02:武士
細い肩を、雨に打たれながら――。
少年は、ぽそりと呟いた。
「……ずいぶん派手に倒してくれたな」
言いつつ、左右を見渡す。その視線の先にあるのは、ロウニンの衝撃波で薙ぎ倒された林の惨状。
幹をへし折られた十何本もの倒木が、無残な姿で連なり横たわっている。
「このへんの木はさ。勝手に生えてるわけじゃねえんだよ。里の人らが植えて、世話してきた林なんだ。あんたらみたいなのに、ここで暴れられちゃ困るんだよ」
聞きながら、ゴコウは小首をかしげた。この小汚い少年は、いつ、どこから湧いてきたのか?
そして、何を言っているのか?
「わははははは」
哄笑が響いた。
「あー、いやいや、そうか。小僧よ、これは済まないことをした」
いつしかロウニンが起き上がって、泥に足を浸し、なぜか笑っていた。
「木を倒したのは、かくいう、それがしだ。弁償などはできぬが、謝罪はさせてもらおう」
何が楽しいのか、やけに快活な声を少年へ投げかけてくる。
少年は、いささか怪訝そうな眼差しをロウニンへ向けた。
「わかってくれりゃ、それでいい」
「おお、そうか。話が早くてありがたい。で、ときに小僧、名はなんという?」
「聞いてどうするんだよ」
「なに、知っておきたくてな。それがしと、そこのサムライどのの間に、いきなり割って入って突き飛ばした、とんでもない豪傑の名前をな」
やりとりを聞きながら、ゴコウは、ロウニンの言葉に、ひとり唖然としていた。
あのロウニンは、いま何を口走ったのか。
――武士の決闘のど真ん中へ割って入り、両者を突き飛ばした……確かに、そう言った。
自分を突き倒した黒い影の正体が、こんな少年だというのか?
ありえない――武士の動きは、武士でなければ止められない。では、この少年は武士なのか? そんな筈はあるまい。
こんな、見るから貧相な土民の子が、武士であるわけがない。何かの間違いではないのか。
「ゼッカだ。ついこの間から、そう名乗ってる。豪傑かどうかは、知らないけど」
その少年……ゼッカの返答に、ロウニンは、いかにも興味深いという顔つきで、うなずいてみせた。
「ゼッカ……ね」
「……俺のことは、どうでもいいだろ。それより、殺し合いなら、どっか他所でやってくれねえかな。ここでやられちゃ迷惑だからさ」
ゼッカが面倒くさげにそう告げるや――。
「控えろ、下郎ッ!」
ゴコウが勃然、泥をはねあげ立ち上がった。
「黙って聞いておれば、なにが迷惑だ! 薄汚い下民の分際で、武士の決闘を愚弄するかッ!」
面に血をそそぎ、怒声一喝、ゼッカへ向けて太刀を振りかざす。
「あー、やっぱり、こうなるか……」
ゼッカは、ゴコウの剣幕に臆するふうもなく、ただ呆れたように溜息をついた。その物怖じせぬ態度からは、土民に似あわしからぬ不遜さが滲み出ている。
ゴコウはゼッカの振舞いに、己れへの侮辱を感じ、さらに怒気を募らせて、太刀を振り上げた。
「下郎! そこへ直れ!」
ここオウミの国において、城仕えのサムライには、切り捨て御免の特権が認められている。
そう滅多に行使されるものではなく、実際に庶人を切り捨てた場合、世間に好ましからざる風評が立つことは覚悟せねばならない。
それを踏まえてなお、ゴコウはゼッカを本気で斬らんとしていた。
……さしも荒れ狂っていた風雨も、次第におさまりつつある。
濡れた白刃から水滴をふりこぼし、ゴコウはゼッカを睨みつけた。
「はははははは!」
横から、またもロウニンの呵々たる笑声が響いた。
「おい其許、何を怒っている。それがしに負けかけたので、八つ当たりか?」
「八つ当たりなどではないッ! 武士たるもの――」
「やめとけ、やめとけ。其許の腕前では、その小僧は斬れんよ」
悠然と告げるロウニン。
「なにを馬鹿な! こんな下民ごとき!」
ゴコウの叫びに、ロウニンは、わずかに目を細めた。
当のゼッカは、ぼりぼりと頭をかきながら、両者のやりとりを、つまらなさげに眺めている。
「其許は見えていたか? 先ほど、それがしらを突き飛ばした、小僧の……ゼッカの動きを。それがしでさえ、目の端に、ちらと顔が見えた程度だ。其許はどうだ?」
「あ、あれは、何かの間違いであろう! このような小僧に、あんなことができるはずは……」
「石頭め。やはり無理だ。やめたがいい」
「ええい、ならば見よッ!」
ゴコウの刃が月光のごとく閃き、風を切ってゼッカの頭上へ迫る――。
刹那。
鈍い金属音が、ゴコウの鼓膜に響いた。
ゴコウは全力で踏み込み、両腕を振り抜いていた。
本来ならば、ゴコウの一刀は、小癪な下郎――ゼッカを、頭から真っ二つに斬り下げているはずだった。
だが、ゼッカは依然、そこに立っている。
(……え?)
ゴコウの眼前で、銀に輝く破片のようなものが、宙を舞っている。
それは、太刀の刃先――だった。
ほどなく、落ちてきた刃先が、ゴコウの足元近くの地面に突き立った。
ゴコウは、信じられぬものを見るように、地に刺さる刃先と、いま振り下ろした自身の太刀とを見比べた。
「なんだ……これは」
太刀が――刀身の半ばから、折れている。ゴコウにも、それだけはわかる。
だがいったい何故か? いま何が起こったのか?
驚き戸惑うゴコウの耳へ、ゼッカの、やけにのんびりした声が届く。
「あー、折れちまったか」
ゴコウは、思わず、がばと顔をあげ、ゼッカの姿を凝視した。
「きさま、何を言っている……?」
「いや、危ないと思ったんで、こう、指で弾いただけだよ」
「指……で」
呆然と呟くゴコウ。
武士の動体視力は、超音速で動く物体をも捕捉する。ゴコウとて例外でない。しかし――。
(見えなかった)
この貧相な土民の子が、いま何をしたのか。
ゴコウの目には、まるで捉えられなかった。
「だから、よせと言ったろうが」
横からロウニンが声をかけてくる。ゴコウは、折れた太刀を掴んだまま、慌ててロウニンのほうへ顔を振り向けた。
「そっ、其許は、見えていたのか? こやつが何をしたのか」
「それが……軽く、右手を動かすところまでは見えたが……」
「なんと?」
「速すぎて、見えなかったのだ。いったい何がどうなったのやら」
「べつに、たいしたことじゃない」
二人のやりとりを聞いていたゼッカは、右手をつと前へ伸ばして、ピンッと人差し指を宙に弾いた。
次の瞬間。
ロウニンの背後で、太い倒木の幹が、音高く砕け散った。
「こんな具合に刀を弾いてみたんだ。ちょっと加減間違えて、折っちまったけど」
ゼッカは何事でもないように、平然と言ってのけた。
「あ、でも謝らないからな。先に手を出してきたのは、そっちだし。これで気が済んだなら、もう帰ってくれよ」
淡々と告げるゼッカ。
その姿を前に、ゴコウは、ただ呆気に取られていた。ロウニンでさえ、あからさまに動揺し、かつ瞠目している。
ゼッカがやってみせた芸当は、凡人に模倣できるようなものではない。
刀も用いず、指先ひとつで衝撃波を生み出すなど――武士でも、よほどの修練を積まねば、到底なしうるものではなかった。ゴコウ自身、まだそのような域には、まるで達していない。
いつしか、ゴコウの背に冷たい汗が流れていた。
怒気も興奮も、とうに消し飛んでいる。
(なんだ……なんなのだ。何者だ、こやつは)
ゴコウは、もはやゼッカを、貧相な土民の子とは見られなくなっていた。
認めざるをえない。この少年――ゼッカは、明らかに、武士の力を備えている。それも、途方もなく大きな実力を。
ロウニンの忠告は正しかった。
ゴコウでは、ゼッカを斬ることなど不可能だった。
そのロウニンは――と見やれば。
既にその場にいなかった。忽然と姿をくらましている。
(……逃げたな)
ゼッカの一撃によほど驚いたのか、風を食らって逃げ走ったらしい。
あるいは何か、別の意図があって立ち去ったのかも知れないが、そこまではゴコウのあずかり知るところでない。
ともあれ、勝敗はうやむやとなったが、相手が退散した以上、決闘の始末はついたといえる。
ゴコウは折れた太刀を鞘に収め、やや態度をあらためて、ゼッカへ問いかけた。
「……いったい何者だ、きさまは」
「もう名乗っただろ? ゼッカだよ」
「それは聞いたが、武士ならば家名があろう」
「え?」
ゼッカは、きょとんとまばたきをした。
「俺は庶人だ。そんなものは無いぞ」
「そんなはずはなかろう。それほどの力を――」
「いや、本当に違うから。だいたい、刀を握ったこともねえぞ、俺は」
「……?」
ゼッカの弁に、ゴコウはしばし怪訝そうな顔つきで、ゼッカを見つめた。
……が、やがて、なにか気付いたように、納得げな面持ちを浮かべた。
「なん……と。そういうことか……。天下は広いな……」
「ん? なんだよ、どういうことだ」
「いいか。ゼッカとやら。よく聞け」
ゴコウは、ゼッカの顔を見つめて、静かに告げた。
「田舎者ゆえ、これまで、己れの真価を知らず、ずっと埋もれ木となっていたのだ。きさまは」
「……真価?」
「そうだ。それがし……オウミのサムライ、ミナムラ・ゴコウが、保証してやろう。きさまには、武士を名乗れるだけの力がある」
そう云われるや、ゼッカは、さも意外そうな眼差しをゴコウへ向けた。
「武士? 俺が……?」
いつしか風雨は去り、暗い山裾に虫の声だけが聴こえている。
雲間にのぞく三日月から、仄かな光が地上へ差し込み、ゼッカの頬を青白く照らし出していた。