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03:桔梗の花





 ゼッカの住む里は、オウミの国府から隔たること三百里の僻地。

 正式な地名はコガワ村という。もと旧ヤマシロ国領に属し、オウミ領に併合されたのがおよそ五十年前。


 隣のセッツ国との国境近い山あいに、わずか三十戸ばかりの田宅が点々と並ぶ小集落にすぎない。

 交通の不便はいうまでもなく、もっとも近いセッツ側の宿場町からでも山ふたつを越えねばならない。


 オウミ側から進むとなると、湖岸の無人地帯の林道を馬で三日かけて通り抜け、さらに盆地から山裾へとかかる勾配を丸一日延々とのぼり続けて、ようやく辿り着けるほどである。

 オウミの役人も、年貢の徴収以外では滅多には訪れない。


 ここには、薬売りなどの商人が稀に立ち寄る程度で、よその地域との交わりは少なかった。

 ために里の住人は、ほぼ自給自足の生活を送っている。


 嵐の去った夜半過ぎ。

 ゼッカは棲家の茅屋に戻り、囲炉裏に火を焚いて、濡れた身体を乾かしながら湯を啜っていた。


「なんとも、粗末なぼろ家だな。よく今日まで倒れずにきたものだ」


 無遠慮に呟いたのは、オウミのサムライ、ミナムラ・ゴコウ。

 ゼッカと向きあって火を囲み、濡れた胴衣を脱ぎ、半裸で胡坐をかいている。


 ゴコウの年齢は、二十代半ばというところ。眼光鋭く、顔つきは猟犬のように精悍で引き締まっている。

 ただ若さゆえか、いかにも青臭い生真面目な性分が、眉目に滲み出ていた。


「勝手についてきたくせに。嫌なら帰れ」


 ゼッカは湯気を顔に当てながら、憮然と答えた。


「だいたい、あんたみたいなサムライが、なんでこんなとこで決闘なんかしてたんだよ」

「それがしとて、なにも好きこのんで、こんな辺鄙な田舎へ来たわけではない。噂を聞いたのだ」

「なんの噂だよ」

「このあたりの山道に、焔熊(ほむらぐま)が出没し、土民が襲われたという話だ」


 焔熊。

 人の世を脅かす、妖獣の一体。


 その名の通り、全身が炎のような紅い体毛に覆われている。

 外見の身体的特徴は熊そのものだが、野生動物ではない。


 ヒグマを遥かに上回る体長一丈六尺余の巨躯と、武士に匹敵する身体能力を備え、その膂力は鉄をも砕くといわれる。

 性格は獰猛、狡猾。好んで人間を襲い、嬲り殺しにする嗜虐性をも併せ持つ。


 確認されている個体数は少ないものの、ヒノモト全土の山岳森林に出没し、ごく稀に、人里近くで目撃されることもある。

 焔熊に限ったことではないが、ヒノモトに跋扈する、生きた災厄――妖獣は、およそ凡人には手に負えない存在であり、討伐はもっぱら武士の仕事であった。


 妖獣の出没が報告された場合、土地の役所から国府へ討伐依頼が届けられ、しかるべきサムライが現地へ派遣されることになる。オウミの場合、害獣討伐斡旋方という専門部署が、その任にあたる。

 一方、その風聞を耳にして、他に先んじて妖獣を狩らんと、自発的に駆け付けてくる武士も少なくない。


「……つまり、あんたも、その焔熊を狙って、ここまで来たわけか」

「そうだ。みごと仕留めた暁には、国元から大きな褒賞が出る。それがしとしては、腕試しという意味で、焔熊とは一度やりあってみたかった。それで、噂を耳にして、すぐ勤め先に休暇願いを出し、急いで来てみたのだが……先客がいた」

「あのロウニンのおっさんか?」

「セッツから焔熊狩りに来たといっていたな。あとは大体想像がつくであろう」


 同じ目的で鉢合わせた武士が、仲良く協力しあうことなど滅多にない。

 必定、功に逸って互いに衝突し、決闘にまで立ち至った。武士の世界ではよくある話である。


「あの御仁は強かった。もし、きさまが途中で割って入らなければ、それがしはあっさり討たれていたであろうな」

「そうなのか?」

「それがしの未熟さゆえ、というのもあるが……。あの御仁、今頃は、また焔熊を探して、方々駆け回っているのであろう」

「……んー?」


 ゴコウが呟くのへ、ゼッカは何か気付いたように、小首をかしげた。


「ちょっと、ついてきな」


 ゼッカはそう云って立ち上がり、戸口を開けて、さっさと屋外へ出ていった。いったい何ごとか――と、慌ててゴコウもついてゆく。

 二人、連れだって茅屋の裏手へ回りこむと、大きな影のような物体が、地面を覆っているのが見えた。


 ゼッカは、その手前に、ゆっくりしゃがみ込んで、こう囁いた。


「あんたが言ってた、焔熊ってさ。もしかして、こいつのことじゃねえかな」


 そういわれて、薄い月明の下、ゴコウがよくよく目をこらしてみれば。

 そこにあったのは、さながら血のように赤い毛皮の、巨大な――熊。その大の字に横たわる、死骸であった。






「赤い……熊、だと」


 ゴコウは、その禍々しい骸を目の当たりにして、当惑気味に呟いた。


「いや、調べるにも及ぶまい。これこそ噂の焔熊であろう」


 その巨体は、ゴコウが風聞として耳にしていた以上である。どう見ても体長二丈は超えている。

 しかして体型は全身がっしりと引き締まり、丸太のごとき四肢にも死してなお隆々たる筋肉が浮き出ていて、凄まじい膂力のほどをうかがわせる。


 これが焔熊であることは誰の眼にも疑いようがないが、ゴコウの見たところ――そのうちでも、特に強力な個体であった可能性が高い。


「これはまさか、きさまが……?」

「ああ。俺がやった」


 短く応えるゼッカ。

 ゴコウは、瞠目し、あらためてゼッカの横顔を見た。


 いかにも土民らしく薄汚れた肌、まるで肉付きのない、いっそ骨と皮だけ――というも過言でないほど細く華奢な手足。

 そんな風体のどこに、かくも巨大な妖獣を打ち倒す力があるというのか。


「こいつ、親父の仇だったらしくて。だから、探して、ぶん殴ったんだよ。そんな大層な妖獣だとは知らなかったけどな」


 ゼッカの父親は、先年、この焔熊に遭遇して、嬲り殺されている。

 それがまた近頃、里の付近にも出没し、住民に新たな犠牲者が出た。


 里長は、急いで役場へ届け出たが、その返報が届くより先に、ゼッカが焔熊を追って山へ入り、早々に殴り殺したという。


「殴り殺した……って、素手で、こんな妖獣を?」

「見た目がゴツいから、よっぽど強いんだろうと思って、加減しないでぶん殴ったら、もう動かなくなっちまった。こういうの、見かけ倒しっていうんだろうな」

「いやいや、そんなはずは無かろう……きさまがおかしいだけだ」


 ゴコウは、もはや呆れ果て、肩を落して嘆息した。

 先ほどの一件もそうだったが、ゼッカは己れの実力というものについて、自覚を持っていないらしい。強さの基準も明らかに世間とずれている。


「よけりゃ、あんたにやるよ。これ」


 ゼッカは言った。


「こんなでっかい死骸、いつまでも置いておけねえしな。あんたが持ってけば、褒賞ってのが出るんだろ?」

「――譲ってくれるというのか」


 ゴコウは、ゼッカの唐突な提案に、それは有り難い――というような顔色を浮かべかけたが、すぐさま表情を打ち消し、首を振った。


「ああ、いや、それはいかん。これはきさまが仕留めたものなのだろう? ならば当然、褒賞を受ける権利も、きさまにある」

「そう言われても、どこに持ってきゃいいかも知らねえし。褒賞ってのも、そんなに興味ねえしな」

「場所や手続きについては、それがしが教えてやろう。……そうだ。そういうことならば、それがしも帯同してやる。褒賞はむろんのこと、こんな妖獣を討ったと聞けば、国元もきさまを放ってはおくまい。武士の適性が認められるのは当然として……さらには、その功績によって、すぐさま国への仕官をも打診されるはずだ」

「俺が、武士に……」


 ふと、ゼッカの目もとに、かすかな笑みが浮かんだ。


「あんた、さっきも、そんなこと言ってたな。ほんとに俺、武士になれるのか?」

「ほう。そこは興味があるのか」


 ゴコウの言葉に、ゼッカは、素直にうなずいてみせた。


「他の事はよく知らねえけど、武士の話だけは、薬売りのじいさんから、色々と聞いてたんだよ。良い話も、悪い話も。小さい頃からな」

「薬売り? 行商人か」

「そう。あっちこっち仕入れと商売で旅して回ってるんだと。この里には年に二、三度来るんだ。取引先には大きな武家もあるって、よく自慢してたな」

「それで……きさまも武士に興味を持ったと」

「ああ。それに、ロウニンの諍いも、隣り村のほうで、何度か見てる。話したこともある。なんでも、武士は年貢を納めなくていいし、賦役も免除されるんだってな。なんとも羨ましい話だと思ってさ」

「それは、確かにそうだが……そんな理由で、武士になりたいと?」

「悪いか? 俺ら庶人にとっちゃ、そりゃもう夢みたいな話だよ。あんたらにゃ、わからねえだろうけど」

「……いや、わからん話でもないが」


 ヒノモトの武士は、資格であり、身分でもある。

 庶人でも、武士としての実力さえ備わっていれば、正式な資格認定を受けることができる。


 認定条件は厳しいものの、それを満たすことで、一躍、様々な特権を享受する身分となれる。ゼッカが語った年貢や賦役の免除などは、その一部にすぎない。

 たとえ城仕えのサムライでなく、無所属のロウニンであっても、武士の資格があれば、庶人に課される制約のほとんどから解放され、どこでも帯刀したまま任意に国境を越えることができる。


 ただし、まったく自由というわけでもない。

 武士には、庶人とは異なる法度と倫理と価値観があり、独特の掟と戒律がある。


 すなわち――武士道。

 庶人とは住む世界が異なる、と言ってもよいであろう。


 たとえば、武士の決闘という行為も、庶人どうしの喧嘩などと同一視できるものではない。

 ただの殺し合いではなく、厳格な作法に則って進行し、その戦いを祖霊へ奉納するという、一種の儀式行為としての側面を持つ。


 先刻、ゼッカが林中の決闘に割って入ったとき、ゴコウが激昂したのも、ゆえなきことではなかった。

 庶人による奉納儀式の一方的中断――武士道を愚弄するがごとき不遜さを、ゼッカの行為と態度から感じ取ったためである。


(いくら外の風聞をききかじったとて、所詮、いまのこやつは、まだまだ武士を知らぬ。だが、正式に武士となれば、いずれ、身をもってわかる時も来よう。武士道のなんたるかを――)


 ゴコウは、あらためてゼッカのほうへ向き直った。


「よろしい。ゼッカ、きさまにその気があるなら、委細それがしに任せておけ。必ず、きさまを武士にしてやろう」

「おう。……ってことは、俺は、オウミのサムライになるのか?」

「そうだな。焔熊討伐の武士ともなれば、すぐに仕官の話が来るはずだ。もっとも、条件が気に入らなければ交渉はできるし、拒否することもできる」

「へえ、そうなのか。なら、そのへんは、また後で考えればいいんだな」

「そういうことだ。夜が明けたら、国府へ向かおう。色々と手続きがあるから、しばらくは戻ってこれんぞ。いまのうちに荷物をまとめておくといい」

「そんなもん、なんにもねえよ。……でも、そうだな」


 ゼッカは、何か思いついたように、顔をあげた。


「どうした」

「ちょっと挨拶してくる。夜明けまでには戻るから、あんたは家にいてくれ」


 応えるが早いか、ゼッカは勢いよく茅屋を離れ、山裾めがけて突風のごとく駆け出した。

 たちまちゼッカの背は夜闇に溶け、消え去ってゆく。


「挨拶……? こんな夜更けにか」


 見送りつつ、ゴコウはひとり、小首をかしげた。






 ゼッカが訪れたのは、草深い山森の懐。

 ――見上げれば、鬱蒼と茂る枝々の隙間から、藍紙に銀粉を刷いたような星空がのぞいている。


 ホー、ホー……と、遠く、ミミズクの鳴く声が聴こえていた。

 森の奥にそびえ立つ大樹。その根元近くに、土を盛りあげただけの、ごく簡素な塚がある。


 里の共同塚であり、里人は死ねば皆、ここに埋葬されるのが、昔からの慣わしであった。

 ゼッカの両親も、この塚の下に埋められている。


 塚の周囲に、小さな檀がしつらえられ、里人たちの供え物が置かれていた。木彫りの人形や、水の入った小椀など。

 まだ真新しい草花も、檀に横たわっている。その青い桔梗の花は、つい昨日、ゼッカ自身が、ここに供えたものであった。


「とうちゃん、かあちゃん」


 ゼッカは、塚の前に立つと、檀にもう一輪、摘みたての桔梗を置いた。両親がとくに好んでいた花だった。


「……俺、武士になれるらしいよ」


 ゼッカは、塚に向かって、静かに語りかけた。

 無論、返事はない。


「だから、行ってくる。心配しないでいいよ。俺、もう大人だから」


 微風が、ふわりと、ゼッカの頬を撫でた。

 頭上の枝葉が、さわさわと揺れて、ゼッカの肩に影を投げかける。


 ゼッカはうなずいた。まるでその穏やかな風が、亡き両親の声でもあるように、ゼッカは感じていた。


「うん。いつになるかわからねえけど……また、帰ってくるから」


 ゼッカは、大樹の塚に背を向け、歩き始めた。

 風は止んで、また遠く、鳥の声だけが響いている。


 やがて意を決したように、ゼッカは顔をあげ、土を蹴って走りだす。

 そのまま、一度も振り返ることなく、ゼッカは、夜の山道を駆け抜けた。





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