RESERVED
そろそろ営業時間の半ばも過ぎ、「小料理 絶」に暗黙のルールがあることに気がついた。
席に座れるのは最大でも十二人であって、その上限を超えることはなかった。
ほとんどが常連のようで、長居する者はおらず、妙ママと軽く雑談すると、あっさり帰っていく。席に余裕がない状態で新規客が訪れると、先に飲んでいた客が電車の優先席を譲るようにさっと席を立ち、入店と退店の均衡が惚れ惚れするほどスムーズに保たれた。
妙ママがキッチンにいるうちは安心していられたが、ひとたびテーブルの方へ談笑しに行ってしまうと、途端に不安が込み上げてくる。
だいいち酒の名前が分からない。酒の注ぎ方もよく分からない。伝票はあるにはあるが、妙ママの走り書きが簡略過ぎて、お勘定がいくらになるかも分からない。「今日のお勧めはなに?」などと聞かれても答えられるはずもない。
カウンター越しに話しかけられるたび、内心パニック状態であったが、ぼくは愛想笑いを浮かべ、空のグラスを洗うことに専念した。
「カシスオレンジ、ちょうだい」
グラスを洗う機械となって妙ママのいない時間帯をやり過ごしていたが、無粋な声には通用しなかった。それがカクテルの名前であるということだけはかろうじて分かるが、分かったところでどうしようもない。カウンターの端にいたのは男連れの二人客で、濃い化粧の巻き髪の女性は明らかに苛立っていた。
「ねえ、ちょっと聞いてる? シカトしてんじゃねえよ」
妙ママに助けを求めようとしたが、こちらに背を向けて話し込んでおり、カウンター席の様子には気がつかない。おそるおそる振り向いたが、客とは視線を合わせずにいると、壁に掛けられた青い竜と目が合った。
「妙ママ、ちょっとキッチン借りるね」
無人の予約席の隣でスマートフォンの画面をチラ見しながらポテトサラダを食べていた七海がすっと立ち上がり、助っ人してくれた。勝手知ったる我が家のように透明なグラスを用意すると、氷を入れ、カシスリキュールとオレンジジュースを注いだ。
「お待たせしました、カシスオレンジです」
七海はずいぶん手慣れた様子で接客した。巻き髪の女性はすでにこちらなど見ておらず、スーツを着た隣の男の太腿に手を置いて、息がかかるぐらい近くにしなだれかかっていた。
「今日、初めてなんでしょう。それじゃあなにも分からないよね」
隣に立った七海は案外に小柄で、ぼくの肩ぐらいの身長しかなかった。
「ありがとうございます。助かりました」
「妙ママ、話しだすと夢中になっちゃうからね」
「客が自分でお酒を注ぐのがここのシステムなんですか」
「そんなことないけど、忙しそうなときに手伝ったことはある。飲食関係でバイトしていたから、だいたいのことはできるし」
七海は自席のグラスと小鉢を下げると、手早く拭いた。
「片付けちゃってよかったんですか」
「司を誘ったけど、既読にもなりゃしない」
七海がやさぐれたように言った。恋人の蒼生司を誘い、まだ店に居残ってくれていたのが幸いだった。
「なんで、ここでバイトしようと思ったの?」
「成り行きです」
求人の張り紙は見たが、ここで働こうなどと考えてはいなかった。かつて、ここにあったはずの洋食屋がどうなってしまったのか知りたかっただけだ。
「私、探偵事務所でバイトしてたことがあるの」
七海がぼそりと呟いた。
「ミステリー小説が大好きな友達にお勧めのミステリーを布教されまくって、その影響で書店員をやって、探偵事務所でも働いた」
「それも成り行きですか」
「そうそう。成り行き、成り行き」
七海はおもむろに「RESERVED ―予約席―」と書かれたプレートに目をやった。
「そこの空席がすごく気になるんだよね。なんだか謎の匂いがすると思わない?」
「直接、聞いてみたらいいんじゃないですか」
「妙ママ、なんか微妙にはぐらかすんだもん」
四人掛けのテーブル席に三人までしか座らせないのは、妙ママがお喋りしにいくための措置であろう。しかしカウンター席であれば、カウンター越しに喋ればいい。わざわざ席を余らせておく理由はない。言われてみれば確かに奇妙な気がした。
「猫みたいにふらっとやって来るって言ってましたね」
「もしかして本物の猫が来るとか?」
「大切な人だとも言ってましたから、猫ではないんじゃないですか」
「だから誰なの、それ。めっちゃ気になるんですけど」
七海は妙ママの大切な人が気になるようだが、ぼくは洋食屋の末路が気になった。
店の中に入ってみて、ここは母と生き別れた洋食屋であったことにほぼ確信が持てた。
五歳かそこらの記憶だから、細部はほとんど正確ではないだろうが、キッチンを見渡せるカウンターに座ったことを覚えている。今は予約席のプレートが置かれているどん詰まりの席に座り、足は地面に届きもしなかった。黒いフライパンこそないが、四つ口のコンロ、大きな冷蔵庫、食洗器など、洋食屋の名残りをそのまま受け継いでいるように思える。
幼い目にはそうと映らなかったが、こんなにもこじんまりした店だったのか、と驚いた。
オムライスを作ってくれたおじいさんも、子供の目におじいさんと映っただけで、そんなに年を召していたのかさえ定かではない。
何もかもあやふやな中で、唯一はっきりしているのはオムライスの美味しさだけだ。
「ここのお店って、いつからあるんですか」
「さあ、いつからだろう。私、たいして常連じゃないから」
「めちゃくちゃ常連感が漂っていますけど」
「そうね。ここは家庭的というより、家そのものだもの」
仕事を放り出して妙ママがお喋りに興じてしまっても、客の多くが目くじらを立てないのは、ここが「店」ではなく、「家」だと認識しているからであるらしい。
「文句を言う客もいてね。女将が常連客と喋ってばかりでサービス業の自覚無し。こんな店、早く潰れればいい、とか書き込むクレーマーもいたのよ」
誰も彼もがグルメ批評家となり、ちょっとでも気に食わない点があればグルメサイトに好き勝手な感想を書き込めるご時世にあって、「小料理屋 絶」のスタイルに反感を覚える者もいるだろう。
ただ、辛辣な感想を書き込んでしまう人の心が狭いとは思わない。
お試し期間で里親候補と暮らしたとき、ぼくは「家」に馴染めなかった。
心の底から親しみを込めて、パパ、ママ、と言えたことなどない。
その家に馴染もうとしても馴染み切れず、疎外感だけが募る気分はよく分かる。家に憧れ
を抱きながら、真の意味で家の一員になれない拗れた気持ちは、どうしようもない。
妙ママの営む家で、客たちは朗らかに笑っている。ぼくは愛想笑いを浮かべるのが精々で、思い出の洋食屋が様変わりしてしまったことには失望を隠せない。
楽しげな笑い声を耳にするたび、そこはかとなく居心地の悪さが押し寄せてくる。
さっきから一向に時間が経過しているように思えず、時計の針はおそろしくゆっくりと流れている気がした。