縁を取りもつ
夜の営業時間となり、「小料理 絶」と書かれた行燈に光が灯った。
店を開けてから一時間ばかり経つが、ビールジョッキを片手に野太い声が響き、テーブルには管理職然とした中年男性の姿が目立つ。
いつもは入れ代わり立ち代わりする客の流れが完全に滞っていた。
仕事帰りと思しきスーツ姿三人組、四人組の男性客ばかりで、いつになく女性の個人客が少ないうえ、テーブルを独占する長尻の客が多く、幸せのサンドウィッチの売れ行きは良くなかった。もう一品の縁起メシである“鶏のもつ煮”ばかり頼まれた。
「こういう日もあるんですね」
「まあ、こういう日もあるわよね」
甘辛く煮つけた鶏のもつ煮の注文は相次いだが、妙ママの表情は冴えなかった。
複数人の男性客お断りではないが、メインの客層ではない。内々で盛り上がっている男性たちの会話には加わらず、妙ママはほとんどカウンターの中で過ごした。
「ママ、新しい子雇ったの。もしかしてママの愛人?」
小指を立てて下世話な調子で話しかけてくる中年男に向かって、妙ママは氷のような愛想笑いを浮かべている。
「あれって、どういう意味なんですか」
「知らなくていいことよ」
追加注文された鶏のもつ煮を盛りつける手に怒りが滲んでいる。
「ぼくが運びましょうか」
「いいわよ。平気、平気」
妙ママはのしのしと大股で歩き、テーブルに近付いていく。
鶏もつは「縁を取りもつ」という意味のあるおめでたい食材であるらしいが、怒りに満ちた妙ママはおめでたい空気感をちっともまとっていない。心なしか店内の空気も殺伐としていて、カウンターに座っていた女性客たちは逃げるように退店していった。
「ごゆっくりしていってくださいね」
にこりと微笑んだ妙ママは空いたグラスを回収した。
妙ママは男性客に引き止められ、立ち話をしている。
店に電話がかかってきたので、ぼくが応じた。
「はい、小料理 絶です」
「あれ、ママじゃない。僕はね、アニメのPをやっている響谷っていう者なんだけど、今から三名の予約できるかな」
カウンターは四席とも空いているが、他のテーブル席は空きそうになかった。
基本的に当日予約は受け付けていないが、その日の混雑次第では席を確保しておくこともある。口ぶりからして常連客っぽいので、なるたけ縁を取りもつように取り計らう。
「ただいまテーブル席が埋まっているため、カウンターに横並びでよければ、お席はご用意しておけますが」
「ママと喋りたいから、カウンターがいいんだよ。二名が先に行くから」
「かしこまりました。お待ちしております」
ようやく妙ママがキッチンに戻ってきて、グラスを洗い始めた。
「三名のご予約がありました。ヒビヤさんという方で、先に二名がいらっしゃるそうです」
「どのヒビヤ?」
「アニメがどうとかおっしゃってましたけど」
「ああ、はいはい。響谷さんね」
「予約、受けなかったほうがよかったですか」
「いいわよ。今日はそういう日なのね」
妙ママがなんとも微妙な表情を浮かべた。
「仕事に理解のある結婚相手を探していて、毎回違う女性を連れてくるんだけど、二回目に同じ女性を連れてきたことはないのよね。悪い人ではないんだけど癖が強いのよ」
扉が荒々しく開き、古狸のようにたるんだ腹を揺らしながら闊歩してきたのは、四十代ぐらいと思しき脂肪肝の男性だった。いつぞや秋葉原のメイド喫茶に連行されたとき、客席にはこんな感じのオタクっぽい人がいた気がする。
「妙ママぁ、お久ぁ。今日はね、若い子を連れてきたよ。編集者のナオコちゃん」
響谷と名乗った男は口角泡を飛ばしながら喋りまくり、ぼくに名刺を押しつけた。
「はじめまして、瑞原菜穂子です」
すらりとした長身の女性だった。涼やかな目をしており、雪のように白い肌をしている。
妙ママとぼく、それぞれ名刺を渡された。
出版社に勤務しているようで、肩書きに編集者と記されていた。
「司さんの絵がある」
壁に掛けられた竜の絵を見るなり、瑞原菜穂子が微笑んだ。
「蒼生さんのこと、ご存知なんですか」
妙ママが訊ねると、カウンター席に着座した菜穂子が頷いた。
「七海と同級生だったんです。七海がピッチャーで、私がキャッチャー」
「へえ、七海ちゃんの同級生」
「そうなんです。西小山に素敵な小料理屋さんがあると七海にすごくおすすめされていて、やっと来れました」
「そうなの、ありがとう。嬉しいわ」
妙ママと菜穂子は二言、三言話しただけで、すっかり旧知の仲のように打ち解けていた。
客の名前は覚えきれていないが、茶島七海がソフトボール部のエースだったということ、七海の彼氏が絵描きの蒼生司である、ということは覚えている。
ピッチャーの七海とバッテリーを組んでいたのが、目の前にいる菜穂子であるようだ。
「後から来るのは七海ちゃん?」
「いえ、七海ではないです。私もお会いするのは初めてで」
妙ママと菜穂子ばかりが喋っていて、すっかり置いてけぼりのアニメプロデューサーが強引に話に割って入った。
「今日はね、ナオコちゃんに作家さんを紹介してあげようと思ってね。我らハバタキが誇る、小説妖精のハルちゃんを召喚したのですよ。基本的に人見知りだから、なかなか他人に心を開かないけど、僕とハルちゃんはツーと言えばカーな仲だからね」
「後から来るのは藤岡さん、大学生の作家です」
菜穂子が小声で補足した。『ハバタキ』とは響谷が所属するアニメーションスタジオで、藤岡春斗はハバタキで脚本を書いているうちに小説新人賞を受賞した期待の新鋭だという。
待ち人はなかなか現れず、妙ママは会話に耳を傾けながら鶏のもつ煮を振る舞い、菜穂子には幸せのサンドウィッチまで用意している。
響谷は先程からスマートフォンを耳に当て、しきりに電話をかけていた。
「繋がんないなあ。ハルちゃんはどこで迷子になってるんだろ。駅から真っ直ぐだよ。どうやったら迷子になるんだよ」
ぶつくさ言いながら、しつこく電話をかけている。
「あ、やっと出た。ハルちゃん、今どこ? え、店の前にいる? じゃあ、入ってきなよ。え、入りづらい? なに言ってんの、甘えないでよ」
妙ママはきつね色に焼き上がったトーストに白和えを挟み、四等分にカットした。
「幸せのサンドウィッチです。どうぞ、食べてみて」
「え、なにこれ。妙ママ、すごい! わ、超うま。中身、なに入ってるの?」
菜穂子のために作ったはずなのに、真っ先に響谷がぱくついている。
妙ママはこほん、と咳払いしてから菜穂子に向き直った。
「しいたけ、春菊、しらたき、しらす、しのつく物を四つ合わせて幸せです。恋愛運も上がるので、菜穂子さんもよかったらどうぞ」
店先にいるはずなのに、なかなか姿を現さない待ち人を心配してか、菜穂子が入り口のほうを見やった。それから、おもむろに左手をカウンターに乗せた。
「じつは少し前に入籍しまして、瑞原から折原に名字が変わりました」
左手の薬指に結婚指輪がはめられている。
「会社の名刺はまだ切り替わっていなくて、旧姓のままで活動していますが、既婚者なのに恋愛運とか上げてしまっていいものでしょうか」
「ぜんぜん平気よ。旦那さんともっと愛が深まるわ」
「そうですか。じゃあ、遠慮なくいただきます」
菜穂子が幸せのサンドウィッチを頬張った。
「……ナオコちゃん、既婚者だったの?」
「はい。お伝えしませんでしたっけ」
響谷は二切れ目の幸せのサンドウィッチをぽろりと取り落とし、小刻みに震えた。
「幸せそうでなによりだよ。僕の幸せな未来予想図は音をたてて崩れ去ったけどね」
がっくりと項垂れ、響谷はしばらく放心状態だった。
「タク、ちょっと表を見てきてくれる」
「分かりました」
妙ママがぼくに耳打ちし、店先を見てくるように言った。
扉を開けると、行燈の近くに所在なさげに突っ立っている童顔の少年がいた。ともすれば中学生ぐらいに見えるほど小柄で、季節感のない灰色のパーカーを着て、眠そうな目が見え隠れし、柔らかそうな猫っ毛がそよ風に揺れた。
「なかで響谷さんがお待ちです」
ひと声かけると、小柄な少年はぼくに付いてきた。
少年がカウンター席に座ると、打ちひしがれていた響谷がのろのろと再起動した。
「遅いよ、ハルちゃん。ぼかぁ、傷心だよ。老兵はただ消え去るのみ。あとは若い二人でよろしくやりな。それじゃアデュー。ボヌ(よい) ソワレ(夜を)」
響谷は「お釣りはいらないよ」と格好つけて、一万円札を二枚、置いていった。
到着するなり置いていかれた少年は、店の中をきょろきょろと見回している。
菜穂子が名刺を差し出し、挨拶をした。
「はじめまして、瑞原です。瑞原は旧姓で、折原になりましたが、名刺は旧姓のままで」
「あ、そういうことですか」
去っていく響谷の背中に視線をくれた少年は、それだけで事情を察したらしい。
「……藤岡です。藤岡春斗」
ぼそぼそ喋る声はたいへんに聞き取りづらく、それっきり黙ってしまった。人見知りというのは本当らしく、春斗は落ち着きなく店内を見回している。
やがて壁に掛かった竜の絵に視線が止まり、しばらく釘付けになっていた。
「藤岡先生は絵に興味がおありですか」
「いや、そんなには」
「藝大を卒業した蒼生さんという絵描きが描いたものです」
菜穂子が会話の糸口を探っているが、ほとんど一方通行だった。
「藤岡先生にミステリーを書いていただきたいな、と思っているんですけど」
「ミステリー……」
「例えばなんですけど、ロダンの『地獄の門』や『考える人』を題材にしたミステリーとかはいかがですか。取材が必要であれば、蒼生さんにお話を伺うこともできます」
いつぞや茶島七海が恋人の蒼生司に対して激怒していたことがある。
七海の絵を描いてくれると約束したのに、人間の絵は得意でないからと、国立西洋美術館に出掛けては『地獄の門』と『考える人』をしょっちゅう写生している、とのことだった。
菜穂子がロダンうんぬんと提案したのは、七海から得たアイディアかもしれない。
二人は高校時代にソフトボール部でバッテリーを組んでいただけあって、意志の疎通はばっちりのようだが、けっこうな無茶ぶりのようにも思えた。
「……考えてみます」
春斗は鶏のもつ煮をもそもそと頬張った。
「これ、レバーですか」
「あら、苦手だった?」
「砂肝は好きです。レバーは苦手」
食べるなり苦々しい表情を浮かべた春斗は、コップ一杯の水を飲み下した。
「次は砂肝にするわね。口直しに幸せのサンドウィッチはいかが?」
「なんですか、それ」
「しいたけ、春菊、しらたき、しらす、しのつく物を四つ合わせて幸せなの」
妙ママに親しげに話しかけられ、春斗は助けを求めるように菜穂子を見た。
「ミステリーの肝は、魅力的な謎があるかどうかに尽きますよね」
「七海さんにミステリーを布教したのって、菜穂子さんなんですか」
ぼくが訊ねると、菜穂子が大きく頷いた。
「七海がそこの予約席のことを気にしていて、謎の匂いがするとずっと言ってます」
菜穂子はちらりと「RESERVED ―予約席―」と書かれたプレートに目をやった。
いつも空いている予約席は、妙ママに真相を聞いた今ではもはや謎でもなんでもない。
しかし、真相を知らされていない七海にはいまだ謎であり続けているのだろう。
「そんなに気になるものかしら」
妙ママが薄く笑った。交通事故うんぬんの件には触れず、自身がメイクのアシスタントであったことだけを語り、女優の霧島綾のために空けている席だということを説明した。
菜穂子は納得したようだが、藤岡春斗は驚きを隠せない様子だった。
「ここ、霧島先輩のお姉さんの縄張りなんですか」
「綾の知り合いなの?」
妙ママが訊ねると、春斗が頷きかけて、それから曖昧に否定した。
「世界は狭いですね。ぼく、霧島双子の後輩です」
女優の霧島綾は交通事故で父親を亡くし、ひと回り年の離れた双子の弟を育てるお金が必要だった。大手自動車メーカーからCMオファーがあったが、実態は自動車メーカーの御曹司との愛人契約で、妙ママは「双子の弟にいつでも胸を張れるお姉ちゃんでいてほしい」と訴えた。
妙ママの助言を受けて、霧島綾は毅然とした態度でオファーを退けた。
姉の背中を見て育った双子も、真っ当な人間に育ったようだ。
「ぼく、ぜんぜん学校に馴染めなかったけど、霧島先輩がバスケ部に誘ってくれて、すごく可愛がってくれました。部活は途中で辞めちゃったけど、霧島先輩はぼくのヒーローです」
洋食屋のおじいさんが作ってくれたオムライスがぼくを絶望の淵から救ってくれたように、学校で孤立する藤岡春斗を救ってくれたのは霧島双子だったのだろう。
霧島双子について語るとき、春斗の声は明瞭で、憧れに似た色を帯びていた。
「今はちょっと顔を合わせづらいんですけど」
春斗がぼそりと付け加えた。
どんな事情があるのか知らないが、春斗は鶏もつを食べた。
鶏もつは、縁を取りもつ。
妙ママの作る縁起メシは、きっとご利益があるだろう。




