45 旅の始まり
電車と飛行機に乗って数時間、その後バスで港まで向かい、そこからフェリーに乗って数時間。それだけの手間をかけて辿り着く場所こそが、俗世から離れることで時間が緩やかに流れている南の島。
自然豊かで文明が薄いこの離島。
名前を波旬島という。
面積は約40平方キロメートルと、離島にしては意外に大きいところではあるが面積に比べて人口は少なく、今のシーズンともなると島民よりも観光客の方が多いほど。その観光客の数も他の観光地と比べたら全然いないという点から、住民の少なさが伺える。
まさに南国といった風土の土地で雰囲気はあるのだが、特別に優れた観光名所がある訳でもなく交通の便も悪いということもあり、旅行目的で訪れる人は少ない場所。
それがここ、波旬島の一般的な評価だった。
まあ、だからこそ、孤独を楽しむ一人旅の目的地としてここを選んだわけだか。
着岸した船から降りて港へ降り立った俺は、背中に背負ったデカいバックパックをしっかりと背負い直し、夏の暑い太陽光を手で遮って強い刺激から目を守る。
「……陽射しが強いな」
何気なしに呟いた言葉が、実感を持って重みを伝えてくる。
肌をじりじりと焼く天然の殺人光線もそうだが、この場に満ちる熱気も容赦なく、船内の冷房で冷えていた体を一瞬で沸騰させる勢い。
先ほどまでと温度差がありすぎて、息苦しさすら感じてくる。一気に全身から汗が拭き出して止まる気配がない。
流石は南国の島。尋常じゃない暑さだ。
「ちょっと、止まらないでよ。後ろがつっかえるでしょうが」
「ああ、ごめん」
背中を突いて来る声に押されて歩き出すと、Tシャツに短パンというラフな格好をした天音が、ムスッとした顔でついて来る。
何か言いたげな視線をこちらにぶつけながらも、しかし口端をギュッと結んで不機嫌そうに沈黙する天音に、俺は苦笑と共に振り返る。
「まだ怒ってるのか? そんなに俺以外の同行者が付くのが嫌なのかよ。お前はそんなに人見知りだったとは、意外だ」
「っ! ……別に。怒ってないし」
こちらの問いに片目を吊り上げて反応しそうになったが、結局、素っ気ない態度のまま、そっぽを向いて険のある返事を返す天音。
その視線の先には並んで舷梯を降りてくる他のメンバーの姿が。
船酔いで気持ち悪くなったのか、肩を落としながらよろよろと歩く貝塚と、港に降りて早々に今時珍しいフィルムカメラで周囲の風景を撮り始める梅山。
そして、白い生地に薄い紫が流れるワンピースを身にまとった月夜が、二人の間を抜けて港に降り立つ。
普通の人が着れば俗っぽさが出そうな癖のある服も、月夜が身に纏えば深窓の令嬢のような趣が出て、万人の目を奪う瀟洒な美しさを醸し出している。
この場合、顔が前髪でよく見えないのも雰囲気を出す良い按配となって、月夜がいるその空間だけ、涼しい風が吹いて気温が下がっている印象を受けた。
小麦色の髪が風に吹かれるのを押さえていた月夜は、自分に見惚れて突っ立っている俺と天音を見つけると、そのまま真っ直ぐ近づいてくる。
「――綺麗だな」
「うん。そうだね。透き通って蒼く美しい海は見る者の心を清めるし、島の自然もここから見えるだけでも風情があって、ホントに綺麗で美しいところだよ。期待通り……いや、実物は期待以上のものだ」
「え? あ……、ああ」
目の前で立ち止まった月夜の言葉に、曖昧に頷く俺。
月夜の姿が綺麗だと褒めたのだけど。……言い直すのも無粋か。
勘違いを訂正するのも野暮だと思い、そのまま黙っている俺から視線を外した月夜は、柳眉を逆立てながら睨みを利かせていた天音に、怖気づくことなく優しく微笑みかける。
「天音ちゃんもそう思うよね?」
「…………ちゃん呼ばわりすんな。アンタと私はそんな気安く呼びかける仲じゃないでしょうが。気取った態度で話しかけてこないでよ。朧月夜」
「そう言わずにね。ボクのことも愛称で呼んでいいからさ」
「――ちっ。ムカつく奴」
短くそう言い放つと、強い足取りでその場から立ち去ってしまう。
辛辣な態度を隠そうともしない妹に、一瞬、呆気に取られていた俺は、慌てて月夜に向き直る。
「う、うちの妹がごめん……! 後であいつに謝らせるから、許してくれ」
「別にいいって。気にしてないから」
鷹揚な物言いをしながら、離れていく天音を眺めている月夜。
無礼な発言も笑って許してくれる寛大さには頭が上がらない。自分の思い通りにならないからと、周りに当たり散らす心の狭い妹と比べれば、二人の人間性の差はまさしく月とスッポンの差だろう。心の器が違うのだ。
天音には是非とも月夜の爪の垢を煎じて飲んで欲しい。
「にしても、やっぱ珍しいな」
「ん? 何の話?」
顎に手を当てた俺を月夜が不思議そうな目で見る。
「いや……、天音が外面を気にせず本心を露わにするのが珍しいって話だ。あいつの本性がワガママモンスターであるのは事実だが、それを人前で取り繕うことなく見せるところはホントに珍しい。親の前でも優等生を演じるほどの猫かぶりなのによ」
「あはは、それくらいボクのことを信用してくれているってことだよ」
「…………能天気だな」
鈍感というか。前向きというか。
あれだけ敵視されているのに何故か嬉しそうだし、天音が月夜を嫌う理由もわからないが、その天音に対して微笑ましいものを見る目で接する月夜も、ちょっと理解できないというか、一般的な反応ではないよな……。
二人が会ったのは前回が初めてで付き合いが浅い筈なのだが、二人の関係はすでに複雑怪奇のように絡み合って見える。
まあ、色々あるのだろう。
女子同士の関係は男の俺にはさっぱりだが。
「ともかく、予約したホテルのチェックインを済ませよう。全員、船から降りたよな? 天音は先に行ったし、梅山と貝塚はそこにいるから……。――ん? あれ、四季は?」
「いやここに居ますって」
地の底から響くような低音ボイスに振り向くと、げんなりとした表情を拵えた四季が背後霊の如く、俺の影に体を押し込んで縮こまっていた。
「うわっ、近っ!! ――何やってんだお前!」
「あ……。こらこら、逃げないでくださいよ。せっかく武島を日差し避けに使ってたのに」
距離を取ると必然的に日向に放り出され、顔を歪めて愚痴を吐く四季。
しょうがないなといった風に、よっこらせと年寄りくさい動きで立ち上がる。
つば広の黒帽子に夏用の薄い黒ストールと黒のロングスカート。紫外線対策を重視し過ぎてファッションがおろそかになっているのも相まって、若干おばさんっぽい残念さが滲み出ている。
見た目よりも実用性を気にする辺りが実に四季らしく、別段、俺は嫌いじゃないのだが、でもやはり天音や月夜に比べると、悪い意味で目立っていて暑苦しい格好なのは間違いない。黒い姿は見ているこっちが辛いのだ。
皆、四季の姿を見て苦笑していたしな。
そして今も苦笑を浮かべるだろう俺は、一呼吸置いて口を開く。
「――いやホント、びっくりしたわ。人のことを日傘代わりに使うとは、また子どもみたいな真似を……」
「……はぁ、でもいいじゃないですか、別に。減るもんじゃあるまいし」
「それはそうだが、せめて一言だな」
そう言うと、四季は眉根を寄せて「やれやれ」と肩をすくめる。
「……まったく。あれですか? 自分の影に入りたいならお金を払えと言いたいのですか? たかが影で休んでいたくらいでケチ臭いですねー……。そんなこと言っていると、後で損しますよ。こかげにころりですよ」
「いやいや、もう少し歩いたら木陰くらい見つかるって。わざわざ小さい人影で涼む必要ないだろ。それに、背後に居座られると背中がむずがゆくて気になるというか、まさに影法師みたいでさ。なんか気になっちゃうから」
「さいですか。繊細な人ですね武島は。モテなそうなタイプです。まあ、事実としてモテないのでしょうけど」
「お、おう」
離島の容赦ない暑さのせいか、揶揄の多い四季。
やけに毒舌が光っているが、いつもよりも何割か増しで怠そうだし、天音と同じで機嫌がよろしくないのかもしれない。
そもそも、引きこもり体質の貧弱娘が普段いかない場所に赴くと決意したのが、非常に意外な話だ。面倒くさがりで暑いのが苦手な四季が、この旅行に付き合うとは思わなかった。
十中八九こんな旅行の誘いなど断るだろうなと、薄々予感していた俺だったが、――実際はこうして、無理を押してまで俺たちに付いてきている。
「なあ。ところで、何で旅行に参加する気になったんだ? 旅行はリア充のイベントだから、参加するよりも妨害の方がまだ楽しいと、馬鹿にするだけだと思ったが。まさか、ホントに誘いに乗るなんて」
疑問を投げると四季は口を閉じて、チラリと視線だけで月夜を窺う。
それを受けて、黙って横に控えていた月夜は口角を上げて「それはね」と話を繋ぐ。
「ボクが旅行に誘ったからだよ。四季はボクと離れたくないというわけさ」
「……なんとまあ、紛らわしい言い方を。否定はできないのがまた厄介です」
ウンザリした様子で溜息をつく四季。
「月夜さんの様子が数日間もわからない状況なんて、そんなの看過できる訳ないじゃないですか。なら、何処へだろうとついて行くしかないのですよ。こっちだって、好きでこんな灼熱地獄に身を晒したいわけじゃないです。月夜さんが行くからしょうがなく……ですよ」
「え。お前らそんな仲なの?」
今まで見たこと無いくらい他人に執着する四季に、言い様のない違和感を感じていると、小麦色を揺らしながら笑いを堪える月夜が、可愛く腕を組んで人差し指を立てる。
「ふふ、一言では説明しきれない仲なんだよ。ボクと四季はね」
「そうか。短期間でそんなただならぬ関係に。――月夜。お前もしや人たらしだな? 心の壁が厚い四季をあっさり攻略するとは」
俺に対してした告白も、閉じた心を開くための一環か? と、言外に茶化してみると、月夜も同じく視線で「まさか!」と伝え、両の掌を見せる。
「別に難しいことじゃないよ天馬。孤独は人の正しい形じゃない。どんな冷めた人だろうと、常に誰かの温もりを求めているものだ。そこをタイミングよくかつ優しく突けば、あっさりと靡くものだ。こんな風にね」
「――何がこんな風にですか! あることないこと、言いたい放題言ってくれますね。拗ねますよ」
「まあまあ、多少の誇張はお喋りの醍醐味だよ」
「いけしゃあしゃあとそんなことを」
四季の死んだ魚の目で直視されても、たじろぐことなく軽口を発揮する月夜。
その間には遠慮や無理な愛想はなく、短い付き合いとは思えないほど打ち解けて、互いに自分の本音を隠すことない気安さが感じられた。
この二人。やはり普通に打ち解けている。
本当に友達として付き合いをしているのだろう。意外なことに。
結局、暑いのが苦手な四季が、こんな場所まで付き合いに来た理由はよくわからないが、ともかく、引きこもり気質を治すいい経験だ。
たまには外で新たな刺激を体験するのも、人生を豊かなものにする要因の一つだし、女性グループとして、関係の怪しい月夜と天音の間に入って緩衝材になってくれたら、――という思惑もある。
俺としては四季が付いてきてくれて、嬉しい限りなのだ。
「おい、俺たちも先行くぞ」
そうこうしているうちに、梅山と貝塚がいつの間にか天音の後へ向かっていたので、取り残された俺たちも、二人の背中を追うように歩き出す。
図らずも大所帯となった旅行。
しかし、こいつらは観光名所もないこんな離島に何を求めてきたのかと思案しながら、焼きつけるような暑さに汗を滲ませ、天上に輝く太陽に目を細めるのだった。