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縁起メシ

 記憶の奥底で色褪せぬ輝きを放つ洋食屋は、東京都品川区最西端の西小山駅にあった。

 児童養護施設に引き渡された日、職員は「西小山駅近くの洋食屋で少年を保護」と繰り返した。「ニシコヤマ」と正確には聞き取れず、ぼくの耳には「ニシヤマ」と聞こえた。

 わけも分からず頭の上を飛び交う、その響きが頭にこびりついて離れなくなった。施設に保護され、一日、二日と経ち、それから一週間、一ヵ月と経っても母が姿を現すことはなかった。母がすぐに迎えに来てくれると信じていたが、幼心に理解した。

 どんなに待ち続けても、きっともう母とは会えないのだと。

 今、ぼくは西山(にしやま)匠海(たくみ)と名乗っている。

 当時の思い出を忘れぬため、という痛切な思いがあったわけではない。

 五歳かそこらだったぼくは、自分の名字などうろ覚えであった。

 自分の名前でさえあやふやで、もう顔もはっきりとは覚えていない母にタクと呼ばれていたことだけはかろうじて覚えていた。本名を省略してタクだったのか、それともタクマだったのか、あるいはタクヤだったのか、はたまたタクミだったのか、知らない人には何も喋ってはいけない、と厳しく躾けられた子供から確かめる術はなかったことだろう。

 名前がないと不便なので、自分で好きに名前を付けた。

 漢字は、なんとなく格好良さそうなものを選んだ。

 高校生になってアルバイトを始め、自分の自由にできるお金を手にした。

 そして、ふと思った。思い出の洋食屋を探してみようと。

 当時の記憶と、西山と名乗った自身の姓を頼りに、目黒線西小山駅に目星をつけたが、どこをどう歩いても自分の記憶と合致する洋食屋は見つからなかった。お隣の武蔵小山駅の周辺もうろついてみたが、思い出の洋食屋はどこにも見当たらなかった。

 どうりで見つからないはずであった。

 そこはもう、洋食屋ではなくなっていたのだから。

 明かりの消えた行灯に「小料理 絶」と書かれている。

 夕暮れ前で、まだ営業時間には早いためか、曇り硝子越しの店内は薄暗かった。

 店のなかで人影が動いているのが見てとれた。

 昔、この場所にあったはずの洋食屋さんはどうなってしまったか、知っていますか。

 どこかに移転してしまったのでしょうか、ご存知ですか。

 そんなことを訊ねるべく、年季の入った木製の扉を開けて中まで入っていこうか、それとも黙って立ち去ろうか、しばらく考えた。ここは大人がお酒を飲む場所で、施設育ちの子供が軽々しく立ち入れるような場所ではないと思うと、足が前に進まなかった。

 それでももしかしたら洋食屋のおじいさんのことを知っている人がいるかもしれない。もしおじいさんのことを知っているならば、ひと言だけでも感謝の言葉を伝えておこう。人伝であっても言わぬよりはマシと思い、おっかなびっくり扉を開いた。

 照明の落ちた店内に足を踏み入れる。四人掛けのテーブルが三卓あり、店奥にキッチンと客席を隔てるカウンターがある。直線状のカウンター席で独り、頬杖をついてグラスを傾けている人影があった。

「ごめんなさい、まだ開店前なの」

 よく通る女性の声がした。黒のタートルネックを着て、デニムのジーンズを穿いている。

 艶のある黒髪をシニヨンにまとめ、左目の目尻の下に泣きぼくろがあった。

 全体的に細身で、困ったように微笑(ほほえ)む表情がなぜだか母の面影と重なって見えて、動揺を

隠せなかった。「どう、美味しい?」と優しげに言い、ぼくを置き去りにしたあの日の母の年齢がいくつだったのか定かではないが、目の前の女性はどう年齢を高めに見積もっても三十代半ばぐらいだろう。

 あれから何年が経ったというのだ。

 あの日から母は老けもせず、あの日と同じ場所に居続けて、いつまでもぼくを待ち続けていてくれたというのか。

 そんなはずがあるわけもない。そんなはず、あってたまるか。

 内心に渦巻いたどす黒い感情に、施設育ちというレッテルが混合されると、ろくなことがない。

 母はぼくを救ってくれた。と同時に、母はぼくを見捨てた。

 感謝と恨みがない交ぜになると、あの日の母に近しい雰囲気の女性を見るたび、知らず知らず母を探してしまう。

 過去に囚われたままでいつまでも進歩がなく、つくづく自分が嫌になる。

 長く施設で暮らすうち、習い性となってしまった笑顔の仮面を身に着けて、なるたけ平然を装った。表面的に感情を殺すことは容易い。作り物の笑顔は悲しみを覆い隠してくれる。

「すみません、あの……」

「もしかしてバイト希望の子? そっか、そっか。じゃあ、面接しましょう」

 どうにも表の張り紙を見て、アルバイトの面接に来たのだと勘違いされたらしい。

「え、いや、そういうわけでは」

「履歴書とかは要らないよ。私、男を見る目には自信があるから。ダメな男、クズな男、金に汚い男、浮気する男。顔を見れば、すぐに分かる」

「殴る男は?」

「そりゃあ、いっしょに暮らしてみないと分からないね」

 思わず反応してしまったら、女性は唇の端を歪めて笑った。そのひと言だけで、すべてを察したかのような意味深な笑みだった。

「そんなとこに突っ立ってないで、座りなさいな。水割りでいい?」

「いえ、お酒は飲めない年齢で」

「もしかして未成年?」

「十八です」

「若いねえ、羨ましいねえ。私のほぼ半分じゃん」

 遠慮しながら女性の隣に腰掛けると、女性は前のめりに言葉を重ねてきて、速射砲のようによく喋った。

「君、名前は?」

「西山です。西山匠海」

「私は小藪(こやぶ)(たえ)。たえ姉さんとか、たえママとか呼ばれてる。小料理屋って、ママじゃなくて女将(おかみ)じゃない。なのにママなんだよね、私の場合。最初は着物を着て女将さんぶってたけど、誰も女将扱いしてくれないから、もう着物を着るのもやめちゃった」

 黙っていたら高嶺の花のような雰囲気であったのに、喋り出したら止まらなかった。

 記憶の中の母は口数が極端に少なかった。これは絶対に母ではない、と確信する。

「あの、このお店の前に……」

 ここが小料理屋になる前に洋食屋がなかったかを訊ねようとすると、妙ママはすべてを聞く前に言葉を被せてきた。

「ああ、店名のこと? あれは看板屋が文字を間違えたの。『小料理 (たえ)』にするつもりだ

ったんだけどね。読み方は同じだから、これはこれでいいかなって」

 (たえ)ママが営むこの店は、「小料理 (たえ)」と言うらしい。

「ちょっと捻った感じで格好いいですね」

「生きていると、いろいろ滅入ることがあるじゃない。ここで美味しいお酒を飲んで、気の利いた小料理を食べて、いっぱい喋って、ストレスを捨てて帰って欲しいから、店の名前を間違えてくれて結果オーライだったわ」

 看板屋のミスを(なじ)ったりせず、あっけらかんと喋る様は好感が持てた。

「君、料理はどれぐらいできる?」

「トマトぐらいは切れます」

 べつに調理のアルバイトに来たわけではないので、適当に答えると、妙ママが吹き出した。

 なにがどう笑いのツボに刺さったのか分からないが、盛大に笑った。

「それで十分。君、意外と面白いね」

「小料理屋なのに、料理ができなくていいんですか?」

「料理は私がするから。ただ、お客さんとついつい喋り過ぎちゃってさ。私の手が止まったときに補助してくれれば、それでいい」

 喋るのに夢中で、料理を作るのを忘れてしまうのだろうか。なんとも(みょう)な店だ。

 妙ではあるが、不思議と嫌な気はしなかった。

 この人はどんな料理を作るのだろうか、という興味が湧いた。

 お試し期間で里親候補と暮らすたび、「私たちのことは好きに呼んでくれていい。パパ、ママと呼んでくれなくてもいいから」という台詞が付いて回った。そうは言いつつも、いつまでも懐いてこない子供を引き取りたくはない、という本音が透けて見えた。

 何日かを共に過ごし、パパ、ママと言い出すべき、ここぞのタイミングを見計らうゲームに敗れ続けるうち、子供心に深く傷ついた。本心からパパ、ママなどと言えたことはない。 ありとあらゆることが茶番で、仮初めの家族ごっこを演じるたびに心にひびが入った。

「西山君、ちょっと真面目な質問をするけどいい?」

 今まではただの雑談だったようで、妙ママの目が急に真剣味を帯びた。

 いったい何を聞きたいのだろうと思い、ぼくはごくりと唾を飲み込んだ。

「君の縁起メシはなに?」

「すみません。エンギメシって、なんですか」

 質問に質問で返すと、妙ママが丁寧に答えてくれた。

「年越しそばとか正月のおせち料理は縁起が良いとされるでしょう。なんで年越しのそばが縁起が良いかと言うと、そばは切れやすくて、今年一年の厄を切る、という意味があるからなの。細くて長いから、健康長寿の願掛けをするにはもってこいだし、そばという植物は厳しい気候風土でも育つから、その強さにあやかるという側面もある」

 妙ママはぼくを真っ直ぐに見据えた。

「縁起メシは、吉事到来の願いを込めた食事のこと。その料理を食べることで、これからの未来が良くなるように願いを込めるの。美味しいものを食べると、それだけで気持ちも身体も元気になるでしょう」

 食べることで良い縁起に繋げるから、縁起メシ。

 料理に縁起という要素があるだなんて、考えたこともなかった。

「ありふれた食べ物でもいいんですか」

「縁起メシは特別な日のよそ行きの料理じゃない。誰にでも作れる普段着の料理でいいの。君が特別だと思えば、どんなにありふれたものでもそれは縁起メシだよ」

 ぼくにとって特別だと思える料理はなにか、そう聞かれれば答えはひとつしかなかった。

「だったら、オムライスです」

「どうして?」

 言おうか、言うまいか、少し悩んだが、結局は言うことにした。

「ぼくは洋食屋に置き去りにされた子供だから」

 妙ママの両目が大きく見開かれ、一瞬、空気が凍りついたような気がした。

「詳しく聞いてもいい?」

「たいした話ではないですよ」

 誰かに自分の生い立ちを聞いて欲しかったのか、自分でもよく分からなかった。

 施設にはぼくなんかよりも悲惨な生い立ちの子供はごまんといた。ぼくなどはまだ救いのある方で、父には殴られたけど、少なくとも母はぼくの盾になってくれた。

「ぼくの父は気に食わないことがあると、手が出る人でした。食事のときにうるさい音をたてると殴られました。ぼくを庇うと母も殴られました。食事の時間が怖くて仕方がなかったけれど、母と最後に食べたオムライスが忘れられません。洋食屋でオムライスを食べたあと、母はぼくを置き去りにして戻ってきませんでした」

 感情を交えず、淡々と言い終えると、なぜだか妙ママが泣いていた。

 そんなに感情移入するような話であっただろうか、と白けた気持ちになる。

 ぼく以上に悲惨な思いをした施設の子供に比べれば、ぼくなんかまだマシだ。

 オムライスは美味しいのだと、世界には殴る人ばかりでなくて、優しい人もいるのだと、信じられるから。

 少なくとも、信じられるものが何もないことはないから。

「西山君はいつから働ける?」

 止めどなく零れる涙を拭うと、妙ママが言った。

「私が料理を教えます。頑張って思い出のオムライスを再現しなさい。自分で食べて納得のいく味になったとき、それが君の縁起メシになる」

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