18:月下の剣(後編)
サワヤマ・ナナが庭へ姿を現すや、前門や回廊のほうで、どやどやと新たな人声や足音が響き、松明や提灯を掲げた捕吏の人数が、その場へ踏み込んできた。
「ゼッカよ。見事な戦いぶりであったぞ」
ナナは、赤々照りつける篝火に、白い頬をやわらげ、満足げに微笑んでみせた。
その様子と言動からして、おそらく、ゼッカが八人同時に相手取ったあたりから、ナナはすでに前棟に着いて、ひそかにゼッカの立ち回りを観察していたやに思われる。
「そりゃ、どうも……」
ゼッカは、なんとも間の抜けた顔つきでうなずいた。
この場に、わざわざナナが駆け付けてくるとは思っていなかったのである。
ただ、内心、助かった――という安堵はあった。
女武士の告げた、火付けの企て。
勢いよく啖呵を切ったはいいが、実際、本当に独力で対処しきれるものかどうか、ゼッカには、成算などなかった。
そこへ、ナナが先手を打ってくれたという。
「サワヤマ・ナナだと……」
ゼッカ以上、唖然としていたのは、その黒装束の女武士であった。
「なぜ、ここにいる。陽動は、うまくいっていたはず」
女武士の呟きに、ナナは端然たる笑みを向けた。
「我が国には、かつてイガの隠密頭を務めておった者もおる。汝らごときの手管など、あやつの目からすれば、児戯にも等しかろう」
すべてはお見通し――と、言外にナナは告げた。
「……クサカ・ゲンジョウか」
女武士は呻いた。
イガは小国ながら、隠密向けの人材育成に定評のあった国である。クサカ・ゲンジョウは、もとイガの旧臣で、諜報方の大元締めとして知られた人物だった。
イガの滅亡後、クサカがオウミの家臣となるにあたって、クサカが抱えていた隠密組――諜報組織網の精鋭も、そのままオウミの裏方に組み込まれ、現在もヒノモト各地で情報収集などに暗躍している。
ゼッカをめぐる一連の諸国の動静も、ナナは、クサカを通じて掌握していた。
最初から、事態はすべて、ナナの掌の上で進行していたのである。
そうするうちにも、十数人という捕吏が、刺又や熊手をかかげて、すっかり包囲を完成させていた。ゼッカが峰打ちに倒した襲撃者らは、既に全員縛りあげられている。
「さて」
ナナは、あらためて、女武士と向き合った。
「残るは、そち一人。おとなしく縛につくか。それとも、なお抗うか。選ぶがよい。そちも武士ならば、自刃などと、つまらぬ真似はしてくれるなよ?」
ナナの双眸が、冷ややかに女武士を射すくめた。
女武士は、観念したように息をつくと、顔を覆っていた頭巾を取り払った。
ナナよりは年長であろうが、素顔は、まだ二十歳を過ぎたかどうかという若さ。
右頬に、古い刀傷の痕が、夜目にも見えるほどくっきり浮かんでいる。
眉細く睫毛長く、眼は黒々と大きい。
「……抗って死ねというなら、ひとつ、望みがある」
素顔を晒した女武士は、なお泰然として、ナナに告げた。
「ほう。この期に及んで、何を求める」
「されば」
ただならぬ覚悟、熾烈な意志を眼光に込めて――。
「そこな小僧……サワヤマ・ゼッカへ、決闘を申し入れたい」
女武士は、ひたと、ゼッカを睨みつけた。
武士の決闘。
試合と異なり、真剣による、一対一の殺し合いである。
よほど特殊な状況での引き分けを除き、勝負は、どちらか、もしくは両方の死をもって決着となる。
特殊な状況とは、天災などの妨害により、双方ともに勝負の続行不能と判断した場合のことで、そう滅多にあることではない。
ゼッカも、道場の座学としてではあるが、すでに決闘の作法は修めている。
武士を名乗り、またその大成を志す者にとって、決闘は、避けて通れぬ道程であった。
ゆえに。
「……承知した」
――ゼッカは、受けた。
決闘を挑まれても、理由をつけて拒むことはできる。命を惜しむことが、時に必要な場面もある。
今は、そのような状況ではない。
女武士は、いまここに追い詰められ、最後の意地と面子をかけて、ゼッカへ挑むという道を選んだ。
おそらく、すでに命を捨てる覚悟を決めている。
そのような相手をすげなく拒絶しては、これも武士たる者の面目にかかわる。
面目――武士独特の価値観のなかでも、格別に重要視される徳目である。
武士が決闘にまで至る理由のほとんどが、まさに、この面目を保つためというも過言ではなかった。
ともあれ、ゼッカが女武士の挑戦を受け入れたことで決闘の要件が成立した。
ここから先はいわゆる神前であり、決着が付くまで余人の容喙は許されない。
両者があらためて向き合うにあたり、ナナが一言、ゼッカに注意を与えた。
「全力で斬れ」
決闘とは、武士が互いに全力を尽くし、その戦いぶりを祖霊たるモノ・ノベに奉納する儀式である。手加減は許されない。峰打ちなど、もっての他である。
ゼッカの実力ならば、相手を殺さずに無力化することは容易であろう。だが決闘の場において、それは礼儀にも作法にも反する行為だった。
ナナはあえて、その点でゼッカに釘を刺したのである。
「わかった」
と、ゼッカは短くうなずいた。
ナナは、捕吏による包囲を解き、指示を下して、庭の隅へ退けた。
決闘の妨げとならぬよう、ナナ自らも、回廊のほうに身を置き、十分な距離を取った。
月は沖天に皓々と輝いている。
この月下に、ゼッカと女武士は、およそ十歩の間を置いて向き合い、一礼を交し合った。
決闘においては、強いて名乗りを上げる必要はない。
互いに、ただ、刃をもって語らう――名も肩書きも、武士の決闘には無用というのが、ひとつの通念となっている。
いったん、両者同時に鞘より太刀を抜き、高々と掲げてみせる。
その状態で、祖霊への宣誓を行なう。文言は、流派や出身地などによって、微妙に違いがあり、統一されていない。
ゼッカは、ミナムラ流の誓言を行なった。
「天、照覧あれ――」
続いて、女武士が誓言を発する。
「御霊に捧げ奉る――」
誓言を終えると、両者、同時に太刀を鞘に戻す。
二人の刃が鞘に収まる、まさにそこからが、決闘の始まり。
合図もなく、立会人もない。
あとは、堂々渡りあうばかり。
ゼッカは、再び太刀を抜き放つや、ミナムラ流剣術の基本型、半歩正眼という構えを取った。
女武士は、あえて抜かず、柄を両手でしっかと握りながら、重心を下げ、ゼッカを見据えて、踏み込む機を、その一瞬への呼吸を、ひたすらに練っている。
その型こそ、居合い――戦国期に生じた、比較的新しい剣術のひとつという。
抜刀の速度と威力をもって、対象を一斬に屠り去る、一撃必殺を信条とする高等剣技。ゼッカにとっては、まったく未知の剣であった。
ともに、なお動かず――張り詰めた気配、研ぎ澄まされた静寂のなか、互いの呼吸、心臓の鼓動すら、はっきりと聴き取れる。
そうして、立ち会うこと数瞬。
ふと、楓の枝葉が、微風にざわめいた。
女武士が、真っ黒い幻像と化して、ゼッカのもとへ飛び込む。
太刀を抜く――前に。
ゼッカも、一歩、踏み込んでいた。
斜め上から振り下ろされるゼッカの白刃は、女武士の視界に、月光よりなお眩く、鮮やかに映じた。
命脈を断つ、一閃。
居合いの刃を抜く間すらなく、女武士は袈裟懸けに斬り裂かれた。
ゼッカの剣先は音速を超え、そこから生じた余波は、彼方の土塀にまで達して、一帯の外壁をも粉砕した。
決闘は終った。
ただ一閃にて。
女武士は、肩から胴まで斜めに斬りおろされ、噴血をあげて絶命し、地に打ち斃れた。
あまりに一方的な、かつまた圧倒的な、戦いともいえぬ戦い。
それを見ていた捕吏の衆も、さらにはナナでさえも、絶句していた。言葉も出なかった。
血霧漂うなか、人々の瞠目を浴び、ゼッカは勝者に似合わしからぬ神妙な面持ちで、わずかに眉をひそめつつ、太刀を鞘に戻した。
……初めて、人を斬った。
その事実が、ゼッカの意識に、わずかに暗い陰翳を投げかけていたのである。
しかし、それ以上に――。
戦いに。真剣による対峙、その命のやりとりという一連の行為に。
全身の血が煮えるような熱さを、ゼッカは自覚していた。
本能が、戦いを求めている。闘争を嗜む――武士の血とは、そういうものなのだろう。
その武士たる感覚と、十四歳の少年に過ぎぬゼッカ本来の素朴な感性とが、複雑にもつれあって、ゼッカの眉を曇らせていた。
「そう辛気臭い顔をするでない」
ナナが、静かにゼッカのもとへ歩み寄ってきた。
「ひとつ、褒美をくれてやろう」
無言で立ちつくすゼッカへ、つと、ナナは身を寄せ、両手を広げて――。
ゼッカを、抱きすくめた。
「え……」
驚くゼッカの耳もとへ、ナナは、そっと囁いた。
「よく頑張ったな。アタシの婿殿。もう大丈夫。後のことは全部、アタシに任せとけばいい」
ナナの胸は、麝香の匂いがした。
その心地よい芳香と、ナナの温もりに包み込まれて。
ゼッカは、安堵の想いとともに、静かに瞼を閉じた。




