾い上げ飛び起きた。水気を切り、スイッチを押す。
「ピー。………………ヴァァァァン」
音を立ててエアコンは止まり、しばしの沈黙の後内部クリーン機能が動き出した。
リモコンは無事だ。
そう俺が安心している間に、音もなくリモコンは死んだ。
ブロロロロロロォ……
せめてつけっぱなしにしておけば良かった。
いや、そもそも今時本体にスイッチがないなんてあり得ないだろ。
この部屋は安アパートの中で一室だけリフォームされており、ほかの部屋とはエアコンの機種もメーカーも違う。恥を忍んでリモコンを貸してもらうことも出来なかった。
リー、リー、リー、リー
ピピピ
コロコロコロ
よりによって俺の部屋には扇風機もなかった。注文した新しいリモコンが届くまでの二日間、自宅にいる夜の時間だけ耐えればいい。そう思っていたがもう限界だ。
明日必ず扇風機を買いに行こう。
リリィ……チリィン……
苦し紛れに風鈴を出したが何の意味もなかった。昔の人はこんなもので本当に涼めると思っていたのだろうか。いったいどんな理屈で?
きっと昔の夏は風流だなんだと抜かしていられるほど涼しかったのだろう。
暑さでイライラしてくる。気が立ってまるで眠れやしない。
ヴォーン
ぐっしょりと濡れたシャツを替えに起き上がる。
ひたひたと汗がしたたり落ちた。
風鈴はたまに鳴るものの、窓から吹き込む風は無いも同然だった。
シャツを替えるついでにキッチンに寄った。
ジョーォ
ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ
「ハァーッ!」
水を飲まなければ死んでしまう。
水道の水は完全にぬるま湯になっていた。
ガラッ
カタカタ
バタン
ジャー
ピキピキ バキ
コップの中から氷に亀裂の入る音が響いた。
ギィィィィ
古いドアが軋む。
ベッドに戻り、枕元に氷水の入ったコップを置いた。
時計の針は午前一時を回ろうとしていた。
明日も仕事だ、早く寝なければ。
チクタク……チクタク……チクタク……。
ブロロロロロロォ……。
眠れない。
こう暑いと普段気にしない音がやけに鮮明に聞こえてくる。いつもは窓を閉めてエアコンをつけているせいかもしれない。
時計の針の音
外を走る車の音
虫の鳴き声
家電の動作音
家鳴り
カエルの合唱
ヴェロヴェロゲェロヴェロベロヴェロゲロゲロベロヴェロヴェロゲェロヴェロベロヴェロゲロゲロベロヴェロヴェロゲェロヴェロベロヴェロゲロゲロベロヴェロヴェロゲェロヴェロベロヴェロゲロゲロベロヴェロヴェロゲェロヴェロベロヴェロゲロゲロベロヴェロヴェロゲェロヴェロベロヴェロゲロゲロベロ
何と言っているのかはよくわからないが、カエルの声や虫の鳴き声が混じってだんだん人の言葉のように聞こえてきた。
多分あまりいい意味ではない。トーヘンボクとか、暑いとか、馬鹿とか、苦しいとかそんな感じだ。
ノイローゼで頭がおかしくなりそうだ。
ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ
ミ゛ーンミ゛ンミ゛ンミ゛ンミ゛ンミ゛ンミ゛ーンミ゛ンミ゛ンミ゛ンミ゛ンミ゛ン
ピューイピピピ ピューイピピピ ピューイピピピ ピューイピピピ
蝉の鳴き声だ。
しかし、蝉は夜に鳴くものなのだろうか?
最近はそうなのかもしれない。むしむしとしたこの熱帯夜は昼と変わらないくらいに暑い。
それとも熱中症には幻覚症状もあるのだろうか。
俺はウトウトし始めていた。
繰り返される音、薄れていく意識の中突然異様な”声“がした。
「こんなところで寝たら、死にますよ」
低く抑揚のない声だった。
ハッと目を見開くと真っ黒な人影が真上から俺の顔を覗き込んでいた。
ぼんやりとした輪郭だけでそこには目も鼻も口もなかった。文字通り黒い影としか言いようのないものだった。
俺は凍り付いた。
ツクツクヴィーョー ツクツクヴィーョー ツクツクヴィーョー
ツクツクボウシの泣き声がその終わりに向けて次第に早くなっていく。
それが何かに似ていく気がして恐ろしくてたまらなかった。
ヴィーョーヴィーョーヴィーョーヴィーョー
ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛
最後の叫びは完全に人のものだった。
気が付くと朝だった。
ベッドは寝汗でびしょびしょになっていた。
昨夜の人影はどこにもない。
ひどい夢だった。そう思った。
不意に冷たい風に汗を冷やされ、ゾクッとした寒気に襲われた。
エアコンがついている。
ベッドにしみ込んだ寝汗。
コップの下にできた結露による水たまり。
反応しないリモコンとその注文履歴
閉まっている窓。
ぶら下がっている風鈴。
動いているエアコン。
明らかに矛盾している。
もし昨夜のことが夢だったとしたらいったいどこからが?
寝ぼけて自分で窓を閉めたとしてもどうやって冷房を入れた?
エアコンが勝手に動き出したのか?
まさかすべてが現実で、あの人影がエアコンを動かしてくれたとでも?
腑に落ちないことだらけだったが、深く考えないことにした。
考え出すと悪寒が止まらなくなりそうだったからだ。
既に体は死体のように冷え切っていた。
俺はシャワーで暖まり何とか息を吹き返した。
理由はともかくせっかく動いてくれたエアコンだ。
電気代はもったいなかったがあんな目にあった以上、つけっぱなしで家を空けることに抵抗はなかった。
いつも通り仕事の支度をして玄関のドアを開ける。
明日の夕方には新しいリモコンが届く。
午前六時。
早朝の街は静けさに包まれていた。




