01:決闘
暗夜。
貧しい土間の囲炉裏に、いまにも消え入りそうな火が、ぽそぽそと燻っている。
ひとり――少年が、その炉辺に蓆を延べて、鍋を火にかけ、静かに、椀をかきこんでいた。
身なりは、いたってみすぼらしい。粗末な麻の平衣と日焼けした肌には砂がこびりつき、背中まで伸びたざんばらの黒髪は垢に汚れている。
小柄で肩幅狭く、肉付き薄く、四肢は棒のように華奢でか細い。容貌はあどけなく、少年というより垢抜けぬ女童のような印象すらある。
ただ、垂らした前髪の下に時折のぞく双眸は、その外見にも似げず眼光厳しく、見る者を射すくめるような鋭さがあった。
窓外は瀟条たる雨。
――その雨音が次第に激しくなってきた。
吹き付ける強風に、家全体が、ぎしりぎしりと軋みをあげている。
「荒れてきた」
誰にともなく呟くや、少年は空になった木椀を放り捨て、蓆に身を横たえた。
囲炉裏の残り火が、長い黒髪を赤々と照らす。その熱から逃がれるように、ぴょんと一匹、蚤が跳ねた。
ゼッカというのが少年の名である。十四歳。
幼名はゼツといったが、つい先日、成人の儀を終え、そう正式に名乗るようになった。庶人であり、姓は無い。
ゼッカの父親は、一介の百姓にすぎなかった。このオウミ国の奥地の片田舎で、細々と耕作し、年貢を納めて、かろうじて家族を養ってきた自作農である。
だが先年、薬草採取に出かけた先で、妖獣に襲われ、殺された。山中で発見された遺骸は、ぼろきれのようで、見るも無残な惨状だった。
母親も、ゼッカが成人の儀を迎えた直後に病死している。もとよりそう丈夫な身体ではなかったが、夫の死が精神的に堪えていたのだろう。
里の人々の手を借りて、母親の弔いを済ませたのは、つい昨日のこと。
いまやゼッカには家族も親戚もなく、手許に残ったものといえば、粗末な茅屋と囲炉裏鍋、ぼろぼろの農具、猫の額ほどの農地、わずかに蓄えてあった粟……それも先ほど、粥にして、最後の一粒まで食い尽くした。
父親が存命の頃には、驢が一頭、農地の厩に繋いであった。それも先日、年貢がわりにと、役人に差し押さえられてしまった。
(……どうしようかね。これから)
せっかく家と農地を受け継いだが、百姓は己れの性分に合わないと感じていた。いまさら農作業に専念する気にはなれない。農地は荒れたまま放置してある。
また、ゼッカは既に、賦役に駆り出される年齢に達していた。里の壮丁名簿にもゼッカの名は登録されている。
オウミ国では、庶人の壮丁は生涯に最低二年、労役もしくは兵役に従事せねばならない。近々、里長から、なんらかの知らせが届くはずである。
作物が育つ前に家を離れねばならないとすれば、これから農作業に精を出しても意味が無い、とゼッカは思っていた。
(なぁに。なるようになる)
この天候がおさまったら、山に入ろう。さいわい、季節は秋口。鳥獣の獲物はいくらでもいる。山菜や果実もある。
自分の食い扶持くらいは、どうとでもなる。そこから先のことは、まだ気にしなくていい――。
ゼッカはあえて先々の不安に目をつむり、気楽に構えることにした。
囲炉裏の火は、まだ静かに燻り続けている。
外に猛然と吹き荒れる風雨の唸りを聴きながら、ゼッカは次第に降りてくるまどろみに意識を委ねようとして――。
がばと、はね起きた。
異変を感じる。この寂れた片田舎の夜には似つかわしくない、きな臭い気配を。
ゼッカは険呑な眼差しを窓外へ向け、耳をそば立てた。
風に乗り、かすかに届いてくる金属音。
(剣戟……!)
ゼッカは眉をひそめた。
(人数は多くない。一対一か。方角は――東山の裾。放っておくと、あそこら一帯、荒らされかねない)
おそらく、この付近で、武士どうしの決闘が行われている。
武士とは、一種の超人である。
凡人には想像もつかないほどの身体能力を擁し、たとえ最低級の武士でも、その肉体は一日に千里を駆け抜け、弓矢や銃弾を刀で叩き落し、音の速さに匹敵する刃を振るうといわれる。
その武士にも、サムライとロウニンがある。
サムライとは、能力と家柄、功績などによって国家に召抱えられた武官を指す。
一方、武士としての能力があっても、素行不良、もしくは政治的な理由などにより、国家に仕えられない者もいる。
あるいは自らの意思で、あえて宮仕えを避け、気ままに生きている者もいる。そのように所属の定まらぬ武士を、総称してロウニンという。
(ロウニンどもの諍いならまだいいが、もしサムライの決闘だとしたら……俺が出ていくと、面倒なことになるかも)
サムライの処遇は、所属する国や団体によって細かい差違はあるが、およそ特権階級として遇されている。
その決闘へ、一庶人にすぎぬゼッカが横槍を入れるとなれば、まず只事では済まされまい。
「……それでも、山が荒らされるよりは」
もし家族というものがあれば、ゼッカも少しは躊躇ったかもしれない。
だがゼッカはいま独りだった。もし万一のことがあっても、己れの身ひとつ、いかようにも切り抜けられるはず。
ゼッカは迷わず茅屋を飛び出した。
激しい風雨に打たれながら、真っ暗な里の夜道を、山裾めがけ、矢のように駆けてゆく――。
なぜ、こんなことになった?
オウミ国のサムライ、ミナムラ・ゴコウは、奥歯を噛み締め、眼前の敵を睨みながら自問した。
深夜。鬱蒼たる山林の枝々が、頭上にざわざわ激しく揺れている。
豪雨とともに吹き抜ける突風が、絶えずゴコウの全身を煽ってくる。
足場はぬかるむ泥土。わずかでも気を抜けば足を取られてしまう。
刀を抜いて構えを維持するだけでも難儀な状況だった。太刀の刃も雨に濡れて、絶えずぼたぼたと水を滴らせている。
――こんな場所で、決闘をする羽目になるとは。
ゴコウの地位は、オウミ王城門衛の一組頭にすぎない。サムライとしての知行もまだ低い。
しかし剣術においては、若くしてオウミ随一の名門道場の免許皆伝に達し、将来を嘱目されている身であった。
(……せっかく鍛えた技も、この状況では)
オウミ有数の剣士――国もとでは、そう持て囃されてきたゴコウだが、こうした悪天候、悪条件下での真剣勝負など、まったく経験してこなかった。
ゴコウが対峙しているのは自称、隣国セッツから来たという中年のロウニン。
本来なら縁もゆかりもない相手である。たまたま同じ目的で同じ場所に鉢合わせ、口論の末、引くに引けなくなり、決闘にまで立ち至った。
武士の世界にあっては、そう珍しいことでもない。
いざ立ち会ってみれば――いかにも貧しい粗野な風体にも似げず、ロウニンの剣術は洗練されていた。
ゴコウが何度打ち込んでも、簡単に受け流され、あしらわれてしまう。
足場の悪さ、ずぶ濡れで重くなった胴衣……これら慣れぬ悪条件が、ゴコウの動きを鈍らせていた。
そうはいえ、悪条件は相手も同じのはず。若いゴコウと異なり、ロウニンは明らかに戦い慣れていた。
「どうした、オウミのサムライどの。先ほどまでの威勢の良さは、いったいどこにいった?」
そのロウニンが、頬を歪めて、嘲弄を投げかけてくる。
ゴコウには、返答をする余裕もなかった。
「いや、言わずとも、もう大体わかった。其許の剣、悪くはない。悪くないが……道場の外で粋がるには、まだ少々、経験が足りんかったようだな」
ロウニンは笑みを消し、あらためて身構えた。
「その若さが命取り。それがしを恨むなよ? これも天意よ」
言い放つや、猛然とゴコウへ打ちかかった。
鋭い踏み込みからの白刃一閃。ロウニンの剣先は音速を超えて、ゴコウの首へと迫る。
「ぬぉ!」
ゴコウは咄嗟に太刀の峰をかざし、火花を散らして、ロウニンの斬撃を受け止めた。柄を握る両腕に痺れが走る。
「そら、まだまだ!」
ロウニンは足場などまるで意に介さぬように、軽やかな足さばきで動き回り、右へ左へ自在に白刃を繰り出して、ゴコウを防戦一方に追い詰める。
音速の刃が空を切るたび、切っ先から猛烈な衝撃波が生じ、轟音とともに周囲の草木をばさばさと薙ぎ倒していった。
かろうじて衝撃波をかいくぐりながら、ゴコウはロウニンの冴え渡る太刀筋に息を呑んだ。
斬撃の速さ、鋭さもさることながら、発生する衝撃波の方向と威力を巧みに制御している。
ただ素早く剣を振るだけでは、こうはならない。よほどの修練を積み、限界まで太刀筋を研ぎ澄ましてはじめて可能になる――刀技。
現在のゴコウの実力では、十全の状態でも、十太刀打ち込んで一太刀でも成功するかどうかという技である。
オウミ国全体でも、ゴコウの知る限り、これほどの使い手など、指折り数える程しかいない。
(……勝てぬ)
実力差は明白。
道場剣法しか知らぬゴコウには、あまりに酷な相手であった、という他にない。
(だが、逃げるわけにはいかぬ)
ゴコウは、懸命にロウニンの打ち込みを受け止め続けた。相手が何者であれ、背を向けて逃げるなど、サムライには許されない行為だからである。
勝てぬにせよ、一太刀なりと報いねば、サムライの意地が立たぬ――。
武士の決闘は、ただの殺し合いではない。
その闘いぶりを祖霊に奉納する、一種の儀式である。
すなわち、決闘の場とは、どこの地であれ、祖霊の神前である。
勝敗はともかく、無様な振舞いなど、決して許されない――。
その一念で、ゴコウはかろうじて心身を奮い起こし、ロウニンの斬撃を受け流した。耐えるのがやっとで、付け入る隙などまったく見い出せない。
焦るゴコウの足元で、大きく泥が跳ねた。ずるり、と足裏が滑る。
姿勢を崩したゴコウの頭上へ、ロウニンの一閃が振りおろされる。
殺られる――!
ゴコウが、そう観念しかけた瞬間。
突如、一陣の烈風のごとく、黒い影が視界に飛び込み、ゴコウの胸もとを激しく突き飛ばした。
「うわッ!」
「なにいッ!」
盛大に泥土を跳ね上げ、仰向けに倒れこむゴコウ。
「なんだっ、いまのは……!」
慌てて身を起こすと、ロウニンのほうも、ゴコウと同様に突き倒されたらしく、泥にまみれてひっくり返っている。
いったい何が起こったのか?
顔を上げれば、いつのまにやら、二人の間に小さな人影が立っていた。
見ためは、きわめて貧相な子供。
「なあ、あんたら」
その子供が、口を開いた。一見、小柄で痩せぎすで、吹く風にも耐えられなさそうな華奢な容姿ながら、声は少年らしく、凛として力強い。
「もう、そのへんにしといてくんねえかな」
少年の両眼が、ゴコウとロウニンを鋭く見据えた。