08:登殿
オウミの国府ヒコネ。
その城下町の北側、大手門から搦手へとかかる長大な城郭の内側をさして、一般にヒコネ城と呼び倣わす。
大手門の向こう、輻輳する斜面を縫って東西へ通う道筋から、さらにいくつかの門をくぐった先に、国主の政務閣にして王族の居住区たる御殿があり、さらにその彼方に、いわゆる天守閣がそびえている。
どこの国においても、王城の天守閣は国府そのものの象徴として、ことさら立派な造型を凝らしている。
わけてヒコネ城の天守などは、基部に堅牢な大石垣を扼す方形の多重尖塔をなし、その規模の壮大、白亜白金のきらびやかな外壁と、流麗な波のように連なり重なる瓦屋根の優美さが一体となり、天下の名城ともいうべき威容をたたえていた。
とはいえ天守閣は、戦時、それも篭城のような非常事態でもなければ、とくに用いられることもない。平時は望楼として、わずかな人数が詰めているに過ぎず、あとはせいぜい、国の勢威をあらわす飾り物ぐらいの意味しかない建造物である。
オウミの軍政中枢は御殿のほうに集約されており、その外観も、天守とはまた趣きの異なる武骨な造りになっていた。
国主の嗜好の反映というべきか、建築物としての規模は大きいが、余分な装飾を排して、いかにもがっしりとした、質実剛健な構造を擁している。
その日、ヒコネ城下の主だった重臣が全員召集され、午前のうちに御殿の大閣に勢ぞろいしていた。
筆頭家老サダノ・タダスケ。
側用人クサカ・ゲンジョウ。
目付イタダ・ヤスケ。
寺社町方頭ヤマモト・サキョウ。
若年寄ハナヤマ・ミノスケ。
勘定方頭ダイモン・ハタキチロウ。
武術指南役ミナムラ・ユキナガ。
――なんどの各部署の長たちと、それらに次ぐ席次をもつ随員らが、肩衣に袴の礼装姿で、おのおの位階に応じた順序に威儀を正して居並び、張り詰めた空気のなか、式典の始まりをじっと待ち受けていた。
式典――とはいうものの、前から予定されていたのは、ゼッカという僻地の少年が、単独で妖獣を狩ったことに対し、オウミ国王みずから褒賞を授ける――という内容である。
それだけのことならば、これほどの重臣がここへ集まることはない。加えて、オウミの剣指南役たるミナムラ道場主が、このような場へ呼ばれること自体、異例のことであった。
つい今朝方、城内の諸臣に式典内容の変更が知らされ、本来、列席する予定のなかった重臣らにまで、急ぎ召集がかけられたのである。
ミナムラ道場主ユキナガも、所用で隣町へ出かけていたところ、早朝のうちにヒコネ城からの急使が駆けつけ、ほとんど有無をいう間もなく、城まで引っ張られてきた。
「のう、ヤマモトの。わしはまだ詳しい話を聞いておらぬが、ゼッカというのは、武士ではないのであろう?」
勘定方頭ダイモン・ハタキチロウが、隣席の寺社町方頭ヤマモト・サキョウへ、ひそかに声をかけた。
「私もそう聞いておりますが……しかし本当に妖獣を退治するほどの者なら、もう適性は認められておりましょうし、その点は問題にならぬかと」
「それはそうであろうが……」
ヤマモトの応えに、ダイモンはなお釈然とせぬ様子だった。
「解せぬな。そうとしても、たかだか、庶人から武士になったばかりの者ではないか。そんな若造ひとりを迎えるに、この大仰な顔ぶれはいったい何事であろう」
「なに、すぐにわかりますぞ。ダイモン殿」
と、上座から口を挟んだのは、筆頭家老サダノ・タダスケ――昨日、既にゼッカと対面を果たしている重臣中の重臣である。
「この一席は、主上じきじきの特別な御意によるもの。ただ褒賞を授けるばかりの場ではありませんからな。まあ楽しみに見ておられるがよい」
呼び出し役の声が、閣に響き渡った。
「妖獣焔熊を討ちしコガワ村のゼッカ。介添え人ミナムラ左衛門少尉ゴコウどの。両名ただいま到着なされました!」
大閣の金箔の襖戸が左右に開き、まず姿を現したのは、巨大な荷車――丸太の束でも運ぶような鉄製の手押し台車で、その上に、赤黒い影が小山のように盛り上がっている。
荒縄で何重にも縛りつけられ、荷台にくくりつけられた焔熊の骸であった。
長年、妖獣のたぐいは見慣れてきた高官たちも、その禍々しい巨体に、みな思わず瞠目した。
「なんだ、あれは……」
「報告には聞いていたが、まさかこれほどとは」
「かような個体、見たことがござらぬ」
「まるで昔、噂に聞いた紅蓮カブトのようではござらぬか」
重臣らが驚きささやき交わす声のなか、荷車は、五人の下役人らの手で、ぐわらぐわらと車輪の音高く閣内へ押されてきた。
その後ろから、まず姿を現したのは、老いた肩衣姿の武官――害獣討伐斡旋方頭、トガワ・ソウザブロウ。
さらに、やや緊張気味のミナムラ・ゴコウと、なんとも窮屈そうな顔したゼッカが、トガワに続いて、ぞろぞろと歩み入ってきた。
「よいか、ゼッカ。閣の真ん中についたら足を止め、袴を両手で引いて、静かに正座する。ようは、それがしの真似をしておればよいのだ。わかっておるな」
「う、わかってるって。あとは、余計なこと言わずに、じっとしてればいいんだろ」
ひそひそと声を交わす二人。
ゼッカが窮屈そうな様子なのは、生まれて初めて、きちんとした肩衣と袴に白足袋で正装させられたからである。
服はゴコウのお下がりであったが、やや身体に合っておらず、動きにくくて仕方がない。ゼッカは不満を洩らしたが、これから新たに仕立てる時間もないので、今だけは我慢してくれ――とゴコウに頼み込まれ、渋々承諾した。
おかげで、慣れぬ服装に足取りもぎこちなく、ゼッカは内心、まっすぐ歩くのに精一杯で、閣内の豪壮な調度、居並ぶ人々の気配、その声や反応なども、ほとんど気に掛ける余裕もなかった。
「ほう……あれが?」
「ちっこういのう」
「話を聞いておらなんだら、なんの冗談かと思うていたところよ」
「あの足運び……やはり只者ではござらぬぞ」
「いや、慣れておらぬだけのように見えるが……」
そんな重臣らの声も、ゼッカの耳には届いていない。初めて履いた白足袋で、閣のよく磨かれた床に、何度も足を滑らせそうになっていたからである。
かろうじて姿勢を保ち、表面上だけは平静に、ゼッカはどうにか無事に大閣の中央に辿り着いた。
荷車が、閣の奥壇の手前で止まった。
続いてきたゴコウらも、ひたと足を止めた。
ゼッカも、それに倣い、足を止めようとして。
滑って。
転んだ。
「あ、転けた」
「転びよった」
「まあ転けるわな」
ゼッカは、ひとり、盛大に後ろ向きに床へ倒れ込んだ。
咄嗟に両手で我が身を受け止め、尻餅だけはつかなかった。
「滑りやすいからのう。あのへんは」
「受身は取っておるな。身のこなしは悪くなさそうじゃ」
重臣たちは、真顔で、口々に呟いた。という反応からすると、ここでは割とよくあることらしい。
「どうかね、ミナムラの。あの小僧、おぬしはどう見る」
ふと問われて、オウミの剣指南役たる道場主ミナムラ・ユキナガ――ゴコウの父親であり、剣の師でもある――は、小さく息をついた。
「決して、驚きめさるなよ」
「……?」
そう前置きし、小首をかしげる相手へ、ユキナガは、小声で囁いた。
「あれは、拙者より強うござる」
「……なんじゃと」
「拙者がここへ呼ばれた理由が、ようやくわかり申した。あの者を、いち早く拙者に見せたかったのですな……主上は」
そう呟くユキナガの眼は、熱を帯びて、ひたむきにゼッカを見つめている。呆気に取られている隣席の重臣などは、もはやユキナガの眼中にはなかった。
……そのゼッカは、慌てて身を起こし、ゴコウの「大丈夫か」という囁きに、苦笑を浮かべながら、あらためて正座した。
「は、恥ずかしいもんだな、こういうの」
「初めての登殿だからな、無理もない。家臣がたも、この程度の粗相を咎めたりはせぬよ」
「そうか……」
少し照れたように、ゼッカは肩をすくめた。
呼び出し役が、再び大声で告げる。
「オウミ三代国王、サワヤマ・ナナ様、御成ーりぃー!」
その声と同時に、居並ぶ重臣高官から下役人にいたるまで、一斉にその場へ平伏した。ゼッカも、あらかじめゴコウから教わったとおりに、拝跪の姿勢を取った。
足袋が壇上に擦れる音が、ゼッカには聴こえている。楚々とした足取りで、壇の中央へ進み、そこで向きをあらためる。
オウミの国王……果たして、いかなる人物か?
ゼッカは、何も聞かされていない。ゴコウに訊ねても、すぐにわかる――の一点張りであった。
「皆のもの、よう集まってくれた。苦しゅうない、面をあげよ」
冷ややかな――女性の、声。
その声に、ゼッカは聞き覚えがあった。あえて感情を出さず、務めて冷徹に振舞ってはいるが、この声は……。
ゼッカが、がばと顔をあげると。
壇上に、見知った顔がいた。
昨夜、ゼッカと剣を交えた師範代サナ――その人が、髪を整え結わえて、桜色の小袖に赤袴で端然と壇に座し、白面薄朱の粧い艶やかに、表情を打ち消し、静かにゼッカを見おろしていた。