食べる専門
妙ママの住む部屋は、キッチンと寝室があるだけのシンプルな造りで、玄関脇にお風呂があった。壁紙は白く清潔で、あまり長く住んでいる印象はない。キャリーバッグの中から着替えを取り出していると、浴槽にお湯を張り終えた妙ママに声をかけられた。
「ちゃんとお風呂に入りなさいよ。バスタオルはそこ。濡れたやつは洗濯機に入れちゃって」
浴室でシャツとズボンを脱ぎ、雑巾を絞るように水を絞った。ずしりと重かった服がだいぶ軽くなり、言われたとおり洗濯機に入れる。下着まで入れていいのか一瞬迷ったが、服の下に隠すようにして、こそっと紛れさせた。
浴槽のお湯はかなり熱かった。ネットカフェでシャワーを浴びるだけの生活をしていたので、久しぶりに風呂に浸かった気がした。洗面台にシャンプー、リンス、ボディーコンディショナーなどが並んでいるが、どれを使っていいのかも分からないので、結局シャワーを浴びるだけで済ませた。風呂上がりに髪をごしごし拭くと、ドライヤー要らずですぐに乾く。柔らかい肌触りの白いバスタオルはなんだかいい匂いがした。
さっさと浴室を出ると、キッチンの方から紅茶の芳香が漂ってきた。
「早過ぎよ。ちゃんとお風呂に入りなさいって言ったじゃない」
「ちゃんと入りましたけど」
妙ママだって雨に濡れたままだから、のんびり風呂に浸かっているほうが迷惑ではないかと思うのだが、なぜだか叱られた。妙ママが作っていたのはハニージンジャーティーで、生姜を熱湯で溶かし込み、紅茶のティーバッグを入れ、仕上げに蜂蜜を加えたものだった。
「これでも飲んで、適当に寛いでてよ」
「ありがとうございます」
キッチンカウンターのスツールに腰掛けて、ハニージンジャーティーを啜った。ずぶ濡れだった身体はお風呂のおかげで温まっていたけれど、蜂蜜の程よい甘みと生姜のぴりっとしたスパイスが合わさった一杯を飲むと、身体の芯からぽかぽかと温まった。
入れ替わりに妙ママがお風呂に入っている間、手持無沙汰だったので、室内を見回した。小ぶりの本棚には、ずらりと料理本が並んでいる。キッチン周囲はよく整頓され、調味料は綺麗に陳列されている。半面、寝室はあまり気を遣った風ではなく、布張りのソファベッドに星柄の刺繍のあるブランケットがぐじゃっと丸めて置かれていた。
壁掛けのコルクボードに複数枚の写真が飾られているが、どれも「小料理 絶」で撮った客とのツーショット写真であった。しかしそのなかで一枚だけ、食事している客をそのまま写したものがあった。
茶島七海がしきりに気にしていた例の予約席に座って、蕩けるような極上の笑みを浮かべているのは栗色の髪をした美しい女性だった。まるでプロの写真家が撮ったような非の打ち所のない完璧な微笑、すっきりと通った鼻梁、思わず吸い込まれてしまいそうな瞳は、どこか天使を思わせる華があった。
コルクボードのど真ん中に配されたその一枚は、なんとなしに特別待遇のような扱いで、この女性こそが妙ママの大切な人なのだとはっきり分かる。写真の片隅に流麗なサインがあるが、崩された字が何語かも判別できないほどに滑らかで、さっぱり読めなかった。
いったいこの女性は誰なのだろうと思っていると、スウェットに着替えた妙ママが浴室から出てきた。湯気がまとわりついており、バスタオルで頭を拭いている。
「この人、誰ですか」
コルクボードを指差すと、バスタオルを首に掛けた妙ママが近寄ってきた。
「ああ、この写真ね。ほんと嫌味なぐらい写真写りが良いのよね。さすがは女優って感じ」
「……女優?」
「けっこう有名だと思うけど。ドラマとか映画はあまり見ない?」
「ほとんど見ないです」
「でも名前ぐらいは知っているんじゃない」
妙ママはハニージンジャーティーを作りながら、カウンター越しにぼくを見た。
「霧島綾。代表作はなんだろう。まあ、いろいろ出演してるよ」
「知ってます」
思った以上のビッグネームで、名前ばかりはさすがに知っていた。
「長い付き合いなんですか」
「そうでもない。綾がデビューしてからだから十年ぐらい」
「じゅうぶん長いと思いますけど」
「幼馴染とかではないし、そこまで深い仲ではない」
妙ママの言い草には、ちょっぴり寂しそうな響きがあった。
「でも大切な人なんですよね。その人のためだけにずっと席を空けているぐらいだから」
「なんで、そんなこと知ってるの?」
「七海さんと話していたのを聞いていました」
妙ママは二脚あるスツールの片方に腰掛けて、ジンジャーティーに口をつけた。
「カウンターの端っこの席が落ち着くみたいでさ。いつもふらっと来て、あの席が空いてないと帰っちゃうの。でも自分が座るために他のお客さんに退いてもらうのは嫌みたい」
妙ママが困ったような笑みを浮かべた。
「特別扱いしないと拗ねるくせに、特別扱いするとふつうに接してほしいのにって拗ねる」
「どっちにしろ拗ねるんですね」
「そう、ほんとうに我がまま。前世は間違いなく猫だね」
妙ママのなかで霧島綾という女優が特別な席を占めていることは分かった。
しかし、彼女を特別足らしめている理由は定かではなかった。
「初めて会ったとき、綾はまだ十八か十九歳ぐらいだったかな。私はメイクのアシスタントをしていた。綾は高校二年生でデビューしてすぐに人気が出て、ちやほやする大人がいっぱいいた。私は歳も近かったし、気楽にタメ口で話していたら、妙に打ち解けて懐かれたの」
霧島綾より妙ママのほうが四歳ほど年上であったが、楽屋や撮影待ちのロケバスの中で、学校の同級生のように喋っていたという。
「お妙は話しやすくて好き。どうでもいい人にちやほやされるより、好きな人にちょっと雑に扱われるぐらいがいいんだよね、なんて言ってた」
妙ママは静かにジンジャーティーを啜ると、しばらく遠い目をした。
スツールが悲鳴をあげるようにぎしりと軋んだ。
「綾は交通事故で父親を亡くしていて、ひと回り年の離れた双子の弟を育てるお金が必要だった。そういう状況で、大手の自動車メーカーからCMのオファーがあったの」
霧島綾は某自動車メーカーの御曹司に気に入られ、CMに起用してあげるから俺と食事してくれ、としつこく言い寄られたという。
「食事というのは建前、早い話が愛人契約ね。主役級の女優の間では、そのお坊ちゃまは女をアクセサリーとしか思っていない勘違い野郎という悪評が立っていた。ほんのちょっとでも機嫌を損ねると暴力を振るう、ともっぱらの噂だった」
「殴る男……」
ぼくがぽつりと呟くと、妙ママが深く頷いた。
「綾もオファーを受けるかどうか悩んでいた。お妙、どうしたらいいと思うって相談されたけど、どっちを選んだところで悪い未来しかなかった」
オファーを受ければ、交通事故で父親を亡くした娘が車の宣伝をするという皮肉になる。
オファーを断れば、いくらでも替えの効く駆け出しの女優など、すぐ干されるだろう。
「どんな風に答えたんですか?」
「綾のなかで答えは出ていたんだと思う。私に聞くまでもなく」
妙ママの愛情深い目がコルクボードの写真に向けられた。
「双子の弟にいつでも胸を張れるお姉ちゃんでいてほしい。権力を持っただけの安っぽい男に魂を売り渡しちゃいけない。私はあなたの生き様を支持する。もし仕事がなくなったら、私もいっしょに干される。そんなようなことを言ったかな」
霧島綾は、しつこく言い寄ってくる御曹司にこう啖呵を切ったという。
「あたし、運転免許を持ってないんです。それに父が居眠り運転の車に追突されて亡くなっているので、死んでも自動車メーカーの宣伝をするつもりはありません」
霧島綾が語ったことはすべて事実であったが、世のなかで思い通りにならないことなどなかった御曹司は激怒した。あの女優は生意気で扱いづらいと悪評が立ち、彼女をちやほやしていた連中は潮が引いたように去っていった。
霧島綾はしばらく出演作に恵まれず、作品はこぞって批評家から酷評された。
仕事を干されている間、舞台に軸足を移して演技力を磨き、移り気な世間が悪評を忘れるまでじっと耐えた。
霧島綾の背中を押した妙ママもメイクの仕事を辞め、一緒に泣いたという。
「直接は殴らなくても、権力でぶん殴ってくる卑劣なやつもいる。でも、いつまでもそんなやつのことを恨んでも仕方がないから、なにか縁起の良いものを食べて忘れようとしたの。それで縁起メシに辿り着いたわけ」
「なるほど、そういう流れだったんですね」
「縁起メシは私が提唱したものでもなんでもない。日本人が食に対して育んできた文化で、私はそれを料理教室で習った。私は日本食のプロでもなんでもないから、自分の作れるようにアレンジして小料理として出している」
メイクの仕事から小料理屋に鞍替えした妙ママが、霧島綾という女優のためにいつでも席を空けている理由がよく分かった。料理を始めたきっかけであり、心の底から喜ばせたい相手のために日夜、新メニューを開発しているのだろう。
「なんだか美しい関係ですね」
「ぜんぜん。最近は顔も見せやしない」
妙ママが子供っぽく唇を尖らせた。
「でも、もう来ないだろうと思っていたら突然来るんですよね」
「そう! こっちは振り回されるばっかり」
分かってくれるか、とばかりに妙ママが意気込んだ。
「あたし、日本食より洋食のほうが好きなんだよね。お妙、次は美味しい洋食を作ってよ、とか言いやがるし。縁起メシのベースは日本食だっつーの」
「霧島さんは料理はしないんですか?」
「あいつは食べる専門。器用だし、映画やドラマで天才シェフ役とかやってるから、包丁はけっこう使えるけど」
すっかり冷めたハニージンジャーティーを啜ると、妙ママが威勢よく立ち上がった。
「タクの縁起メシはオムライスなんでしょう。綾がいつ来るか知らないけど、めちゃくちゃ美味しいオムライスを食べさせて唸らせてやってよ」