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「西山君、大丈夫?」
平静を取り戻すと、自分のしでかしたことの意味が理解できた。
酒に酔ってさえいないのに、いわんや酒を一滴さえも飲んでいないのに、弁解のしようもない醜態を晒した。
いきなり妙ママに抱きついたりして、たいへんに気まずかった。
抱きつかれた側である妙ママは意に介した様子もないが、気恥ずかしさが次から次へと襲ってきて、一秒でも早くこの場から消えたかった。
「あの……、すみませんでした。か、帰ります」
飛び出すように扉を開ける。
雨はいよいよ強くなり、雷鳴は暴れる竜のように唸りをあげた。
「どこに帰るつもり?」
「え、駅……」
脇目も振らずに走り出そうとすると、ビニール傘を一本引っ掴んだ妙ママが追いかけてきて、庇の下で静止された。
「そんなに急がなくたっていいじゃない。送っていくわよ」
妙ママは扉を施錠すると、ビニール傘を開いた。ずぶ濡れになるのも構わず、走って逃げ去りたい気分であったのに、妙ママに連行されるように並んで歩いた。
ひとつの傘ではどしゃ降りの雨を完全には避けようもないが、傘を持つ妙ママの側に身を寄せるわけにもいかない。傘からはみ出た半身は容赦なく濡れ、安物のスニーカーは水を含んで、ぶくぶくと膨張した。
西小山駅までは一本道で、歩いて二分とかからぬ近さのはずなのに、異様に遠く感じた。
水を吸った服はずしりと重くなる。鼠色に変じた靴はちゃぽちゃぽと音をたてる。
ようやく駅前広場に着き、妙ママがビニール傘を畳んだ。
「西山君、次のシフトはいつにする?」
お試しバイトはわずか四時間で終焉を迎えたはずなのに、次を求められた。
次なんて、ない。
あの日、洋食屋を出た母はきっと殴り殺されてしまったのだ。
自分が母を殺したのだ、という罪の意識を背負いたくないがため、いつまでも未練がましく思い出の洋食屋を探した。それも、もう終わりにしなければならない。
「記憶にある洋食屋ではなくなっていたけれど、ぼくが保護されたのはきっとここだったのだと思います。お世話になりました」
それ以上は言葉にならず、涙のような雨が頬を伝う。
母の面影と重なる女性に向かって深々と会釈をして、踵を返す。
ようやくぼくは母の亡霊と決別できたのだと思うと、晴れがましい気分だった。
改札を抜け、エスカレーターに乗り、地下一階へ向かう。エレベーターの裏に設置されたコインロッカーに鍵を挿し、身の回りの荷物を詰め込んだキャリーバッグを取り出す。
妙ママに「どこに住んでいるの?」と訊ねられたが、咄嗟に答えられなかった。
ぼくには家なんてないのだ。ネットカフェに寝泊まりし、当日払いのバイトで食い繋ぎ、
思い出の洋食屋を探して右往左往していただけの流れ者だから。
さて、これからどこに向かおうか。
行く当てなんかなかったけれど、キャリーバッグをごろごろ転がして、駅の乗降場に向か
って歩き出した。目黒線の路線図の前で立ち止まり、どこの駅で降りようか算段する。
西山匠海となる前の幼い自分に別れを告げた今、どこで途中下車したって構わなかった。
「そんなことだろうと思った」
振り返ると、見るからに苛立ちを滲ませた妙ママが仁王立ちしていた。
「え……と……」
「あなたを殴る人は、ここにはいない」
妙ママはぼくを真っ直ぐに見据え、きっぱりと言い切った。
「私はずっとここにいる。どこにも行かない」
ママ、いかないで、いかないで、と懇願したのはぼくだ。
そんなことを言っておきながら、あっさり立ち去ろうとした。
妙ママからすれば、まったくもって意味不明だろう。
あの日と同じように、保護しなければまずい子だと思われたのかもしれない。
「もういちどだけ聞くわよ、西山君。どこに帰るつもり?」