43 旅は道連れ
「――え。何やってんの?」
前触れもなく扉を蹴破って天音は、開口一番に疑問を呈してきた。
学校を何事もなく終えて帰宅した後、自室の窓を開けて夏の夜の蒸し暑くも涼しい環境を楽しんでいた俺は、唐突かつ傲岸不遜に登場してきた妹に、訝しげな視線を送る。
静かで風勢な雰囲気を一人楽しんでいたら、それらを台無しにする厄介者が訪れたようだ。最近しょっちゅう来るが、暇なのかコイツ……。
心中で悪態をつきながら黙ってまま、衣服やタオル、常備薬や衛生用品などをバッグパックに詰め込んでいく。
「何で荷造りしてるわけ……。私なんも聞いてないけど!?」
「お前には言ってないからな。知らなくて当然だ」
「はぁ? どうしてよ?」
「……そんなの、そっちには関係ないだろ。いいから出て行ってくれ。邪魔だから」
折り畳み傘と懐中電灯を見比べ、その両方をどうにかバッグの狭いスペースに押し込みながら、背後で騒ぐ天音に適当な返答を返す。
計画自体は前々から考えていたが、これは俺一人の個人的な趣味なので、必要以上に他言していない。家族の誰にだって言ってもいない。
ああでも、両親は俺に関心がないとはいえ、数日間ほど家に帰ってこない訳だけだから、行く前に一言いれるべきか……。
顎に手を当てて考え込む俺。意外とやることは多く、準備に余念はない。
――途端、背後から猛烈なキックが飛ぶ。
「――っ! 痛いっ!!」
「クソアニキのくせに、私を蔑ろにすんな。質問に答えろっての!」
「……っ!」
「せっかくさー、道を歩けば誰もが振り向くような美妹に興味を持ってもらえたんだから、素直に答えてよね。
だいたい、いちいち言われなきゃわからないとか、愚鈍にもほどがあるでしょうが! なに? もしかして、アニキは私に興味がないって言いたいわけ? 会話する気が起きないくらいつまらない妹だって、そう言いたいわけ!?」
キンキンと響く怒声に片耳を押さえ、容赦なく蹴られて痛む背中を擦る。
強引に不法侵入してきて、さらに入室三秒で部屋主に暴力。遠慮がないというレベルじゃないだろうに、まさに暴れ馬の如しだ。こいつの機嫌は春空模様よりも変わりやすいな。
――しかし、親しき中にも礼儀があるように、家族間でもやっていいことと悪いことがある。理不尽さの極みを突き進む天音に、流石の温厚な俺も黙ってはいられないぞ。今回ばっかりは堪忍袋の緒が切れた!
誰もが弁えている常識を、このルックスと才能だけの人間性スッカスカ女に叩き込んでやる……!
そう意気込んで立ち上がろうとした俺。
しかし――
「話を聞けって……言ってるでしょ!」
「――っ!」
耳元のすぐ近くで凛と鳴る声。
鼻息荒く戦意を滾らせていたのもつかの間。
急に背中から抱き着いてきた天音が、俺の首に回した華奢で細い両腕をしならせて、ガチッ、っと、チョークスリーパーの形で締め上げてきた瞬間、顔の血が一瞬で引き潮のように引いていくのを感じた。
締め技はマズい。対処不可能だ……っ!
「ま、待った!! ちょっと待った! ――言うよ! 全部言いますから離してっ!!」
「何? 私にハグされるのがそんなに嫌?」
「――ちょ、ふざけてる場合じゃない。締まる……、締まっちゃうから!」
先ほどの決意をあっさりと放り投げ、電光石火の速さで白旗を上げた俺。
だってしょうがないじゃないか。天音は俺に対して手加減しないから、やるとなったら本気で意識を落とすまでやるんだよ。今日の天音はやけに野蛮人モードで、どうにも話が通じないみたいだし。
しかも、俺と天音は男女の体格差があるというのに、それを苦にせず技を決める技量がこいつにはある。力技でこの状況からは逃げられないのだ。
最悪、失禁して無様を晒すことになる可能性を考えると、ここは大人しく負けを認めるしかない。それが無難。
「俺が悪かったよ。だから、この腕をどけてくれ。頼む。俺は苦しいのが嫌いであって、別にハグされるのは嫌いじゃないから……」
「私に誓って?」
「え……お前に誓うって……。いや、うん、何でもない。妹にでも神にでも誓うから。どうかお願いします!」
「……」
情けない俺の声が届いたのか、首に掛かっていた腕の力が緩む。
だが、相変わらず技は解かれないままだ。
「えーっと……。あ、天音?」
「このまま話して」
「いや、でも。態勢がきついんですけど……。それに、互いの体がくっついて暑いのだが?」
「口答えするな。さっさと事情を話せって言っているでしょ」
再び首に回った両腕に力が籠る気配がしたので、仕方なくこの状況を妥協する。
生殺与奪を握られている相手に対して、強気には出れない。
……それにしても、綺麗で透き通った肌だな天音は。
こんな時に思うことじゃないと弁えているが、触れあっているから否が応でも思い知らされる。不可抗力でな。
今は僅かに汗が滲んでしっとりしてるが、汗臭い感じは一切せず、逆に俺の暑さゆえの発汗や緊張による冷や汗が、密着している天音のきめ細やかな素肌を濡らして、どことなく淫靡な雰囲気を醸し出している。
微かに息の上がった天音の吐息が、近くにある俺の耳に掛かることもあって、兄妹じゃなかったら色々とヤバい状況だ。
一体全体、何のために首を締め続けられなくちゃいけないかは知らないが。
――まあ、それはともかく。
首を握られた状態で何とか溜息をつき、事情を話すために口を開く。
「大した話じゃないって……。ほら、直近の休日は連休だろう? その長期休みの間にちょっと一人旅というか。旅行に行こうかと思ってな」
「旅行って、なにそれアニキらしくない! 本気? マジで言ってる? 急にどうしたの。……まさか発情期? 運命の相手でも探しに行くの? 鹿目じゃ不満ならそう言ってくれればいいのに。それなら、私が一皮脱いで――」
「うるさい。適当なこと言うな」
コイツの頭の中は年中恋色一色か。
相変わらず鹿目のことを軽視してるし、少しは自重しろ。
「いいじゃん別に。……それで、何処に行こうってわけ?」
「はぁ……。離島だよ。別に観光名所とかじゃない。知る人ぞ知るみたいなマイナーな南国の島にな。……息抜きに」
別に隠すようなことでもない。
何処か遠くへ行きたいと、常々夢想していた年頃の多感な高校生が、夏の暑い時期に風情のある離島で、ゆっくりと時間が流れるさまを堪能したいと思い至っただけ。よくある話だろう。
離島特有の潮の混じった夏風に吹かれながら、見渡す限り海と林と畑しかないような一昔前の光景の中、人のいない浜辺で悠々と泳いだり、民家が点在する集落を練り歩いたり、都会の光が届かない夜空を見上げたりしたい。
何か明確なことをするでもなく、気分の赴くままに適当に。
それが最近になって、俺が憧れ始めたことだった。
そうして、日頃から「機会があればいつか……」と、考え続けていた所に、ちょうど連休があるもんだから、ちょっくらアクティブに行動してみるかと、インドア派な重い腰を上げた。
前々からお金を貯めていたお金を解禁して旅行のスケジュールを組み、何を持って行くかといった準備を念入りに整えている最中、天音の襲撃を受けたという次第。
「――そういう訳で、数日間ほど自分探しの旅に出かけてくる」
「ふん。何が自分探しの旅だ。カッコつけると滑稽さが増して惨めさが際立つからやめてよね、妹として恥ずかしいから」
「……はい?」
「だいたい、数日前から一人でこそこそとやっているから、秘め事でもしているのかと思ってからかいに来たら……。まさか、そんならしくないこと計画してるとか。ほんっと、考えれば考えるほどアニキらしくない」
天音の顔は見えないが、接触した肌から微かな震えが伝わってくる。
喉の奥で噛み殺すようにくぐもった声が耳元を撫で、横にまとめられた茶髪のサイドテールが揺れて、俺の鼻先をくすぐって来る。
もしかして、笑っているのか……?
「一人旅って。ホントに一人? 鹿目は誘わないの? 彼女なのに」
「これは、俺の個人的な願望による旅だからな。鹿目は最近なにか忙しそうだし、俺の息抜きに付き合わせられないよ」
「ふん……。それはそれで、彼氏としてどうかと思うけど。でも、うん。そっか――」
天音の声が静かに薄れ、何かを思案している気配が背後に満ちる。どうやら、天音に思う所があるらしい。
意識が思考の方へ向いたせいか、組み付きによる拘束がさらに緩み、力を籠めれば自力で脱出できるくらいまで天音は脱力している。チャンスだ。
体は熱を持つし汗がベトベトして気持ち悪いし、いい加減、実の妹に会話と命の主導権を握られ続けるのも我慢ならない。こここそ反旗の時。
唾を飲み込んで、ゆっくりと天音の腕に手をかける――
「こら! 逃げんな!!」
「――ぐぇ」
妹に隙などなかった。
後悔をしている暇などなく、容赦ない力で組み付いてくる天音に、たまらず身を捩って抜け出そうともがく俺。お互い床に転げ回って寝技へと持ち込む。
生存本能に刺激された無意識の行動。しかし、両腕だけでなく両足で胴体を固定されて完全に決められ、成すすべもなく無力された俺はもうどうにでもなれと、全身を投げ出して天音に全てを預ける。
惨めな兄の末路がそこにあった。
「そうだよ。アニキは弱いんだから、私に全て委ねればいいの」
勝ち誇った態度を誇示した天音はようやく拘束を解放し、倒れ伏す俺の上に馬乗りになってこちらを見下ろす。
その眼は、ギラギラと感情に満ちた輝きを放っていた。
端整な唇がつり上がり、淫魔の笑みがこぼれる。
「――私も連れてって」
「………………は?」
「一人寂しく離島に流刑されるのも忍びないでしょ。私が付き合ってあげる」
「はああぁ!? お前なに言って――」
「決定事項だから。反論は許さない」
有無を言わさない迫力でこちらを睨みつけ、腰を上げた天音は「こうしちゃいられない。私も旅行鞄の準備してくる」と、状況が飲み込めず混乱している俺を置いて、さっさと部屋を出て行ってしまう。
突然やってきて滅茶苦茶やって唐突に帰る。
まるで、嵐のようだ。
「な、なんで……? 何故に…………?」
その問いに答える者はもういない。
理解も納得もできず途方に暮れた俺の呟きが、ただただ虚しく虚空へと溶けゆくのだった。