時代劇ショートショート【親心子心】
魚屋の半吉が火事で打ち捨てられた寺の横を通ると、不気味な声が聞こえた。
「昼間っから幽霊かよ。くわばら、くわばら」
通り過ぎようとした半吉だったが、気になって仕様がない。白壁の壊れた所から中へ入り、声のする方向に恐る恐る歩を進めた。
井戸の縁に手を掛け、穴に頭を突っ込んで何やら叫んでいる女がいた。
「早まるんじゃねえ!」
半吉が身投げを止めようとして駆け寄ると、女が頭を上げた。
「あっ、女将さん!」
浮世絵の版元をしている甲州屋の女将のお雪だった。
「半吉さんじゃないか、こんな所で何してるんだい?」
「訊きてえのは、こっちの方でさ。何があったが知らねえが、身投げをしちゃいけねえ」
「ハハハ、そんなことする訳ないじゃないか」
「じゃ、何してたんで?」
「……まずいところを見られちまったね。訳を話すけど、誰にも言わないでおくれよ」
「口が堅いので、ハマグリの半吉と呼ばれていやす。安心してくだせい」
「カラスだって皆言ってるけどね……。まあ、いいか」
二人は、井戸の横に建っている焼けた本堂の縁側に座った。
お雪は迷った様子を見せながらも、話し出す。
「どうにも気持ちが治まらなくてね、井戸穴に向かって愚痴を言ってたんだよ」
「何で、井戸なんかに?」
「南蛮の国じゃ、秘密を穴に向かって喋って埋めると聞いたことがあってね、真似してみたんだよ」
「そうですかい。それで、ムシャクシャする気持ちは収ま治まりやしたか?」
「治まりゃしないよ。やっぱり、誰かに聞いてもらわないとダメかね。半吉さん、聞いてくれるかい?」
「へい」
「お小夜って娘がいるんだけどね、これが困った子なんだよ。小さい頃は素直ないい子だったんだけど、段々言うことを聞かなくなって、説教をすると反発するようになっちまったんだよ。年頃になると直るかと思ってたんだけど、酷くなるばかりでさ、終いには『生んでくれなんて頼んだ覚えはない』なんて言うようになっちまった。そんな娘でも良い縁談があってね、相手の話をしたら家を出て行ったんだよ」
「じゃ、それっきりになっちまったってことですかい」
「心配だからさ、ほうぼう探したさ。そうしたら、長屋暮らしの若い職人の所にいたんだよ。連れ戻そうとしたら、お小夜が『この人と一緒になる』なんて言い出す始末さ」
「反対したんでやすか?」
「その男は伊三郎っていう木工細工の職人なんだけど、まだ修行中の身だっていうじゃないか。反対するに決まってるだろう」
「お嬢さんはその伊三郎って奴に惚れてたんでやすね。一人前になったら、認めてやるってことは、できなかったんでやすか?」
「惚れた腫れたで夫婦になったって、苦労するのは分かり切っているだろう。わざわざ苦労することはないじゃないか。それに我儘に育った娘だもの、貧乏暮らしに耐えられなくなって、上手く行かなくなるのは目に見えているさ。賛成なんてできる訳ないだろう」
「無理やり連れ戻したってことですかい」
「連れ戻したんだけど……、しばらく大人しくしていたから諦めたと思ってたらさ、置手紙をして家出したんだよ。伊三郎と駆け落ちしちまったんだ。探したんだけど、どこに住んでいるかも分からなくてね、それでもその内に帰って来ると思ってたんだけど、帰って来なかった」
「じゃ、音沙汰なしって訳ですかい」
「ずっと音信不通だったんだけどね、この間、伊三郎から手紙が来てさ、お小夜が病に倒れたって知らせてきたんだよ。こりゃあ大変だってことになったんだけど、内の人は上方に行って待ってられなかったからさ、手代を連れて会津へ行ったんだ」
「会津で所帯を持ってたんでやすね。間に合ったんで?」
「間に合うも何も、ピンピンしてたさ。風邪をこじらせて寝込んだだけだったんだよ。伊三郎が早合点しただけだったのさ。そそっかしいたらありゃしない」
「それで会えたんだから、良かったじゃねえですかい」
「まあ、生きているのが分かって安心したんだけど、こっちの気持ちも考えないで、勝手に駆け落ちまでしてこんな所で暮らしているのを見たらさ、段々腹が立ってきて、説教したんだ。伊三郎は平謝りだったんだけど、お小夜はふくれっ面になって口もきかなくなっちまったんだよ。どうして喧嘩になっちまうのかね」
「親子だからじゃねえですかい。血がつながっているから、お互い相手のことを分かってるつもりになっちまって、心が通じてねえことに気が付かねえ。それに、血のつながりに甘えちまって、言わなくてもいいことでも言っちまう。親子だから分かり合えるなんて思うのは、間違いじゃねえんですかい」
お雪は、半吉からそんな言葉を訊くとは思わなかったのだろう、意外とでも言いたげな表情で半吉を見た。
「そんなもんかね」
「そんな親子もいるってことでさ。喧嘩になって、直ぐに帰って来たんですかい?」
「伊三郎が『折角来たんだから、会津のご城下を見て行ってください』としきりに言うもんだから、伊三郎の案内でほうぼう見物したよ。お堀端から見た鶴ヶ城が良かったね」
「伊三郎ってえのは、奴なりに気を使ったんだな。ところで、伊三郎は何で会津へ行ったんでやすかね?」
「会津の桐は質が良いらしくてね、その木材を使いたくて会津に住み着いたらしいよ。桐で小箪笥や小間物を作ってたよ。そうそう、帰りに、伊三郎が作った手鏡を土産に貰ったよ」
お雪は懐から小さな手鏡を取り出した。手のひら大の銅鏡が桐の白木の台にはめ込まれていて、柄が付いている。
手鏡を受け取った半吉は、柄の根元に細工がしてあるのに気が付いた。
「ここだけ木目が違っていやすね」
「ああ、それは鏡を押さえる楔だよ。鏡を研ぐときは、その楔を外して鏡を取り出すんだって。そうすると、白木が汚れないで済むだろう」
「へー、考えてやすね」
半吉は感心しながら手鏡を裏返す。木蓮の花が彫り込まれていた。半吉はしばらくその花を眺め、ひょいと顔を上げた。
「あっ!」
「どうしたんだい?」
「女将さん、壁に、壁に」
手鏡が日光を反射して白壁を照らし、照らされた中には菩薩らしき像が浮かび上がっていた。
「これは魔鏡っていうやつだね。鏡の裏側の模様が映し出されてるんだよ。半吉さん、鏡を外してごらんよ」
半吉が楔を抜いて鏡を取り外すと、折り畳まれた紙が出てきた。手紙だった。半吉はお雪にその紙を渡した。
お母さんへ
会津の郷土料理のこづゆでも食べながら、色々話しかったけど、喧嘩になって話せなかったので手紙を書きます。
会津に暮らし始めてから程なくして、偉い和尚様から目連尊者のお話を聞きました。こんなお話でした。
お釈迦様の弟子だった目連の母親は、我が子を大変かわいがった女性だったのですが、死後飢餓道へ堕ちてしまったそうです。原因は、出家した目連が修行僧達と一緒に托鉢に訪れた時に、目連だけに沢山の食べ物を与え、他の修行僧には何も施さなかったからでした。我が子への愛によって、執着心を捨てられなかった報いだったのです。
この話を聞き終わった時に、私が和尚様にお母さんのことを話したところ、和尚様はお母さんが飢餓道へ堕ちるかもしれないと言いました。私はお母さんが飢餓道へ堕ちることは無いと思っていたので、意外でした。お母さんは私を嫌っていると思っていたからです。
和尚様は嫌っているから叱っているのではなく、心配するあまりに小うるさく言ってしまうのだ。母とはそのようなものだと諭してくれました。
振り返ってみれば、お母さんの小言は、私を思ってのことだったのが分かりました。それなのに、私はろくに話を聞かず、反発ばかりし、終いには駆け落ちしてしまいました。自分勝手なことばかりしたことを反省しています。
だけど、伊三郎さんと夫婦になったことは後悔していません。会津に来たばかりの頃は苦労しましたが、近頃は藩にも品物を納められるようになりました。裕福ではありませんが、幸せに暮らしています。
二人の暮らしぶりをお父つぁんとお母さんに見てもらおうと伊三郎さんと話し合いました。でも、勘当同然の身だから、素直に言っても来てもらえないと思って、病気だと嘘を吐きました。ごめんなさい。
伊三郎さんとの結婚を認めてくださいとは言いません。でも、小夜は幸せなんだなと分かってもらえたらと思います。
いつか、素直に話し合える日が来るのを願ってます。
小夜
お雪は手紙を読み終え、顔を上げた。
「馬鹿な娘だね……」
そう呟いたお雪の頬には、涙が一筋伝っていた。
<終わり>
童話「王様の耳は、ロバの耳」は、ギリシア神話を元にした物語です。
プリュギア(現在トルコがある地域)のミダース王は、アポローンの怒りを買い耳をロバの耳に変えられました。ミダース王は飾りで耳を隠していたのですが、床屋が秘密を知ってしまいます。口止めされた床屋は、喋るのを我慢できず、地面に穴を掘り、その中へ向かって王の秘密を喋った後、埋め戻しました。しばらくすると、そこから葦が生え、王の秘密を喋り出しました。
ちなみに、ギリシア神話では、ミダース王は触れた物全てを黄金に変える人物としても書かれています。
目連(正しくは目犍連)は、釈迦の十大弟子の一人で、優れた神通力の使い手として知られ、神通第一ともいわれています。
また、目連にはお盆(盂蘭盆会)の起源となる伝説があります。
目連が神通力で亡くなった母を探したところ、飢餓道で母を発見します。目連が、苦しむ母に水を与えると煮えたぎるお湯になり、食べ物を与えると火に変わりました。母に何も食べさせることができなかったのです。
目連が釈迦に母を救う方法を尋ねると、釈迦は「お前の母は施しをしなかったため餓鬼道に落ちたのだ。修行が終わる日に、衆僧に施せば、お前の母の口にも入るだろう」と答えたのです。
目連は言われた通りにし、ご馳走を用意して修行僧に与えました。すると、目連の母は救われ、昇天したのです。
これが逸話がお盆の起源とされていますが、後世の創作との説が有力だそうです。
会津は昔から桐を使った箪笥や下駄、小物などの製品作りが盛んだったそうです。
会津藩主だった保科正之が桐の植林を進めたのが切っ掛けで、良質な桐の産地になったようです。