考え過ぎる葦
耳障りな電子音が意識に波を立てる。
身体が勝手に腕を伸ばし、目覚まし時計を黙らせた。数秒経って、自分が目覚めたのだと気が付く。
意識が再び沈み込みそうになるのを、尿意が先回りして邪魔をした。少し不機嫌になりながら、身体の向きを変える。べたつく肌が不快だった。
ああ、またやってしまった。私は中途半端にボタンが外されたシャツを身に着け、下半身は下着のみという姿だった。きっと玄関から寝室に至るまでに、脱ぎ散らかされた衣服が点々と落ちているに違いなかった。
大学を卒業し、就職戦争を生き抜き、やっとの思いで就職した会社は、いわゆるブラック企業だった。およそ人間らしい意志と活力は全て絞りつくされ、私は会社に人生の全てを捧げる、使い捨て電池に成り果てていた。
仕事帰りはいつも終電。コンビニで夕飯代わりのおにぎりと缶チューハイと買い、身体に充電しながら家へ向かう。玄関を越えると、一枚ずつ衣服を剥ぎ取りながらベッドへ向かい、気絶するように倒れ込む。そんな生活をもう、二年近くも続けていた。
出勤前にシャワーでも浴びなければと思い、身を乗り出す。視線がベッドの淵を越えた辺りで、私は凍り付いた。
見知らぬ男が、ベッドの脇で血まみれになって倒れていた。
鋭く息を呑む。人は本当に驚いた時には、声も出せないのだと知った。脳髄が痺れるようだ。あまりの驚愕と混乱で、私は身じろぎもできない。
心臓は縮み上がり、次の瞬間には手に負えない程暴れ出した。私は息を切らしながら、やっとの思いで身を乗り出して手を伸ばす。目の前に横たわるものが信じられなかったから。
きっと指が男の首に触れた瞬間に、私はベッドの上で跳び起きるだろう。祈るようにそう思った。全てが夢であってほしかった。悪夢でも大歓迎だった。しかし、指先は氷のような冷たさで私に現実を突きつけた。
「ひっ――」
私は弾かれたように飛び退き、壁に背中と後頭部を打ち付けた。そのまま背中を壁に貼り付けたまま、這うようにして部屋を逃げ出す。キッチンのビニール張りの床にへたり込み、動悸が収まるのを待った。
騒ぐ心臓と入れ替わるように、思考が暴走し始める。
初めに湧いてきたのは恐怖では無く、怒りの感情だった。
どうしてこんな事に。ただでさえ毎日我慢して頑張っているのに、なんでこんな目に遭わなきゃならないの!?
私は手近に落ちていたスーツのスカートを拾い上げ、獣のような唸り声を上げて冷蔵庫へ投げつけた。空気抵抗に負けてだらしなく墜ちたスカートに、余計に苛ついただけだった。
怒りはいつしか涙に変わり、私は冷たい床に突っ伏して呻いていた。
一度流れ始めてしまうと、人生の理不尽に対する不満が溢れ出して止まらなくなった。
こんなブラック企業なんて辞めてしまえばいい。何度もそう考えたが、生活を守るためには働き続けるしかなかった。もし仕事から逃げ出しても、自己都合退職では雇用保険の手当てが支払われるまでに三ヶ月の待機期間がある。その間の生活はどうするのか? 私は霞を喰って生きる仙人では無い。
親には頼れない。それができるなら、とっくにそうしている。貯金を作って準備する? 命を削って稼いだ僅かな給与は、全て生活費で消えてしまう。節約をするような時間的・精神的余裕などは無い。
考えれば考える程自分の置かれた状況を直視することになり、それが余計に精神をすり減らした。いつしか私は心を守るために目を閉じ、耳を塞ぎ、口を噤んだ。ただ会社の奴隷であり続けた。それが間違いであることを自覚しながら、心を殺し続けた。
それでも時折、何かの切っ掛けで発作のように思考が暴走するときがある。まさに今がそうだった。そうなれば私はうずくまり、思考の海に溺れるしかない。
どれほど経っただろうか。私はゾンビのようにのっそりと起き上がり、毎朝そうしているように、シャワーを浴びる為に浴室へと向かった。いつも通りの行動を取る事で、少しでも冷静さを取り戻そうとしていた。
蛇口を捻り、熱いシャワーを頭から浴びる。首筋から背中を流れる暖かさと、規則的な水の流れる音が、心を落ち着かせていく。
これからどうするべきだろう、と私は考えた。
警察に通報? 確かにそうするべきだろう。この状況は明らかに手に余る。警察に任せれば……。
いや、と私は首を振る。ドラマでの知識程度しかないが、警察を呼んでしまえば事情聴取や現場検証などが始まるだろう。そうなると、今日の仕事はどうなる? 休むしかないだろう。それは私にとって世界がひっくり返ってもあり得ない事だった。休んだ後に待っている、何時間にも及ぶ叱責と懲罰を想像して、私は肩を震わせた。
それに、警察はあの死んでいる男の身元と、私との関係を知ろうとするだろう。しかし、私にはそれを説明することができない。どれだけ考えてみても、あの男の顔には見覚えが無い。いくら私がお酒を飲みながら歩いていたとしても、前後不覚になる程酔ってはいない。
だが、警察はどう思うだろう。私が嘘をついているか、何か隠し事をしていると考えるのではないか? 疑われてしまったら、警察署に拘留されるのだろうか? 冗談では無い。そんな事になれば、何日間仕事を休む羽目になるのだ。私は地獄のような思いをする事になるだろう。
隠すしかない。次の休みが何時になるかは解らないが、車でも借りて山へ埋めるか、水に沈めるか? それまで、あの死体は腐らずにいてくれるだろうか?
『熱力学の第二法則だ』唐突にその言葉が脳裏に浮かんだ。
学生時代に、何かの小説で読んだ記憶がある。熱力学の第二法則、すなわち『時間と共にエントロピーは増大する』というものを広義に捉え、『物事は必ず時間と共に複雑化する』という言葉に置き換えていた。つまり『面倒ごとを放置すれば、更に面倒なことになる』というものだ。
死体は必ず腐る。面倒ごとはより面倒に、必ず悪い方向へ進んでいく。
臭いも防げないだろう。漏れ出した臭気を少しでも感じ取られたら、噂は瞬く間にマンション内に広がるはずだ。発生源が私の部屋である事がバレるのも、時間の問題だ。
事態は最悪。しかし、黙っていても物事は好転しない。ミニマックス法という訳でもないが、最悪の状況の中で、被害を最小に抑えるという事を考えるべきだろう。
迅速に行動を起こさなければならない。今日は仕事を休もう。会社への言い訳は必要ない。どんな言葉も通じないからだ。同僚が、父親の事故死で会社を休もうとした時も『仕事は止まらないんだからさ、親御さんも事前連絡無しに死なれても困るんだよね。葬儀が終わったら出社できるでしょ』なんて事を言い放った会社なのだ。頭を何時間でも地面に擦り付けて、嵐が過ぎ去るのを待つしかない。そう考えただけで、ストレスで胃液が食道にせり上がってきた。
シャンプーのポンプを押し、出てきた液体を頭にのせて泡立てる。手洗いは心を落ち着かせるというが、洗髪はそれ以上だと思った。死体の処理は、もちろん初体験だ。気合を入れなければならないだろう。私は自分自身を鼓舞するように、頭皮に爪を立てた。
風呂場を出て、髪をタオルで拭っている時に、はたと気が付いた。
あの男は、一体どこからやってきたのだろう?
私が眠りこけたときに、部屋に侵入した?
考えにくい事だった。私は部屋の鍵を閉め忘れたことなど一度もない。ただでさえ近頃は私の住んでいる地域では不可解な強盗殺人が連続して発生し、ワイドショーを騒がせている。のんびりテレビを見ている時間などは無いので詳細は知らないが、戸締りには特に気を使っているのだ。
では、最初から部屋に忍び込んでいた?
これなら、ありうるのかも知れない。しかし、なぜ私のベッドの脇で死んでいたのか? という説明が付かない。病死ならまだ何とか納得する事もできるだろう。だがあの男は血まみれだった。詳しく調べる気にもなれないが、何かしらの外傷を負っているのは明らかだった。
「まるでシュレディンガーの猫ね……」
私は肩から立ち昇る湯気にのせるように、そう呟いていた。言葉ばかりが有名になってしまって陳腐という印象が張り付いてしまった、量子力学における『観測』についての思考実験だ。もの凄く簡単に言えば、全ての物事はあらゆる可能性が同時に存在しており、それらは『観測』された瞬間に決定するというものである。
私の部屋に見知らぬ男の死体がある確率が五十%で、死体がない確率が五十%。他の細かい事柄はこの場合考慮しない。そして私が目を覚まし、現実が『観測』されて決定された。私の部屋に見知らぬ男の死体があるという現実に、だ。
全ての物質は陽子や中性子や電子などの、素粒子でできている。それらは『観測』されるまでは波のような形をしている。これについては様々な実証がなされており、ほぼ間違いないと言える。しかしいざ『観測』してみると、不思議なことに素粒子は波ではなく粒子の姿なのだ。
科学者たちはこの事実を説明できず〝素粒子は普段は波として存在し、何物かに『観測』された瞬間に粒子として姿を取る〟。つまり全ては非実在であり、何物かに『観測』されて初めて実在化する。一言で言えば〝何事もあるかもしれないし、ないかもしれない〟ということだ。
これが科学だなんて信じられないと、私も思う。どちらかといえば神学や哲学ではないか? だが紛れもなく、こんな不確実なものが現代の量子学であり、物理学なのだ。私は波動係数の収束に翻弄され、地獄に叩き落された。一度決定した量子過程は不可逆だ。私がどれだけ苦しんでも、神様が無かったことにしてくれることはない。
ぴたり、と髪を拭う手が止まる。
因果律はどうなる? 原因無くしては何物も生じないという大原則はどうなるのだ?
原因など何もない。少なくとも、私の知る限りでは。
何もかもがありえない。しかし波動係数は収束している。現実は覆らない。
いや、本当にそうだろうか。ありえない事態が発生したときには、まず揺るがしようが無い事実と、予測でしかない事柄に整理して考える。これも昔に読んだ小説からの知識だ。タイトルは忘れたが。
まず揺るがしようが無い事実。男が私の部屋で死んでいる。男には見覚えが無い。これだけだ。
次に予測でしかない事柄。男は私が帰宅した後で、何らかの方法で侵入した。あるいはその前から潜伏していた。そして私の隣で自傷、あるいは何らかの外的要因で死亡した。
いや、違う。そうじゃない。私は最も重要なことを見落としている。
本当に、男は死んでいるのだろうか?
確かに触れた男の首筋は、生きている人間の温度ではなかった。だがそんなもの、いくらでも誤魔化しようがあるのではないか? 私は突然の事態に恐怖するばかりで、男の顔すらもろくに確認していない。
身体がぶるり、と震えた。湯冷めだけが原因ではない。私はとんでもないヘマをやらかしたのでは? 震える指で下着を身に着け、バスタオルを肩から羽織り、なぜか足音を消して自室へ向かう。
恐る恐る部屋を覗き込み、愕然とした。
男の死体が消えている。
残されているのは、倒れた人の形に床の色を残している血だまりのみだった。
膝から崩れ落ちそうになるのを、ドアにしがみ付いて堪える。
これはどういう事だろう。男は死んではいなかったのだろうか? もしそうであるのなら。
男は今、どこにいるのだろう。
ペタリ、と背後で音がした。裸足で床を踏む音に違いなかった。
錆び突いたブリキ人形のように振り向く。私は反射的に肩に羽織ったバスタオルを掴み、それで男を叩こうとした。その前に全身を真っ赤に染めた男が「ま、まって!」と両手の手のひらを前に向ける。出鼻をくじかれたような私は硬直し、過呼吸のような状態だけが残った。
「怪しい者じゃないんです。こんな格好じゃ、信じて貰えないでしょうけれど」
以外に若い男の声だった。三十歳手前だろう。私と同年代だ。たったそれだけの親近感で、私は男の話を聞いてみようという気持ちになってしまった。
「だ、誰なのあなた。どうやって入ってきたの。その血は何なの?」
呼吸を整え、ようやくそれだけを問いかける。そこで空気がむせ返るような鉄臭さに包まれている事にようやく気が付いた。
「言っても、信じて貰えるかどうか」
「いいから! 言いなさいよ!」
困ったように、あるいは恥ずかしそうに頬を掻く男の態度に腹が立った。一人だけ平然としている男が許せなかった。誰のせいで私がこんな思いをしているというのか。
「じゃあ言いますけれど、実は僕、この世界の住人じゃないんです」
「……え。はあっ!?」
喉から素っ頓狂な声が出た。ある程度の理不尽はとりあえず受け止めるつもりでいたが、これはあまりにも想定外だった。
「何言ってるの? ふざけないで」
「ほら、やっぱり信じて貰えない」
男が〝お手上げ〟とでもいうように、両腕を肩の高さまで上げる。この男は相手を怒らせる天才だと思った。
「自分が漫画やアニメの世界から来たとでもいうつもり?」
「それらが何なのかは解りませんけれど、この世界のあらゆるものに見覚えがありません」
私は男の服装をチェックする。真っ赤に染まってはいるが、特徴のないTシャツにジーンズといういでたちだ。男の発言とは明らかに矛盾する。
「もう良いわ」私はため息をつく。「記憶喪失か、精神障害という所かしら。死体じゃないのなら、とりあえず警察にーーいや、まずは救急車……?」
すっかり毒気を抜かれたようになった私は、部屋に残した携帯を取るために、男に背を向けた。
それが間違いだった。
男は素早く駆け寄り、帯状にしたタオルか何かで私に目隠しをした。膝裏を蹴り、床に跪かせる。
「こんなありえない嘘で油断するなんて、やっぱり人間なんて馬鹿な生き物だよね」
男が呆れたように言う。視界を奪われ、地面に座らせられただけで人は簡単に自由と抵抗の意思を奪われる。私は絶望的な気持ちで頭上からの男の声を聴いていた。
「人は想像を超えた事態に直面した時、与えられた答えを無条件に受け入れてしまう。それがどれだけ突拍子もない代物でも、勝手に理解しやすい形に解釈してしまう。苦労したり、散々考え抜いた末の答えであればある程、それを疑うこともない」
「な、なにを」
それだけの言葉を発するので精一杯だった。喉がひりついてカラカラだ。私は足元が泥沼になって飲み込まれるような錯覚に襲われていた。
「シャワーを浴びている最中も、ずっとブツブツ言っていたよね。熱力学の第二法則? シュレディンガーの猫? 波動係数の収束? 面白いね、お姉さん」
男が私の顔を覗き込む気配がした。生臭い呼気が頬を撫でる。
「良い事を教えてあげるよ。あり得ないことが起きたときはね、それは〝あり得ない事ではなかった〟という事なんだ。一見複雑に思える物事も、単純で解りやすい事実の積み重ねなんだよ。まず起きた事を現実として受け止める。そして要件を満たす最も単純な答えを考える。たいていの場合、それがそのまま正解だ。現実は小説よりも奇なり、なんて言葉もあるけれどね、勝手に迷走しているだけさ。お姉さんみたいにね」
私はもう、満足に息をする事もできなかった。
頬に氷のように冷たいものが触れる。きっと、刃物だろう。
「何回か同じことを試してきたけれど、お姉さんの反応が一番面白かったよ。間違いだらけだったけれどね」
男がケラケラと笑う。大鎌を携えた死神のように。
「この後に何が起こるのか、自分がどうなるのか。解るよね、お姉さん?」
もはや考えるまでもなかった。
【了】