6 友達その1
その日の夜。不思議な夢を見た。
見覚えのない教室。
誰も存在せず、整然と並べられた机が寂しく在るだけの忘れ去られた場所。
広い教室で一人、俺は分厚い辞書の様な本を読みふける。
教卓の上には、古めかしいラジオが無造作に置いてあって、聞いたことのない昭和のバラードを何度も繰り返し流している。
趣味に合わないものの、音楽に耳を傾けられるお陰で、静寂に耳をやられるということはない。
教室の外は海の世界らしく、窓を覗くと空気より不透明な海中の世界に、見慣れない街並みが無限に続いている。
太陽すらも水に浸かっており、現実の海とは違って酷く明るく光に満たされた美しい空間が広がっていた。
しかし、そんな幻想的な風景に目もくれず、俺は一心不乱に本を捲る。
本の表紙には「武島天馬」と銘打たれており、今まで経験してきた幾多の体験が、俺自身の視点で書き綴られている。いわば俺という人一人の人生の記録。
読んでいて愉快な気分にはならないが、それを黙々と読み進める。
何故そんな真剣に読んでいるのか俺自身でもわからないが、読まねばならないという強迫観念に突き動かされページを捲る。そして――
「……あ」
空白のページに辿り着く。
その先も白紙のようで、これから先はこれから体験するであろう未来が書き留められる予定なのだろうと、なんとなく理解した。
そこでちょっとした思い付きが浮かぶ。
この空白のページにストーリーを書き込めば、その通りに未来が定められるのではないか? と。
「……」
ペンや鉛筆が机の中にないか調べる。が、中身は空だった。
左右の机も覗き込むが、共に紙切れ一つ入っていない。
ただの思い付きなのでどうしても必要という訳じゃないが、どうにも諦めきれない。
使い古された鉛筆でも落ちていないかと周囲を見渡した俺は、自分以外に誰も居ない筈の教室にいる一人の少女が目に入り、驚きのあまり椅子を鳴らして立ち上がる。
この空間は俺だけのもの、他の誰も入ることはできない。夢と繋がった意識がたった一人で己自身と向き合うための夢だと感覚的にわかるのだ。なのにどうして部外者が……?
「……お前は、誰だ?」
弱々しい俺の声が教室に響く、返答はない。
静かな教室で派手に鳴った椅子の音に反応せず、問いかけにも無視を決め込む少女。ただただ窓の外を眺めている姿にどこか既視感がある。
――そうだ。初めてじゃない。……彼女の姿も前に見た気がする。
心臓が早鐘を打ち、嫌な汗が流れるのを感じながら、ゆっくりと少女に近づく。
手が届く距離で足を止め、顔を見ようと回り込んだ瞬間。
そこで、夢が醒めた。
「……」
耳障りな目覚ましを黙らせて、無言でベットから起きる。
半覚醒のまま着替えを引っ張り出し、緩慢な動きで着替えを始めた俺は、体の奥に残る倦怠感に顔を顰める。
布団に入ってからも鹿目の事を思い出し、なかなか寝付けなかったせいで疲れが取れていない。鬱気な気持ちも変化はない。
心と体が共に不調のままでは、今日一日は沈鬱な気分で過ごすのはほぼ確定だろう。
朝一番に溜息をつくのは流石にどうかと思い、溜息の代わりに欠伸を一つつく。
そういえば、何だか妙な夢を見ていた気がするが、思い出せない。
まあ、夢なんてそんなものだろう。
俺は特に気にすることなく、学校の制服と荷物を抱えて一階に降りて行った。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
朝早くで、今はまだ数人の学生しかいない北連高校三年C組の教室。
そこに意味もなく早く登校して、自分の席で突っ伏して惰眠を貪る俺は、周囲から見れば友達のいない寂しい奴という印象を受けるだろう。
その評価は間違ってはいない。
学校で親しい友達は三人ほどしかいなく、その三人と別クラスな俺は放課後、昼休み以外の休み時間はほとんど一人で過ごす。
別にそれをどうとも思わず、年中一人で学校生活を満喫する俺は正真正銘のボッチなのだ。
それを一、二年と貫き通して高校三年生となっている。
結果として、この学校の学生は俺に対して無関心という姿勢を取っていた。
だから、珍しく登校してすぐに惰眠に励むでもなく、鞄を置いて別のクラスに足を向けたとしても誰も不審な目を向けることもなく、気にすることもなかった。
俺の右手には花柄の折り畳み傘。
あまり人から物を借りたりしないせいか、必要もないのに傘を借りっぱなしはどうも心地よくない。
ならばすぐに返そうと、さっそく傘のネームプレートに書いてあった三年A組の教室に来てみた。
そもそも、ちゃんと傘の持ち主がこのクラスに存在するといいのだが。
「ん? 天じゃないか。おはようさん」
「――梅ちんか。おはよう」
親しい友達三人の内の一人、坊主頭の梅山と偶然にも鉢合う。
「うちの教室の前でフラフラして、何か用か?」
落ち着いた低い声で尋ねる梅山。表情の変化はない。
こいつとは中学からの仲で、昭和の時代から抜け出してきたかのような見た目が特徴だ。性格も最近見ないタイプの堅気なやつで、その性格が好きで何かと交友を持っている。
不愛想ゆえに勘違いされやすいが、決して冷たい奴ではない。
「ちょうど良かった。聞きたいことがある」
先に梅山に確認しておくのも悪くない。
例の少女について聞いておこう。
「なんだ?」
「えっと……、朧月夜って名前? の学生探してるんだが。知らないか?」
傘のネームタグを確認しながら尋ねると、梅山は一瞬考えて頷く。
「ああ、あいつか。うちのクラスにいるぞ」
本当にいるらしい。
それにしても苗字と名前の相性が良すぎて、抑揚のない読み方で読んでしまった。
苗字が朧で、名前が月夜だと思うから、春の夜に浮かぶ月の名前と、同じイントネーションで読むのは間違いだろう。フルネームで呼ぶことがあるとしたら注意しなくては。
「梅ちんが女の名前を憶えてるとか、珍しいな」
「1ヵ月ほど前に転校してきたばかりの生徒だったからな。流石にわかる。それと下の名はツキヨではなくツクヨだ。本人の前では間違えるなよ。――ふむ、まだ登校していないようだな。席は空だ」
梅山に続いてクラスを覗くが、確かに昨日見た小麦色の髪は見当たらない。
にしても転校生だったのか。中学校では転校してくる生徒は度々いたが、高校では珍しいな。
「そもそも天が朧月夜に何用だ? 言いたいことがあるなら伝言は俺が持つが?」
「伝言は必要ないよ。実はな――」
説明する必要は無かったのだが、一応俺と梅山の仲なので軽く事情を説明すると、梅山は無表情のまま「なるほど」と呟く。
「あの転校生が天を助けたとはな。普段は俺や天と似て、独り身根性の染み付いた寂しい奴と思っていたが、やる時はやるようだ」
「教室では大人しい子なのか?」
「ああ、いつも一人で寝ていたりしている」
マイペースな感じの少女だとは思っていたが、俺の同類らしい。
転校して一ヶ月ならそんなものだろう。
女子のボッチは男子のそれとは気色が違うと聞く。女子グループの世界は格付けがあったり、裏ではドロドロしていたりと大変らしいので、単に人間関係が苦手という訳ではないかもしれない。
俺の場合は人見知りと孤独主義が拗れているだけだが。
「しかし、天は相も変わらず義理堅いな。傘などクラスの連中に預ければいいだろう。礼も本人が要らんといっているなら必要ないと思うが?」
「それだと薄情じゃないか? 命の恩人だぞ」
「天は過剰に反応し過ぎだと俺は思うぞ。助けた本人が礼を要求するならともかく、本人にその気がないなら感謝の言葉一つ言って、簡潔に終わらせるのが一般的だ。それがお前の長所の一つだとわかっているが、少しは肩の力を抜け」
軽く俺の肩を叩いて力を抜けと促してくる梅山。
大きな掌から伝わる優しさに絆されそうなるが、そういう訳にはいかないのだ。
「ありがとうな梅ちん。でも傘は俺が直接渡すよ」
「……ほどほどにな。調子が良くないようだし、無理はするな。もう俺は行くぞ」
「ああ、呼び止めて悪かったな」
「話しかけたのはこちらが先だ。気にするな」
それだけ言い残して教室に入っていく梅山を、小さく手を振って見送る。
天音に続いて梅山にも精神的な不調がばれてしまった。感情が外に漏れないようポーカーフェイスを徹底しているつもりなのだが、どうやら親しい連中からはすぐわかる物らしい。
自分で思っているより顔に出やすいのかもしれない。
気恥ずかしさに頭を掻いた後、A組の教室前で小麦色の少女が登校するのを待つ。
だが、五分、十分、二十分と経ってもその姿が現れない。
何かおかしいと教室に入って梅山に改めて事情を聞いてみたところ、朧月夜という学生はどうも不登校気味らしく、三日に一回ほど学校に来ないことがあるらしいと判明。
俺は三分の一の外れを引いてしまったようだった。