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止まない雨

「妙ママ、ご馳走さま。また来るね」

 終業時間が迫ると、客が席を立ち始めた。会計を終えた客が名残惜しそうに妙ママと別れの挨拶を交わし、店を後にする。酔い潰れてしまう客もおらず、粘りに粘って店に居続ける迷惑な客もいない、平穏な終わりだった。

「七海ちゃん、手伝わせちゃってごめんね」

「とんでもない。いっぱい喋れて楽しかったです」

 最後まで手伝った七海の顔がにやついている。どうにも恋人の蒼生司から返信があったらしく、「ごめん。今、起きた」との連絡があったようだ。アトリエにこもって一心不乱に絵を描いている司は、絵具が乾くまで仮眠することがあり、気がつけば、アトリエで寝落ちしていることもしょっちゅうだという。

「少ないけど、今日のバイト代」

 妙ママが日当を払おうとすると、七海が慌てて固辞した。

「受け取れません」

「いいから。貰って」

 日当を受け取る、受け取らないで押し問答が続いた。

「私、今日の支払いもしてないし」

「いいわよ、それぐらい」

 本日の飲食費の支払いでも揉めた。代金を支払おうとする七海と、受け取りを固辞する妙ママのやり取りは堂々巡りだった。

「じゃあ、これは西山君に渡すわ」

 妙ママは七海に渡そうとしていた日当をぼくに寄越した。バイト初日のぼくはまごついていただけで、ほとんど何の役にも立っていなかった。狭いキッチンでは動きの邪魔になるばかりで、ぼくなど存在しない方がよほど円滑に業務が回っただろう。

「え……と……」

 困ったことに、たいへん受け取りづらかった。きちんと戦力になっていた七海が日当を受け取らないのに、ぼくがおいそれと受け取れるはずはなかった。

「それじゃあ、こうしましょう」

 ぼくが受け取りを渋っていた日当を七海が受け取った。封筒に入っていたのは、五千円札が一枚。七海はそこから本日の飲食費を支払い、余った千円ちょっとがぼくのアルバイト代となった。七海は飲食費が無料になり、ぼくはちょっとしたお小遣いを貰え、妙ママの懐も痛まない、三方が丸く収まる円満な解決であったと思う。

「そろそろ帰ります。あ、雨……」

 七海が扉を開くと、叩きつけるような雨音が聞こえた。

「七海ちゃん、傘は?」

「大丈夫です、駅まで走るんで!」

 そう言うなり、七海は猛然と走り去っていった。妙ママが外まで見送りに行き、その間、扉は開け放たれていた。冷たい夜風が忍び込んできた。

「根が体育会系よね、七海ちゃんって」

 扉を締め切っても、ひんやりとした空気が首筋にまとわりついて離れない。

「高校ではソフトボール部のエースだったんだって」

「そうなんですか?」

「高校二年生のときに肩を壊して、引退するまでずっとリハビリしていたらしいの。通っていた整形外科が司君の伯父さんで、リハビリ室にあの竜の絵が飾られていたみたい」

 鶴見北高校(キタコー)女子ソフトボール部エースの茶島七海は浮き上がる直球(ライズボール)を武器とする剛腕で、

実業団や強豪大学からスカウトが視察に訪れるほどの実力があった。

 しかし、ライズボールは肩に負担のかかる魔球でもある。

 七海は大一番の夏の大会でライズボールを多投し、右肩腱板を断裂した。

 辛く、苦しいリハビリの最中、心の支えとなったのが蒼生司の絵であったという。

 リハビリを乗り越え復帰したが、どうしても最盛期の球威は戻ってこなかった。スポーツ推薦での進学はふいになり、今はいくつかのバイトを掛け持ちする日々だそうだ。

「だんだん絵を描いた本人が気になるようになって、七年ぐらいずっと片想いしてたって」

「七年……」

 そんなに長く、よく一人の人を思い続けられるなと思ったが、なんのことはない。

 ぼくは十年以上も母を探している。

「そうか。七年も片想いする絵か、って聞いたら、拝みたくなるよね」

「絵を描いた本人に会ったことはあるんですか」

「絵を飾るときに一回、顔を合わせたぐらいかな。お酒を飲むと、すぐ眠くなっちゃう性質らしくて、なかなか遊びに来てくれない」

 土砂降りの雨がいよいよ激しくなり、窓越しに雷が轟いた。

「西山君はどこに住んでるの?」

 絵に見惚れたふりをして聞き流すと、それ以上の追及はされなかった。

「小降りになるまで、もうちょっとここにいなよ」

「はい」

「お酒飲めない年齢だったっけ。ノンアルコールはオレンジジュースぐらいしかないけど、それでいいかな」

「はい、ありがとうございます」

 カウンター席に座るよう促され、妙ママがオレンジジュースを注いでくれた。

 妙ママはぼくの隣に腰掛け、心持ち椅子を寄せてきた。

 二人きりの間には奇妙な沈黙が横たわり、雨音だけが耳にこだます。

 この状況には、どこか既視感があった。

 母に置き去りにされた、あの日……。

 お客がだれもいなくなった洋食屋で、オレンジジュースを飲ませてくれた光景と瓜二つに思えた。

 そうと思った途端、妙ママがあの日の母に重なって見えた。

 頭が真っ白になって、自分もまた幼いあの日に逆戻りした錯覚に陥った。

 喉がきゅっと閉まり、呼吸が苦しくて、喘息になったみたいにぜえぜえと息が切れる。

 幼いぼくは(すが)りつくように泣きわめき、必死になって母を引き止めた。

「ママ、いかないで、いかないで」

「ちょっと、どうしたの」

 母はぼくの手を振り(ほど)こうとするが、何があろうと行かせてはならない。

 このまま洋食屋を出たら、母は殺されてしまうのだから。

「落ち着きなさい、急にどうしたの」

「ママ、いかないで、いかないで」

 必死になって訴えると、母がやさしく背中をさすってくれた。

「西山君、落ち着いて。いちど深呼吸してみましょう」


 ……に、し、やまくん?

 だれだろう、それは。

 ぼくは……ぼくはだれだ。

 ぼくは……タク。

 洋食屋に置き去りにされた子供。

 母を見殺しにした子供。

 

 大きく息を吸い、そして吐き出す。

 何度か繰り返すうち、徐々に落ち着きが戻ってきた。

 しかし、いったん頭の中で再生されてしまった映像はなかなか消え失せてはくれない。

 下手に落ち着いてしまった分だけ、母に待ち受ける悲劇を冷静に眺めてしまう。

「ママ、これからパパと話してくるから。いい、ここですこしだけ待っていてね」

 そう言い残したきり、母はぼくを迎えに来ることはなかった。

 施設に入って間もないうちは母の言葉を疑うことなく、そのまま言葉通りに受け取った。

 しかし時間が経つにつれ、あの言葉の先にどんな恐ろしい未来が待ち受けていたかをありありと想像できるようになった。食事の際に音をたてたぐらいで子供を殴りつける父と、まともに話し合いができたとは考えられない。

 もしかすると、母は殴り殺されてしまったのではないか。

 ぼくを迎えに来ないのではなく、迎えに来れなかったのではないか。

 母を引き止めなかったせいで、母を殺した。

 そんな後悔が深層に刻まれ、だから母を探すのだ。

 ぼくは母を殺していない。

 ぼくは人殺しではない。

 間接的であれ、母を殺したと認めたくないがため。

 ただひたすらに免罪されたいがため。

 およそ希望はないと知りながら、それでも母の無事を確かめるのを止められない。

 窓の外では、いつまでも止まない雨が降り続けていた。

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