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日本の閉塞感について (カズ・ヒロ氏の問題から考える)

 アカデミー賞の「メイクアップ・ヘアスタイリング賞」を受賞したカズ・ヒロというアメリカに帰化した日本人(アメリカ人ですが)のインタビューが話題になっています。

 

 それは、要するに「自分は日本の同調圧力の強い社会に嫌気が差してアメリカに来て夢を叶えた」というものです。

 

 カズ・ヒロさんの言っている事はよくわかるというか、まあ当然というか、そりゃそうだろうというか、自分も常日頃そういう空気を感じています。自分は日本語で表現するというのに拘っているので、海外移住は考えた事ないのですが、そういう事も考えなきゃいけない時が来たのかなあ…という気もしています。

 

 カズ・ヒロさんの言っている同調圧力・権威主義・言われた事だけやっていろ、という空気感はここ最近の日本は更に強くなってきているという印象です。権威主義的なある人と話していたら、突然切れられた事があり、なぜ切れられたのかわからなかったのですが、後から考えると、「自分が一人の人間として意見を持っている事自体がこの人にとっては不快なのだ」と思い当たりました。

 

 私は自分なりに本を読んで自分の意見を持っているわけですが、権威主義者にとってはこの「意見を持っている」という事自体が不愉快なわけです。私の意見に同意できるかできないかではなく、「意見を所持している」事自体にカチンと来ているわけです。なぜカチンと来るかというとその人は、自分の意見がないからです。また、自分を殺す事によって社会習俗に一致しているので、その自分を否定されたような気がするのだと思います。 

 

 それでこういう人は日本には大勢います。あんまり日本に極限してこういう話をするのは好きではなかったのですが、さすがに限界かなと思うのでそういう話し方をします…。それで、この手の「他人が意見を持つ事自体を許さない」という権威主義者は、カズ・ヒロさんについての記事を書いているライターの言うように、「偉そうな事を言うなら成功してから言え」とよく言います。成功・実績は彼らにとって絶対であり、その内容については吟味しない。

 

 日本の権威主義や現状肯定の一つの特徴はこの「内容はどうでもいい。賞とか金とかそういう結果が全て」という発想です。

 

 だから、どこからどう見てもひどい諸作品でも、それが賞を取ったり、売れたりすればそれは肯定されます。それを批判する意見があれば「いや、でも売れているから」となります。

 

 これは循環構造のようになっています。今の社会を支配しているのは大衆なので、彼らに迎合するものが「結果」を叩き出すので、「結果を出したクリエイター」を称賛する事は、大衆の漠然たる欲望や共同幻想を肯定する事になる。そしてそれ以上の事をしようとする人間は抑えつけられるという構造です。

 

 内容は問題ではなく、常に形式だけが問題となる。最近、やたら東大生が取り上げられていますが、彼らが具体的に何をしているかではなく、その外形だけを消費している。これらは日本の中身のない閉塞感を作り上げるのと一致した考え方だと思います。

 

 ※

 

 日本の閉塞感というのは自明の事だと思いますが、こう言う事を言うと「いや、日本にも良いところがある」という頓珍漢な反論が来たりします。一つ言えるのはそういう的外れの意見を言う人こそが日本の閉塞感を作るのに一役買っているという事です。


 日本の良さなら多分、私の方が知っているんじゃないかと思ったりします笑 最近、亀井勝一郎の「日本人の精神史」を読んでいますが、日本文化は無論、大したものです。私は聖徳太子のような人を尊敬します。ですが、それと今の日本の低俗な文化とをごちゃまぜにするのが問題だと思います。

 

 日本の閉塞感という事で言えば、最近、あるゲーム配信者の話を聞いていたらその話が出ていました。その人はリスナーに「引っ越すならどこがいい?」と聞かれて「うーん、海外かなあ」と言っていました。理由を聞かれると「だって日本って息苦しいじゃないですか」と言っていました。

 

 その配信者は普通の人で、教養人でもないし、それこそカズ・ヒロのような特殊技能がある人でもない。カズ・ヒロが夢を叶える為に狭い日本を飛び出すというのはある種当然というか、わかる話ですが、私はその、日本の普通の青年(三十代男性)がポロッと「日本は息苦しいから」とはっきり言えてしまうという事により強い危機感を感じました。

 

 その配信者自体は私見ではなかなかセンスがいいというか、学歴という意味ではなく、頭の良い所もある人で、面白い人なんですが、そういう普通の人からポロッとそういう言葉が出てしまう。事態はここまで進行していると見ていいかと思います。

 

 それで日本の閉塞感の根源にある問題は次のような言葉に集約されていると思います。次の文は中村元の「東洋人の思惟方法3」の最初にある文です。この本で中村元は日本人の精神のあり方について論述しています。

 

 「日本人の思惟方法のうち、かなり基本的なものとして目立つのは生きるために与えられている環境世界ないし客観的条件をそのまま肯定してしまうことである。諸現象の存する現象世界をそのまま絶対者とみなし、現象をはなれた境地に絶対者を認めようとする立場を拒否するにいたる傾きがある。」

 

 この文章で既に答えが出たという感じもします。最近では南井三鷹さんという方がそういう分析をしています。要するに、今の日本のポストモダン性、オタク的現状肯定、身内感というのは、実はプレモダン的なもので、日本の後進性がかえって近代性を乗り越えるものに見えたという事です。仲間で固まって自分達を肯定する。…昔の日本では、自分達のいる環境は「山川草木」だったわけですが、今は人間社会なので、社会を構成している人間達の有様をそのままぼんやりと肯定してしまう。そこに安住の地を見出すと共に同時に保守的な閉塞感のある状況が生まれていると思います。

 

 この話をやりだすと文化論になってタイトルから外れてしまうので手短に済ませますが、例えば、自然観というものも西欧と日本では随分違うという印象があります。

 

 最近、レオナルド・ダ・ヴィンチについて調べていたんですが、ダ・ヴィンチのやりたかった事はおそらく、理性によって自然を分解する事だった。その過程があるいは芸術になり、科学になっても別にそれは今のように分割されていないので、ダ・ヴィンチにとっては気にならなかった。重要なのは、神が作った自然を人間は理性で分解できるという健全なルネサンス的精神とでもいうべきものと思います。

 

 ここで重要なのは、ダ・ヴィンチにしても、それに近い思想の持ち主だった万能人ゲーテにしても、自然と人間とは分離しているという事です。これは神と人間との分離とも考えられますし、西欧の根底にあるイエス・キリストは、血をだらだらと流して磔になる姿が理想となっている。ある種の劇的な、分離、ドラマというものを西欧文化には感じます。

 

 これと比べると、日本の自然観とか世界観は、全体が曖昧にぼやっと一つに統合されていて、なおかつ統合されているという意識もない。だから日本人は実際には宗教性が強い民族だと思いますが、みんな無宗教だと言う。分離が成されていないという印象を持っています。だから、ぼやっと全体に一つに溶けていくものが尊ばれて、それを外れたものは過酷な仕打ちを受ける。存在するのは善と悪というより、なんとなくの一体感とそれから外れたものに対する疎外・いじめではないかと思います。

 

 この心性はずっと続いてきたので、今更変わるのは無理だと思います。別に海外だからいいというわけではないですが、日本という国では「日本人」という意識は強くあるものの「人間」とか「個人」という精神はいつまで経ってもわからない。

 

 口先では西欧のものもよくわかっている、人間も個人もよくわかっているというような人が、次の瞬間にはもう相手を一人の存在として認めない、という情景を何度も見てきました。日本人の心性に根付いているものはものすごく深いと思うし、こう言っている自分自身も日本という枠組みを究極的には越えられないという気がします。ただ、夏目漱石のようにそこに最大限挑んだ人物が、日本の「国民作家」であるという事実をわずかな慰めとして考えたいと思っています。


 哲学的に言えば、日本というのは対象と主体との分離がされておらず、同一性に溶けていくのが理想とされている。そこに閉塞感もあれば、心地よさもあり、優秀性もある。現在ではこれは行き詰りという風になっていて、その行き詰りはインターネットのような環境で一時的に「愚痴を言う」のような形で噴出したものの(このエッセイもその一つ)、ネットも大勢が使うようになってまた道を塞がれたという感じがしています。八方塞がりだと思います。

 

 まあ、このエッセイは長くなったのでこのあたりで終わろうと思います。付け加えるとすれば、日本の閉塞感を作っているもうひとつの理由は、指導者層というか、大衆を率いていく人間もまた大衆に媚びている事が原因にあると思います。そのあたりには大衆とエリート(的なもの)の互恵関係があるでしょう。

 

 日本の政治に関する情報なんか見ていても、大衆は自分達を率いてくれる、要するに「偉い人がなんか頑張って考えてやってくれ」という雰囲気が強いと思います。自分がやらなければならない、自分の頭で考えなければならないという意識は希薄であり、そういう人が民間にいれば抑えつけられる。

 

 一方で、そのエリートは社会の形式的な制度を上昇して現れてきますが、この制度を上昇していく上でも既存の価値観を受け入れるのが前提となるので、同じようなものの繰り返しになる。この日本の構造そのものが閉塞的になっていて、限界に来ている気がします。

 

 人畜無害で綺麗なだけのイメージを押し付けられたタレントが不倫に走ってそのイメージを汚してしまうというのも、そういう画一的な像を保持し続ける限界を語っているのかもしれない。今は何かが変わっていかないといけない時期なのだと思います。しかし人は色々なものが犠牲になり、破壊されるまでは変わらないので、歴史的にはこの先、大きな破局が待ち受けているのではないかという気がしています。しかしそれで日本が終わるわけでもなく、多分、また連綿と続いていくと思います。戦争に負けて原爆二発落とされても復活した国なので、そのへんは案外しぶといだろうとは思います。

 


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― 新着の感想 ―
[良い点] はじめまして エッセイ拝読しました。 シンプルに 素晴らしいエッセイだと思いました。 ありがとうございます。 日南田ウヲ
[良い点] 昔読んだ記事にこのようなことが書かれていました 日本の歴史というのは発展期→安定期→混乱期 を繰り返しているというものです。 それもこの閉塞感のせいなのかもしれません だとすればなんやかん…
[一言] 申し訳ない在りませんが、失礼を承知で辛辣な意見を書かせて貰います。 海外の方が閉塞感は半端無い。 ポリコレ何かそうだし。 逆に日本の方が自由だって言う外国の人も居る。 また日本は~と…
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