37 謎の視線
北連高等学校の古文の授業は、3クラスを合わせて2チームに分けて授業をやる方式で、この性質上、古文を受けるほとんどの学生が移動教室となっている。
分けると言っても成績の良し悪しは関係ないらしく、グループ分けも出席番号順であることから察するに、いわゆる学生の理解度に合わせて応用組と基礎組に区別する選民的なあれではない。単純な教師不足による苦肉の策なのだろう。
まとめて授業を行うことで、本来は3人いるはずの教師を2人に抑えるためだと思われる。
……まあ、詳しいことは知らないので憶測になってしまうのだが。
そういった事情で移動授業となっている古文だが。今日は前回の授業でだされた課題をこなすため、図書室で調べものをかねた自習時間となっていた。
結構な人がいても静かな図書室にて、俺はよい感じの資料がないか漁っていた。
しばらくして、同じように資料を探しにきた月夜を交え、世間話や最近の近況を交わしながら一緒に本棚をまわっていた俺たちだったが、――月夜の呟いた不穏な言葉に、俺はパッとそちらを振り向く。
「――え? ストーカー?」
「うん。確かなことはまだわからないけどね。でも気のせいではないと思う。――常に誰かに見られているような。背筋がむずがゆくなる不快な眼が、ボクを見ている……気がするんだ」
対面する琥珀の瞳が揺れている。表情は硬く、普段の飄々とした月夜らしくない、思い詰めた顔で呟く。それだけで、月夜がかなり困っていることを理解した。
しかし、不快な視線か。
常にとなると、確かにストーカー被害に該当するのだろうか? ……普通にこれは深刻な問題かもしれないな。
まさか月夜にそんな悩みがあったとは。
「――いつから?」
「……つい最近のことだよ。ほら、一緒にケーキを買いにいったよね? その時期からかな」
「ホントに最近だな。先週からってことか」
「うん。学校内でも感じるし、外でも誰かにつけられている気配がする」
事情を聞きながら顎に手を当てて、脳内で様々な可能性を考えてみる。
まあ、月夜は他とは違った風変わりな美少女だし、年頃の男子が多い高校ではちょっと気になる女子として視線を集めているため、それらの内の一つではないか? と、聞いてみるも、どうやらそういう視線とは違うとのこと。
「感覚の話だから曖昧な根拠になるけど、好奇な視線や、歪んだ感情の絡む粘着質な眼差しとは根本的に違うんだよね。そういう意味では「ストーカー」って名称も不適切かもしれない」
「ん? どういう意味? 月夜の可愛さに目が眩んだ変質者の仕業かと思ってたんだが……そうじゃないのか?」
想像と噛み合わない月夜の証言に疑問の声を投げるが、月夜自身もよくわかってないのか、腕を組んで口を結び、数秒のあいだ黙考して小さく呟く。
「何というかな……。無機質で……、乾いた感じ。それこそ四六時中ボクを監視しているけど、見ている本人は、ボクに全く興味がないっていうか……、逆に面倒くさがっているっていうか……」
「なんじゃそりゃ」
どうも取り止めがないな。興味がないなら普通は見ないし、ストーカーなんてしないだろ。これじゃ予測も何も立てようがないぞ。
「……というか、視線って感じることができるどころか、そんな感情的なことまで判別できるんだ。俺は今までろくに視線って感じたことないけど。――それって感覚的なものなのか?」
「んー。女の勘みたいなものかな。天馬は無理でも、きっと妹さんも感じ取れると思うよ?」
「そんなわけ……。ん? いや、そういえば昔、そんなこと言ってた気が……」
ふと、懐かしい天音との雑談を思い出す。
何でも、聴覚が拾う微細な音や、肌が感じる微妙な温度差や空気の振動を、意識が認識できないレベルで感じ取っているだけで、実際には「気配」や「視線」という奴は存在しないらしい。
また、「偶然、振り向いたら、実際に見られていた」から、結果として脳は「視線を感じた気がしていた」と誤認することがあり、「偶然、振り向いたが、何もなかった」場合だと、そもそも「視線を感じた」ということさえ考えることはないと言われている。
その結果論として「偶然、振り向いたら、実際に見られていた」の方が強く印象に残って、視線を感じる第六感は存在すると思い込むという。いわゆる錯覚なのだそうだ。
天音はそれらを肯定した上で、微細な音や振動を意識的に感じ取れる超感覚を持ち合わせ、特殊な訓練をした場合、いわゆる「第六感」や「エスパー」の真似事くらいはできると言った。
真偽は定かではないが、天音は武術を習っている間にこれらを会得したらしい。
……ハッキリ言って眉唾物だったため、妹の行き過ぎた自慢話だと話半分に聞いていたが、プロの格闘家を下す程の実力を身に付けちゃった天音を見ていたら、あながち全てが嘘ではないと思うようになっていた。
――月夜の言っているのはそういう話……いや、違うか。
女の勘と武闘家の勘は別物だろう。男の浮気を見抜くスキルと、敵の強さを一目で見抜くスキルを比べるもんじゃない。エスパー染みている点は同じだが、似ても似つかない両者だ。
きっと関係ないな。
「……女の勘はいいとして、ともかく。こういう大事なことは家族や学校にも相談した方がいいんじゃないか? 大事になる前にな」
それが一番、適切な対処の仕方だろう。
何をするにも、まずは信頼できる大人に相談するのが最善。俺に悩みを打ち明けてもらったことは、信頼されてる気がして嬉しいが、正直、大した力になれそうにない。一男子高校生は公的に無力なのだ。
そう説明するが、月夜の浮かない表情は変わらず、むしろ俺の言葉に憂い気に溜息をついて、困ったように柳眉を寄せる。
「……ボクさ。実は今一人暮らしなんだ。マンションを借りて一人で高校を行き来している。それに、事情があって両親とはすぐに連絡は取れない。その理由は……ごめん、説明はできそうにない」
「え、いや! 別にいいよ。謝らなくても。こちらこそプライベートな事情を察せずに済まない」
聞いてはいけないことを聞いた気がして、慌てて謝罪する。
一人暮らしの美少女。おまけに家族と連絡が取りづらい関係。
――これはマズイな。格好の獲物というわけか。
「高校の方に相談はどうだ? なんなら俺から教師たちに言いに行っても――」
「それも、ごめん。出来れば黙っててくれないかな? あんまりこういうことを公にしたくなくて。天馬には……心配をかけるだろうけどさ。ボクは大丈夫だから」
「それは――! ……いや、月夜がそれでいいと言うのなら、それで……」
喉の奥まで出かかった反論の言葉をどうにか飲み込む。
女の子にとってプライベートはデリケートな話だ。迂闊にどうこう指図するべきじゃない。
ましてや、男で女性の事をよく理解できてない俺なんかが、どうして月夜にとっての最善の行動を予測できるというのだろうか。
きっと、本人にしか触ることの許されない、学校に言えない事情というものが存在するのだろう。だとしたら、お節介は無粋だ。
「……学校内ではできるだけ人のいる場所に居てくれ。それと、何かあったら遠慮なく俺に相談してくれ、力になる」
もちろん、大人の人に相談した方がいい。
――だが、本人が嫌がる以上。俺が言えるのはここまでだ。
若干、恰好つけっぽい台詞を吐いたので顔が熱い俺。どうやら目に見えて赤面していたらしく、キョトンとしていた月夜はクスリと笑い、陽だまりの暖かい微笑みを浮かべて元気を取り戻す。
「ふふ、やっぱり天馬は優しいな」
彼女さんが羨ましいよ、と最後に月夜はそんなことを呟く。
俺の言葉がどこまで月夜に影響を与えたかは知らないが、その表情からは、先ほどまであった不安そうな色は少し薄くなった気がした。




