14:秘剣
ゼッカが武士となってから、およそ半月が過ぎた。
依然、ゼッカはミナムラ道場へ住み込み、修行に励んでいる。
正しく剣術を学び、それによって、自身の強すぎる力を的確に制御する術を身に付ける。それがゼッカの修行の目的である。
ゼッカ当人は、武士として、また剣士としての向上心など、たいして持ち合わせてはいない。つい先日まで一庶人に過ぎなかったゼッカに、いきなりそうした自覚を持てというほうが無理な話である。
ユキナガの剣技が、ただ、素直に、凄いと思えた。
ナナが言うには、修行すれば、ゼッカにもできるはずだという。
是非修行をすべきだ、とナナは勧めた。
たんに、酒宴の余興としてユキナガの技を見ただけなら、ゼッカは、わざわざ道場への入門まで考えなかったであろう。
他ならぬナナが勧めてきたからこそ、なぜとはなしに、それに応えたい、とゼッカは思ったのだ。
それに、正式にサムライとはなったが、まだ定まった職場も職務もあてがわれていない。
そのうえで、主君たるナナが修行を薦めてきたということは、それが当面、自分に課された仕事ということであろうと――ゼッカは解釈していた。
だから、ゼッカは修行している。
実際に修行を始めてみると、辛くもあり厳しくもあるが、それ以上に、楽しさを見出していた。
修行し、上達を楽しむ――いまのゼッカは、庶人の頃とは比較にならぬほど、日々充実していた。
道場内。
四囲の壁面、床、天井まで、ぶ厚い灰色の鉄板に覆われた異様な空間である。
武士の太刀筋はしばしば音速を超える。その衝撃波の威力は、木造の壁など容易に粉砕する。武士の練磨育成を目的とする各地の道場において、まずなにより求められるのは、武士の全力に耐えうる構造であった。
ことにミナムラ道場の内壁は、希少金属とされるヒヒイロカネを用いた特別製の合金で覆われており、このうえなく強固に造られている。
この日、その道場の真ん中で、ゼッカは道場主ミナムラ・ユキナガから直接指導を受けていた。
「いましばらく、その姿勢を維持されよ。呼吸は、教えた通り、鼻から吸って口から吐く――このとき、肩から腕へ、ゆっくり力を流すことを意識なされい」
「や、やっぱ難しいな、これ……」
「呼吸法というのは、頭で考えているうちは、なかなか身に付かぬもの。体で憶えるしかござらぬ。そら、軸がぶれていますぞ」
ユキナガは、言葉は丁寧ながら、指導は厳しい。
ゼッカは既に、ミナムラ流の「型」については、ひと通り教わり、修得を終えている。
天稟というべきか、並の武士ならば数年がかりの過程を、ゼッカはわずか十日ほどで駆け上がり、免許皆伝にまで達していた。ミナムラ流道場の一般門人として教わるべきことは、すべて学び終わっている。
ために、ゼッカの稽古着も、入門当初の白い胴着から、師範のみ着用を許される青い胴着へと変わっていた。
いまゼッカが指導を受けているのは、免許皆伝のさらにその先――本来、門外不出の秘奥義ともいうべき技術である。
抜き身の真剣を正眼に構え、やや右足を前に出して、重心を前面に置き、独特の呼吸によって、精神を研ぎ澄まし、全身の力の流れを制御する――。
この構えからは、たとえ全力で踏み込んでも、すでに重心が前面にあるため体重移動が浅く、斬撃の威力は減衰する。
一方で、呼吸による制御ができていれば、あえて大きく踏み込まずとも、安定した姿勢と精神の集中により、鋭く、精度の高い衝撃波を繰り出すことが可能になる。
これを名付けて、飛刃落葉という。
極限の集中と制御により、枝から舞い落ちるひとひらの枯葉を、衝撃波のみで真っ二つに斬るという、剣聖ミナムラ・ユキナガの秘剣。
衝撃波を集中し、鋭利な一刃と化さしめ、方向自在に宙へ放つ。
ミナムラ流始祖、剣聖ミナムラ・エンジョウが独自に編み出した剣技とされ、その技法は代々ミナムラ家に受け継がれてきたものの、実際に飛刃落葉を修得しうる者は長らく現れなかった。
もとより、武士として高い地力が求められる。加えて、髪一本の誤差も許されぬ完璧な太刀筋、呼吸による力の制御、極限まで研ぎ澄まされた感覚と意識の集中。そのいずれかひとつでも欠ければ、決して再現しえない、繊細きわまる技である。
超人たる武士のなかにあっても、さらに飛びぬけた実力と天賦の才あってはじめて会得しうる、最高難度の剣技――。
流派創始九十余年にして、始祖以来、初めてその飛刃落葉を修めた者こそ、現ミナムラ流当主ユキナガ。
この一剣をもって、イズミの皇帝家は、ユキナガへ剣聖の称号を贈り、ミナムラ流の名は天下に鳴り響いた。
ゼッカは、飛刃落葉にまつわる、そういった事情について、まだ何も知らない。知らぬままに、ユキナガの懇切なる直接指導を受けて、日々、少しずつではあるが、着実に上達を続けていた。
現状、ヒノモトにおいて考えうる、およそ最高の育成環境を、ゼッカはまったく無自覚に享受しているといえよう。
具体的な鍛錬の内容は。
――二十歩の距離から、卓に置かれた一本の蝋燭を、飛刃をもって、横ざまに斬り落とす。
というものである。
蝋燭には火が灯されている。この火を消してはならない――どころか、斬り落す瞬間まで、微塵も風圧などに揺らめかせてはならない。
また、蝋燭の背後は壁面で、そこに衝撃波を当てることも許されない。
「では、始められよ」
真剣を構えたゼッカへ、静かにユキナガが促す。
薄暗い道場内、二十歩先に、炯々たる灯火が輝いている。
ゼッカは、きっと目をこらし、ひたすらに、小さな蝋燭へ意識を集中させた。
力を込めすぎてはならない。
飛刃の要諦は、速さよりも、鋭く、精確な太刀筋を描くことにある。
「――!」
しんっ、と、ゼッカの太刀が、横薙ぎに閃いた。
次の瞬間――。
灯火はかき消え、蝋燭は、ばらばらの破片と化し、卓より砕け落ちた。
「……あー。まだまだ、かぁ」
ゼッカは、小さくうなだれた。
衝撃波を刃として飛ばす、いわゆる飛刃を放てる状態まで、あと一歩というところまで到達している。
しかし、その威力を、まだ制御しきれない。刃というより鈍器が飛んでいるようなもので、蝋燭を斬るのではなく、砕き割ってしまう。
とはいうものの、最初にこの鍛錬を実際にやってみたとき、ゼッカは蝋燭どころか、それを載せる卓まで、跡形なく粉砕してしまった。
それが今では、卓や背後の壁面には当てず、どうにか蝋燭だけに的を絞れるまでに上達している。鍛錬の成果は、確実に芽を出しはじめていた。
「本日は、ここまで。続きは、また明日といたしましょう」
ユキナガがおごそかに告げると、ゼッカは深々と一礼し、大きく息をついた。
道場主の直接指導はこれで終わったが、まだ一日分の稽古が済んだわけではない。ゼッカはこの後も、教わった姿勢と呼吸法を身体に憶えさせるべく、日暮れまで、稽古を続けることになる。
熱心にも、再び真剣を構えるゼッカ――その姿を横目に、ユキナガは静かに道場を後にしながら、内心では、ゼッカの上達速度に舌を巻いていた。
ただし、ユキナガの見るところ、ゼッカに、飛刃落葉を完全に継承しうる素養は、いまだ備わっていない。
威力や速度はともかく、ゼッカの太刀筋には集中力も繊細さも欠けている。
桁外れの身体能力が、かえって仇となり、制御が難しい。
こればかりは、一朝一夕の鍛錬で身に付くものではない。年単位の修行が必要になるであろう、とユキナガは判断していた。
(簡単に会得されても、それはそれで困るのだがな)
ユキナガ自身、始祖の秘伝たる飛刃落葉の再現に着手してから、それを成し遂げるまでに、五年もの歳月を費やしている。
たとえゼッカに天地を覆すほどの才幹があろうと、そうやすやすとミナムラ家の奥義を再現されては、ユキナガの立つ瀬がないというものであった。
ゼッカは、おそらく武芸全般において、すでにユキナガを凌駕するだけの武力を備えている。しかし、この技は、ある意味ゼッカとは最も相性が悪く、修行は茨の道とならざるをえないであろう。
「おう。師匠じゃねーか」
道場を出て、回廊へ歩を進めるユキナガへ、はたと、声がかかった。慌てて庭先へ振り向くと、青い胴着姿の女剣士――サワヤマ・ナナその人が、大股に歩み寄ってくるところだった。
「主上……また、勝手に抜け出してこられたのですか」
「ははは。まあな」
ユキナガが呆れ顔で呟くと、ナナはおかしげに笑った。化粧もほどこさず、髪をさばき、まったく素顔のままである。
「ゼッカどのなら、まだ道場におられますよ」
「そうか。よーし、またいっちょう、派手に打ちあってやるかな」
ゼッカの入門以来、ナナは三、四日おきに御殿を抜け出し、ミナムラ流師範代サナとして道場に姿を現している。
よほどゼッカのことが気になるようで、その稽古につきあったり、木刀で立ち合ったり、ゼッカとじゃれあうのを楽しみにしているふしすら見受けられた。
ゼッカのほうでも、ナナが来訪すると、たいそう嬉しげに相手をしている。傍目には、実に仲睦まじい取り合わせに見えていた。
だが――と、ユキナガは、表情をあらためる。
ナナが道場へ現れる目的は、なにもゼッカに会うためばかりではない。
小声で、ナナはそっとユキナガの耳元にささやいた。
「ようやく、動いたようだ。詳しい話は、あとで聞かせてやろう。先に御殿へ行って、待機しておるがよい」
告げるや、ナナは、何事でもないような顔して、悠々と道場へ向かってゆく。
ユキナガは、無言でその背へ一礼すると、厳しい顔つきで踵を返し、急ぎ足で、その場を立ち去った。




