5 浮気とどう向き合うか?
鹿目の浮気が確実だとわかって、すでに数十分が経過した。
生ける人間の抜け殻となった俺を、ニヤニヤしながら眺める妹の嬉しそうな声が響く。
「まあ、気にすんなって! 彼女くらいまた作ればいいじゃん。この世に女は星の数ほどいるからさ! ああ、星に手は届かないって返しはナシね」
「……」
「いい物件は他にもいろいろあるよ? 何なら、天望高校のいい子ちゃん紹介する? 鹿目ほどの良物件は無理だろうけど!」
「……」
「しゃあないでしょ! そもそもアニキに鹿目みたいな上物はそもそも釣り合っていなかったんだよ。ちゃんと客観的に自分見ろよ。そんなに湿気っていたら余計モテなくなるぞ。今でさえ目を覆いたくなるほどの非モテだってのに」
「――お前は俺を慰めたいのか、貶したいのか、どっちだよ?」
「お。やっと起きたか」
本来の調子を取り戻したのか、先ほどのしおらしさは微塵もない。
慰めるふりしてさり気なく煽ってくる天音に耐えかね、仕方なく意識を再起動する。
人が失恋で弱っているのをいいことに死体蹴りしてくるとは、相変わらず俺に対して容赦がない奴である。
俺の前ではこんなんでも、学校やご近所では明るく思いやりがあり、好感の持てる美少女で通っているのだからホント詐欺だ。
可愛げの一つでもあれば、俺もこいつに対して好感が持てるのに。
「別に寝ていたわけじゃないよ。現実を受け入れるのに時間がかかっただけだ」
「そう。ならいいけど」
「そうだよ」
椅子の背もたれに深くもたれ掛かって、天井の蛍光灯を何気なく眺める。
そのまま目を閉じると、瞼を通した薄明かりの中に、鹿目の姿が浮かんできてこちらに微笑んでいるのが見えた。
その曖昧な光の中に溶けるように明滅する鹿目の幻を、再び目を開け、光で塗りつぶす。視線の先にあるのは蛍光灯の輝きのみ。
「――でも、なんていうか……。いろいろと吹っ切れたな。浮気されていると確信できたら、不安に心惑わされることはなくなったわ……。落ち込んだ気分は戻らないし、何もやる気が起きないくらい鬱だけど。少なくとも、気持ちに一区切りついた」
諦観の念を滲ませた言葉が、自然と口から漏れる。
浮気されているのか、していないのかわからない宙ぶらりんよりも。はっきり浮気されていると確信したほうがまだ幾分、楽ではあるのだから。
燃え尽きて真っ白になっている俺の様子に、からかいの言葉が飛ぶ。
「敗北者の境地ってやつ? 負けたことのない私にはわからないなー」
「……お前、何でそんなにうれしそうなんだよ。俺の不幸がそんなにいいのか。昔から周囲に対しては必要以上に猫かぶるぶるくせに、俺には遠慮の欠片もないとか無駄に傷つくのだけど……。さっきみたいに心配してくれてもいいのにさ」
徹底した毒舌にジト目で天音を咎めると、何故か赤面しながら視線を反らし、
「さっきは……。だ、だって、倒れたりしたら困るし……」
快活に喋る天音にしてはらしくないボソボソした声で、何か呟く。
「ん? 何だって?」
「っ!! アニキの不幸が私の幸せだって言ったんだよ! 難聴野郎!」
再び投げられた投擲枕。
二度目だけあって、飛んできた枕を楽々に受け止めて安心したところを、続けて飛んできたゲームコントローラーに血の気が一気に引く。
反射的にコントローラーを枕のクッションで包み込み、危機一髪のところで受け止め、安堵のため息をつく。
「物を投げるなって子供の時に習わなかったか?」
「生憎と、アニキの私物は投げるなとは習ってないね」
屁理屈をこねやがって。
「それで? まだ鹿目と付き合い続けたいと思ってるの?」
元の位置に受け取ったコントローラーを仕舞い、散らかっていたゲーム関係の機器も片付け始めた俺を、天音は腕を組んで問いただす。
「……わからない。もう少し時間が経ってからでないと判断できない。――でも、もう今まで通りにはいかないだろう。このままの関係を続けるのはお互いにとって辛いだけだし、別れることになってもおかしくはない」
「来るもの拒まず、去る者追わず。か。相変わらずアニキの人間関係はドライだね」
天音の言葉に、ふとある違和感を思い出す。
「……何で鹿目は俺と別れてから、その高良田って奴とくっつかなかったんだろうな? 天音の話によると天望高校では公然と付き合っていると見られているらしいし。俺にバレる可能性をちゃんと考えたのか……?」
片付けが終わった俺は、椅子に深く腰掛ける。
天音もせっかく元に戻した枕を抱き、ベットにもたれ掛った。
「そりゃあ、体裁が悪いからじゃないの? そうゆうの気にしそうなタイプじゃん。他に好きな男ができたから別れてくれって私でも言いづらいし」
「そうなのか……?」
浮気がバレる方が、比べ物にならないほど体裁が悪いと思うのだが。
まあ、現に浮気されているのだから天音の言うことが正しいのだろう。こいつ、勘も鋭いほうだし。
「……じゃあ、おしまいか」
「そうだよ。決まってんでしょ。私がそう言ってんだからそうなのよ。いつまでうじうじしてんの。いい加減にしてよ情けない」
いきなり立ち上がる天音。その表情見た俺は、はっと息を呑む。
そこに在ったのはいつも俺に対して見せる小悪魔的な悪い笑みではなく、捕食者を思わせる戦慄の笑み。
感情の籠らない瞳が俺を捉え、絶対零度の視線が体を貫く。
「理由なんて結局どうでもいいんだよ。事実こそが重要でしょ。
アニキの彼女は浮気した。ほぼ確実に、それは変わらない。
そして、アニキはそれを問い詰める勇気もなく。このまま彼氏彼女ごっこを続ける気もない。
――違うとは言わせないよ。アニキのことは何でもわかるんだからね。
アニキにとって、恋愛によるお付き合いとは信用が第一だと思っているよね。だから、愚直なまでに約束事やルールを守る。相手の信頼にこたえ続けるために。偉いよね。つまらないくらい誠実だ。わたしはいいと思うよ。そこがアニキの良さだ。
でも、あの女はそれを裏切った。最悪の形で。
なら、終わりだ。先はない」
有無を言わせない、確信ある声。
思えば、子供の時に何度かこんな風に言われたことがあった。
神童だともてはやされ、すること成すこと全て成功してきた妹は、時に自分のことだけでなく、俺にもあれやこれやと命令にも似た助言をしてきた。
逆らうと大抵ろくなことがなく、散々な目に会うが。従っていれば結果的に良い方向に落ち着いたものだ。
優秀な妹の助言に従えば大抵の物事は上手くいくのだと、刷り込みにも近い確信を幼いながらに思ったものだ。
「鹿目と付き合い始めた時に、私が言ったこと覚えてる? アニキに彼女ができるのはいいことだと思うけど、でも鹿目はアニキに合わないって。もちろん覚えているよね。それで喧嘩になりそうになったし」
確かに言っていた。
彼女ができて喜んでいた俺は、その一言で大いに気分を害して言い争いに発展しそうになった。珍しく天音が的外れなことを言っていたので印象に残っている。
そうだ。その時、天音は別のことも言っていた。あれは確か――
「そして、こうも言ったよね。アニキは鹿目に裏切られるって。あの時、アニキはそれだけは絶対ないって言い張ってたけど。本当のことになったじゃん。やっぱ、私が言うことは正しいんだよ。アニキのことは私が一番よく理解している。でしょ?」
「まあ、確かに現実になったが。じゃあ、そこまで言うなら、一体どんな相手が俺に相応しいか教えてくれよ?」
自然とそんな質問を天音に返す。
ここまで言い当てるのなら、俺のことを俺以上に知っているのだろう。生まれた時から一緒生活してきた家族だから、何でも知っているという発言にも信憑性はある。
自分のことは自分ではわかりづらいとも言うし。
だったら、俺との相性がいいタイプくらい教えてもらおう。天音の恋愛観も興味がある。
天音はその言葉を待っていましたとばかりに手を叩く。
「ボッチで根暗で甲斐性がなく、見た目もパッとしないアニキには同じようなレベルのお相手がお似合いだよ。鹿目なんて上物、手をつけたのがそもそもの間違い。高嶺の花に何触ってんだよ雑種、って感じ」
「……言ってくれるなお前」
要するに身の丈に合った彼女にしろってことか。もしくは、もう少し自分を磨いてから出直せと言っているのか。
どちらにせよ期待していた答えではないが、しかし一理ある。
「……確かに鹿目に俺は見合わなかったかもな」
「でしょ。アニキに美少女なんてもったいなすぎるわ」
近くにあった団扇でTシャツの中を扇ぎながら、手厳しい言葉を投げる天音。
可愛げがない妹でも、目の前にいるのは同年代の美少女。団扇で扇ぐたびに、服の下から覗く汗で濡れた柔肌から、咄嗟に視線を逸らす。
その様子が可笑しかったのか、天音は薄く笑みを浮かべた。
「まあ、でも……。どうしても高嶺の花に手を伸ばしたいっていうのなら……。考えないでもないけど」
「――どういう意味だ?」
「少しは自分で考え…………、――え? 何それ?」
「はい?」
何の脈絡もなく唐突に指差された先を見ると、部屋に入った時に置いたパーカーの上にある花柄の折り畳み傘があった。
「あー、それか。実は今日の帰り道にトラックに轢かれそうになってな。その時に助けてくれた人が、雨が降るとか言って貸してくれたんだ。結局、雨は降らなかったんだが」
一応、貸してもらっていることにはなっているが、連絡先も知らないし、会う約束もしてないから、傘を返すのはほぼ絶望的といっていい。
たぶん貸してくれた本人も、傘が戻ってくるとは考えてないだろう。
「じゃあ借り物の傘ってわけ? どんな奴だったの?」
「俺と同じくらいの歳の女の子だったけど」
「……あっそう」
俺から離れてその傘を手に取った天音は、怪訝そうにそれを見下ろす。
考えてみれば名前も教えてもらってない。鹿目とも、天音とも違うミステリアスな雰囲気を持つ美少女だったが、あの人気のいない商店街の近くに住んでいるのだろうか?
となると距離的に近いし、また会える可能性も意外とあるかもな。
特に印象に残った夕陽に輝く小麦色の髪を思い出していると、ジト目を向ける天音に気が付いて思考を振り払う。
「そうそうアイスだけど――」
『天音―。晩御飯できたわよー。降りてらっしゃい』
ちょうど轢かれそうになった話が出たので、アイスが駄目になった理由を説明しようとすると、不意に一階から聞こえてきた母さんの声。
時計を見ると確かにそんな時間帯になっていた。
「はーい。今行くー」
扉を開けて一階に向けて返事をした天音は、傘を放り投げてこっちを向く。
「話は後で聞く」
そう言い残すと、そのまま振り返ることなく階段を駆け下りていった。
夕食に妹は呼んで、俺は呼ばないあたりが実に母らしい。
一応、俺の分も用意されているので、料理が冷めないうちに俺もついていこうと椅子から立ち上がり、ついでに乱暴に捨てられた傘を拾って壊れていないか確認する。
「あれ?」
ふと、持ち手のところに小さなネームタグが付いているのを発見する。折り畳まれた傘の中に隠れて今まで気が付かなかったのだ。
そこに書かれていたのは傘の持ち主であろう名前とそして――
「……傘。返せそうだな」
北連高等学校、三年A組在籍、とあった。
それは、俺が毎日通っている高校の名前だった。