Q
帰るところなんて、ないです。
ぎりぎりまで出かかった言葉が喉に引っ掛かって、だんだん息苦しくなってきた。
項垂れたままずっと黙りこくっていると、電車の到着を待つ乗客たちにじろじろ見られているのが分かった。濡れそぼった服を着て、キャリーバッグを後生大事に抱えたぼくは、家出に失敗した非行少年のように見えるのだろうか。
電車が駅のホームに到着しては、すぐに走り去っていく。
何本もの電車を見送るうち、妙ママが痺れを切らしたように言った。
「いつまで黙っている気?」
無言、それこそが答えなのだ。
短く切った髪から、雨の滴がぽたぽたと垂れた。
「ああ、もう。はっきりしないわね」
ぼくは有無を言わさず連行され、無理やりに歩かされた。改札の方へと逆走し、西小山駅を出て、元来た道を引き返す。妙ママは傘さえささず、雨に濡れるのなどお構いなしだった。ぼくを逃がさぬよう、がっちり確保したまま、迷いのない足取りで「小料理 絶」の店前を素通りした。
「どこに行くんですか?」
「帰るのよ」
どうにもぼくは妙ママの逆鱗に触れたらしい。接客時に垣間見せた優しい声音ではなく、抵抗することなど許されぬ怒気を孕んだ声だった。
無理やりに歩かされ続けるうち、気がついた。
妙ママの不快さを露わにした態度は、機嫌を損ねたときの父と同じ匂いがした。
これは殴られる前触れだ。そうに違いない。
ぼくは父には散々殴られたけれど、母には殴られたことがなかった。
でも、その記憶もこれから書き換えられるのだろう。
一歩、また一歩と歩くたび、泥沼に足を踏み入れているような感覚があった。
妙ママの住む「コーポ・江戸見坂」は、西小山駅から歩いて五分とかからぬ閑静な住宅街にあった。江戸見坂交番の手前を折れた先にあり、小山八幡神社の境内を仰ぐ坂道の中腹に建つ古めかしい集合住宅は蔦が絡んだコンクリートの打ちっぱなしで、どことなく収容所を思わせるおどろおどろしい雰囲気が漂っている。
こんなにも近い場所に交番があるが、どうせなんの助けにもならない。
迫りくる暴力を前にして無力感に襲われる諦めの境地は、幼い日々に嫌というほど教えられた学習の賜物だ。感情を殺して作り物の笑顔さえ浮かべておけば、いつか嵐は止むのだ
と知っている。身体を濡らす雨ごとき、何程のこともない。
妙ママが玄関扉を開けたが、ぼくは硬直したまま立ち尽くしていた。
「どうしたの、入って」
声こそ落ち着き払っているが、妙ママの目は笑っていない。
幼かったぼくには選択肢が無かった。
殴られても甘受するしかなく、逃げ出すことなど叶わなかった。
でも、ぼくはもう無力な子供ではない。嫌なことには嫌だと声をあげることができる。
「やっぱり殴るんですか?」
玄関先で立ち竦んだまま、震える声で言い返した。
人前で殴られたことはない。
殴られるとしたら、「家」の中だった。
「なんで、そうなるかな」
呆れたような溜息に、どんな意味合いがあるのか理解できなかった。
妙ママはぼくを無理やり室内へ引っ張り込み、玄関に押し倒した。
馬乗りになられ、両腕を押さえつけられ、やっぱり殴られるんだと覚悟した。
妙ママが拳を振り被り、ぼくは思わず目を瞑った。
しかし、いつまでも殴られる衝撃はやってこなかった。
「殴られる以外の想像ができなかった?」
おそるおそる目を開けると、ほとんど目と鼻の先に妙ママの顔があった。
「私は君を殴らない。言葉で言っても分からないかな」
妙ママはぼくの目からこぼれた雨を指で拭った。さっきまでまったく笑っていないように見えた目が薄っすら笑っている。どうして笑うのかもさっぱり分からなかった。
「いっしょに暮らしてみないと分からないです」
面接のとき、妙ママは男を見る目には自信があると言った。
殴る男かどうか確かめるには、「いっしょに暮らしてみないと分からない」と答えた。
その言葉をそっくりそのまま返すことにした。
口先だけならなんとでも言える。
妙ママが「殴る女」ではない、という保証はない。
「じゃあ、試しに住んでみる?」
「はい」
即答すると、妙ママが腹を抱えて大笑いした。
「なんで笑うんですか」
笑われる理由がまったく思い当たらず、コンクリートの天井にも答えは書いていない。
妙ママの笑い声だけが室内にこだましている。
「今日会ったばっかりで、いきなり同居か。人生史上最速だわ」
「そんなに変なことですか」
素直な疑問を呈すると、妙ママに頬っぺたをつねられた。
「もしかして、いろんな女の家を渡り歩いてたりするの」
「同居には慣れてます。里親候補の家をあちこち転々としたので」
しかし、どこの家でも本心から安住できたことなどなかった。唯一無二の家では殴られた。他人の家では煙たがられた。施設はそもそも家ではなかった。
「そっか、ごめん」
妙ママの笑い声が急に収まり、室内は水を打ったように静かになった。
急に怒ったり、急に笑ったり、急に静かになったり、女性の情緒は忙しいなと思えた。
「なんで謝るんですか」
「君は質問ばっかりだね」
妙ママはちょっとうざったそうに溜息をついた。
「タクミじゃなくてタQミだね」
「それ、どういう意味ですか」
「疑問ばっかりだから、クエスチョンの頭文字をとってQ……、ってそこに解説必要?」
「その聞き方も疑問形じゃないんですか」
「うるさいぞ、Q」
純粋な疑問ではなく、半疑問ぐらいのものだ。Qと呼ばれても自分のことだと思えない。
「Qは嫌です」
「だったら、なにがいいの」
「……タク」
生まれつきのぼくは、おそらく西山ではなく、匠海でもなかった。
忘れじの母には、ただタクとだけ呼ばれていた。それだけは忘れない。
ぼくを救ってくれたオムライスの味と母が呼んでくれた愛称だけは、何があろうと忘れたくはなかった。