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ケル・オム・レスト

 妙ママとの同居生活を始めて、一週間ばかりが過ぎた。

 昼は料理の仕込みを手伝って、夜に「小料理 絶」の営業を手伝い、寝起きを共にする。いろいろと試食させてもらえるので食費はかからないし、家賃も無料にしてもらっている。そのうえ、月に数万円のお小遣いまでくれた。妙ママは殴る女ではなかったし、食事のときにちょっとぐらい音をたててもまったく怒らない。

 夢みたいに穏やかな日々に、不満のひとつもなかった。内心、どうしてこんなに良くしてくれるのだろうと思ったが、寝しなに妙ママが言った。

「お店でお客さんと喋っているときは時間を忘れるぐらい楽しいのに、営業が終わって真っ暗な部屋に帰ると、虚無感に襲われるの。そういうことってない?」

「よく分からないです」

 虚無感とはどういう感情なのか、ぼくには正直よく分からなかった。

 辞書的な意味合いによれば、すべてが(むな)しく感じること、何事にも意味や価値が感じられないような感覚を指すようだが、父に殴られていた日々はただただ恐怖であったから、あれはおよそ虚無ではない。では施設で暮らした日々はどうかと振り返ると、色のない無彩色の世界で過ごしていたような感覚がある。

 あのときに感じていた感情は空しさだったのか、なんとも捉えがたい。

 妙ママとひとつ屋根の下に暮らしてみて分かったことと言えば、殴る女ではなかったが、抱きしめる女だった、ということ。

「殴るやつはヤバいけど、殴るのと抱きしめるのがセットになるやつはもっとヤバいから」

 私は殴ってないし、抱きしめるだけならオーケーでしょう、とばかりに妙ママは添い寝を正当化しようとするが、狭いソファベッドで抱き枕のように添い寝されると、寝苦しいときがある。けど、ちょっと寝苦しいぐらいだけなら我慢する。殴られないなら、なんでもいい。

「タクの思い出のオムライスって、どんなオムライスだった?」

「……どんな?」

 妙ママは眠る前もお喋りだが、微睡(まどろ)みにあるぼくは半分ぐらい眠っている。

「オムライスって、お店によってけっこう違うのよ」

「……へー」

「ちょっと聞いてるの?」

 睡魔に襲われながら、あの日に洋食屋で食べたオムライスのことを思い返した。

 感銘的な味であったことだけは覚えているが、なにせ五歳かそこらの記憶だから、ところどころが断片的だ。鮮明に覚えていることと言えば、黒いフライパン、オレンジ色のお米、白い皿、黄色い卵、焦げ茶色のどろっとしたソース……。

「まずはいろんなお店のオムライスを食べ比べてみようか。作るのはそれから」

「……はい」

 眠りながら答えると、優しく髪を撫でられた。

 妙ママの腕に包まれていると、なぜだかすぐに眠くなる。

 身構える必要がなくて、ここは安全だと思えるからなのかもしれない。



 週にいちどの定休日と、仕込みの合間を利用して、方々のオムライスを食べ歩いた。

 客席から見える厨房(オープン・キッチン)のときはなるたけ料理人の動きを観察して、見えない厨房(クローズド・キッチン)のときは、見た目と味だけに集中した。最初のうちは卵をくるりと回転させる名人芸だけに目が行きがちだったけれど、黒いフライパンを持つ左手は素手ではなく、厚手の布巾で包んで持っていることに気がついた。

「素手で持ったらだめなんですか」

「熱くて持てないわよ。料理をしたことがないと、そういうことも知らないのね」

「ぜんぜん知らなかったです」

 黒いフライパンは鉄製で、柄の部分も鉄でできているから、布巾などで包まなければ熱くて持てないらしい。卵を流し入れて、がしゃがしゃとかき混ぜてオムレツを作る手並みは、どの店の料理人もテレビの早送りを見ているように手早かった。

 洋風の卵焼きがオムレツで、チキンライスやバターライスをオムレツで包んだり、乗せたりすればオムライスになる。

 美味しいオムライスが作りたくば、まずはオムレツを上手に作れねばならないようだ。

「どうしてオムレツって言うか、知ってる?」

「知らないです」

「スペインの王様が領内の見回りに出たとき、お腹がすいて、付き人になにか食べさせてくれるよう求めたの。うまい具合に一軒の農家があって、そこのお百姓が卵を割って、手早く卵焼きを作って差し上げた。王様はいたく感心して『なんと手早い男か(ケル・オム・レスト)!』と仰った。それが縮まってオムレットになった、という逸話があるみたい」

「それ、本当なんですか」

「嘘か本当かは別として、この逸話には二つの真理がある」

 妙ママの蘊蓄は和食だけに止まらず、洋食にも及ぶようだった。

「一つ、オムレツは手早く焼かなければいけない」

「もうひとつは?」

「一つ、焼いたらすぐに食べなくてはならない」

 オムレツを作る手際が(せわ)しないのは、宿命であるようだった。

 ひと口にオムライスと言っても、店によっていろいろなヴァリエーションがあった。

 宇宙船みたいにこんもりした卵のてっぺんにグリーンピースが乗っかり、デミグラスソースがかかった花咲オムライスは思い出の味とは違う気がした。ソースがとにかく濃くて、海苔の佃煮のように流動性がなく、これはこれで美味しいが、食べ進めると飽きがきた。

「ソースはもうちょっと、さらっとしていたような気がします」

「こっちはオーソドックスなやつね」

 巻きオムライスを頼んだ妙ママと皿を交換して試食する。卵にケチャップソースがかかっていたが、卵は心なしか硬く、ケチャップも酸っぱすぎる気がした。

「卵はもうちょっと、とろっとしていた気がします」

「トマトの酸味が強いわね」

 卵に包まれた中身はどちらもチキンライスだったが、別の店ではバターライスのこともあった。個人的には、チキンライスのほうが美味しいように思えた。

 秋葉原のメイド喫茶にも連れて行かれた。居眠りする双子の熊がお布団に見立てた卵に包まれ、ケチャップで「萌」と記された双子のくまたんオムライスなるものも食べた。

 別のメイド喫茶では「美味しくな~れ♪」の魔法の唱和を強要され、手でハートを作り、「ではご主人様もご一緒に! 萌え萌えキューン」という台詞を言わされた。

 料理をどのように提供するかも演出の一種だと捉えれば、世の中にはひとつとして同じオムライスはないことを身をもって体験したが、メイド喫茶はさすがに想定外だった。

 萌え死ぬぼくを見て妙ママが爆笑し、ようやく虚無感という感情の正体を理解した。

「自分が作りたい味のイメージはついた?」

「はい、なんとなく」

「じゃあ、フライパンを買いに行こうか」

(たえ)で使っているやつじゃだめなんですか」

「鉄製のフライパンは持ってないし、どうせなら道具にもこだわったほうがいい」

 合羽(かっぱ)(ばし)の道具街を訪れ、あれこれフライパンを見て回った。

 アルミ、鉄、銅、ステンレスなど、素材は様々で、こんなにも多くのフライパンがあるのかと驚いた。焦げにくくするためにテフロン加工やフッ素加工が施されたもの、取っ手が熱くなりにくい初心者用のものなど、いろいろあってどれを選べばいいのか、さっぱりだった。妙ママに聞こうにも、プロ仕様の料理道具を目にした途端にテンションが上がったらしく、ふらふらとどこかへ行ってしまった。

 しょうがないので、通りすがりの店員に助言を求めた。

「オムライスを作りたいんですけど、どのフライパンが良いですか」

「ご家庭用ですか?」

「プロっぽい味を再現したいな、と思ってるんですが、初心者が鉄を選んでも平気ですか」

 思い出の洋食屋で見たのは黒いフライパンだが、見た目は軽そうなのに、実際に持ってみると、ずしりと重かった。料理素人にはとても使いこなせそうには思えなかった。

「鉄のフライパンはしっかり油を敷いてなじませ、使い終わったら洗剤なしで洗い、きちんと乾かすことが絶対です。鉄は錆が大敵なので、それなりに手入れと手間がかかりますが、使い込むほどに味が出ます。一昔前は軽くて扱いやすいものが好まれましたが、最近はプロの料理人が使うようなものを手入れしながら自分色にしていく方も増えています」

 横幅も22センチ、24センチ、26センチとあったが、店員がお勧めしてくれたのは、22センチのものだった。

「良い物を長く愛するのが近年のトレンドですね」

 駄目押しのような助言を受けて心は決まった。

 店員が立ち去った後、黒光りする鉄のフライパンを握り、軽く上下動させてみたりした。オムレツ作りの名人である手早い男になれそうなイメージは微塵も湧いてこないが、あの日の洋食屋で見た黒いフライパンを手にして気分が高揚した。

「タク、決まった?」

 妙ママが戻ってきて、背後から声をかけられた。

「はい、これにします」

「おっ、いいじゃん。帰ったらオムレツ特訓だね」

 その日から毎朝の朝食当番がぼくの役割となり、毎日オムレツを作った。

 最初に焼いたのは、なかに具の入らないプレーンオムレツ。

 あらかじめフライパンを熱くしておき、油を少量なじませておく。

 ボウルに卵を割り、塩と胡椒をして、さっと混ぜ合わせる。

 熱くなったフライパンにバターを溶かし、卵を流し込み、すぐにかき混ぜる。

 そこまではなんとかできたが、厚手の布巾を持った左手でフライパンを揺り動かし、右手で箸をがしゃがしゃさせていると、だんだん中身がもろもろしてきた。

 わあ、焦げる、焦げる、と気ばかり急いたが、この後、どうやればくるっと回転するのか分からない。なんか柄をとんとん叩いていたなと思い、形ばかりを真似てみたが、オムレツは綺麗にひっくり返らない。途中までとろとろの半熟だったオムレツは、ひっくり返すのに手間取るうち、見るも無残に焦げてしまった。

 食べれない代物ではなかったが、二つに割ったら中は半熟で、とろっとしているのが理想であるのに、中まで硬くなっていて、理想とは程遠い出来だった。

「まあ、最初はこんなもんでしょう」

 失敗しても妙ママは笑って許してくれたけれど、内心は口惜しかった。

 萌え死させられたメイドさんのほうがよほど上手にオムレツを作っていた。

 あれはあれで、そこそこ半熟だった。ふつうに、違和感なく食べられた。

 翻って、ぼくの作ったオムレツは酷い出来だ。

 それから何度も同じような失敗をして、妙ママの表情も曇っていた。

 朝っぱらから失敗作ばかりを食べさせられては、機嫌良くいられるはずもない。

「ぼくは学習能力がないんですかね」

「そんなに落ち込む?」

 妙ママが殴る女じゃなかったから良かったものの、これが父だったら、ぼくはとっくに殴り殺されているだろう。けっこうに絶望的な気分だった。

「近所の洋食屋さんにコツを聞いといてあげるから、そんなに落ち込まないでよ」

「ありがとうございます」

 世の料理人はいかにも簡単そうにオムレツを作っているが、あれこそ熟練の技で、コツなどあるのだろうか。ふと、洋食屋のおじいさんの顔が思い浮かんだ。

「小料理屋になる前、洋食屋さんじゃなかったですか」

「前のオーナーは老齢で引退されたって聞いたけど、詳しいことは知らない。開業費用がなかったから手頃な居抜き物件を探していて、今のところを紹介されたの。西小山に土地勘はなかったけど、街の雰囲気も良いし、店舗のサイズもちょうど良かったから即決だった」

「引退……」

 ということは、もうあのオムライスは二度と食べれないのだ。

 あの味は永遠に失われてしまったのだと思うと、無性に悲しかった。

「今日の縁起メシはなんですか」

 気を取り直して訊ねると、妙ママが満面の笑みを浮かべた。

「幸せのサンドウィッチ」

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