34 邪魔者
「……。――お腹が痛いかも」
「え、先輩?」
次の目的地は歩いてゆくには少し遠く、バス停を目指して徒歩で移動していた俺と鹿目。
天気は快晴で清々しいお出掛け日和なのだが、先ほどから痛みなのか不快感なのか判別できない腹痛に襲われている俺は、陽だまりの気持ちよさを堪能する暇はなく、ただただ鹿目に悟られないよう気を遣っていた。
――が、それも限界。
言い出すのが恥ずかしくて、ちょっと調子が悪いくらいなら我慢しようと意地を張っていた俺が浅はかだった。これは調子が悪いどころじゃない、一発的中大当たりクラス。とてもじゃないが下らない見栄を守ってる暇はない。
腹の中で暴れ回るそれは強さを増し、耐えがたい腹痛に冷や汗を額に滲ませる。
唐突な腹痛宣言とみっともなく体をくの字に曲げている俺の様子に、鹿目が「またか」といった表情で溜息をつく。
「相変わらずお腹が緩いんですね先輩は。前々から忠告してますけど、やはり一度病院に行ったらどうですか? 何かの病気かもですよ」
「いつかに学校でやった検便では特に異常なかったし、普通に冷たい物の食べ過ぎだと思うんだよ。さっきデザートのアイスクリームをおかわりしちゃったから。……だから病院に行くほどじゃ……」
「ですけど、毎度じゃないですか。お腹が弱いから、で済ませるのはよくないかと」
鹿目は腰に手を当てて、面倒くさがる俺を優しく叱る。
その様子がお節介な母親のように見え、その姿が結構様になっていたことに思わずクスリと笑ってしまい、説教の途中でしかも人の顔を見て笑うとは何事かと、鹿目の咎める視線が飛んできて慌てて謝る。
わかってはいてもこの腹の具合とは子供のころからの付き合いなので、自分の中で平常運転だと認識していて、なかなか対処しようとは思えないんだよな。
慣れてしまったというか。
「と、ともかく。悪いけど俺はあそこのコンビニでトイレ借りてくるから、鹿目は向かいの公園あたりで待って居てくれ、だぶん……時間かかるから」
最近はお腹を壊すことはなかったからつい油断していたが、久しぶりのデートに羽目を外して腹いっぱいにアイスクリームを食べたことが、まさかデート相手である鹿目に迷惑をかけることになろうとは……。
――反省。
「わかりました。じゃあ公園のベンチで待ってますから」
こちらの言い分を皆まで聞く前に、特に嫌そうな顔をすることなく了承する鹿目。
いつものことだからと、慣れた様子で俺の体を気遣ってくれている。
「ごめんな鹿目。……なんなら鹿目もコンビニで涼むか? 外は暑いだろ?」
「いえ、目的もなく商品も買わないのにコンビニに入る訳にはいかないですよ。私は大人しく外で待っていますから。安心してください」
「わかった。じゃあ失礼して」
会話の最中もお腹の調子はどんどん悪くなって、顔から血が引いて腹に集まっているのを感じた俺は、お腹を庇いながら慌ててコンビニへと向かう。
できる限り早く済ませてしまいたいところだが、少なくとも数分は苦しみそうな腹の予感を前にして、気が重たくなるのを感じるのであった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
コンビニに駆け込む天馬を見送って公園のベンチに腰を下ろした私は、化粧ポーチからコンパクトミラーを取り出して、化粧や身だしなみのチェックを行う。
いくら鹿目になる為にウィッグや化粧で見た目を変えても、常日頃から「天音」を見慣れている天馬が相手となると、変装が崩れていたら正体を見抜かれる可能性がある。
そうならないためにも、こうした時間の合間合間に変装が崩れていないかを、ちくいち確認することは大事なこと、当たり前のことだ。
そうでなくても、女子は常に自分を美しく見せたいものだし。是非とも天馬には私の美少女ぶりを堪能してもらいたいという思惑もある。
天馬の急な体調不良は私としても心配な事柄ではあるが、そこは有効活用させてもらうとしよう。
……それにしても、私ってやっぱり可愛いな。
普段のラフな感じが一番だけど、眼鏡黒髪の優等生の姿も演じていて飽きない。最初は手段としての変装だったが、嵌ると何だか着せ替え人形みたいでちょっと楽しい。
鏡を見るたびに惚れ惚れする。まあ、私が素材なわけだし、当然出来もよくなるに決まっている訳だが。
様々な角度から鏡に映る自分の顔を見て、その完成度の高さに満足した私はコンパクトミラーをバッグに突っ込む。一応、デート中も変装に気を遣っていたおかげで乱れている点はなかった。
後は天馬が帰ってくるまで大人しく待つだけ……。
――なのだが。
どうやら面倒事が舞い込んできたらしい。
怪訝な態度を隠そうとも思わず、私はこちらにやって来たチャラ気な男を睨む。
「……なにか用ですか?」
「君可愛いねぇ。今日、一人? こんな場所で何やってんの?」
いかにも。そう、いかにもな奴。
髪を茶髪に染めて耳にピアス。顔と服装のセンスはなかなかなので、世間一般的に見ればイケメンの部類にはいるだろう青年が、顔に笑みを張り付けて私の目の前に陣取る。
「貴方には関係ないです。私に関わらないでください」
「まあまあ、そう言わずに。俺たちこれから食事に行くんだけど、どうよ? 一緒に食べに行かない? 奢るけど」
「結構です。食事は済ませました」
「そう? それならカラオケとかどうよ。何時間でもオーケーだぜ。ああ、もしかして他の奴らが気に食わないっていうこと? そんなら、あいつらは帰らせてもいいけど?」
「そういう問題じゃありません」
優し気な声とは裏腹に、しつこく粘着質に話しかけて逃がさないといつ意志がありありと感じられる。
そのくどさに睨みつける視線へ力を籠めるが、自身の容姿とナンパの技術に自信があるのかまるで怖気づく様子はない。
私の見た目はおしとやかな黒髪眼鏡だから、睨んでも迫力がないというのもあるだろうが、この態度には苛立ちが募ってストレスがじわじわ溜まる。
実は、先ほどから視界の端にチラチラと映り込み、失礼にもこちらをジロジロと不躾な視線を向けていた集団がいた。
ちょうど天馬と別れたあたりで公園の奥の方からやってきた彼らだが、遠くから聞こえてきた会話から察するに、どうも誰が綺麗な女性をゲットできるかゲームしているようで、その内の一人が私の見目麗しさに目を付けたらしかった。
こうなる事態は予測しつつも、天馬に公園のベンチで待って居ると言った手前、この場を離れることができずに運悪く捕まってしまったわけだ。
この状況、私にはよくあること。
……だが、何度体験しても不愉快な気分になる。
「――いい加減にしてください。私は人を待っているんです。何を言われてもついていく気はありませんから。諦めて帰ってください」
私は迷惑なナンパ野郎どもに舌打ちをしつつ、鹿目としてのキャラを保ちながらハッキリと拒絶の言葉を吐く。
怒りを孕んだ声が一帯に響き渡り、これには流石のチャラ男も言葉が詰まる。
少し離れたところでニヤニヤしながら、事態を見守っていたお仲間のナンパ集団もその汚い笑みを引っ込める。
その中の小柄で一番チャラくなさそうな少年が近づき「彼女嫌がってるし、別のいい娘探したほうがいんじゃね?」と、盛った馬鹿にしては賢明な判断でチャラ男を諭す。
だがそれに応じず、熱くなったチャラ男は更にしつこく詰め寄ってきて、そのウザさに思わず顔を背けてしまう。
「だれを待ってるか知らねーけどよ。俺と付き合うほうがぜってー楽しいから! な! 俺けっこう金持ってるし、いろいろ奮発しちゃうぜ。ほらいいだろ、一緒に行こうよ。べつに危ないことは何もないからさ。怖がらなくてもいいんだぜ?」
「…………」
軽蔑の眼差しでその言い分を聞いていた私は、余りの愚かさに呆れを通り越して目の前の男から完全に興味をなくし、話に付き合っているのも馬鹿馬鹿しくなってベンチから立ち上がる。
恐らく、私に比べれば取るに足らない顔でつまらない女どもを口説いてきた実績がこの男にはあるのだろう。ナンパを一切躊躇せず手慣れた様子で誘ってくるところから、自己の魅力に対して過大評価していることが窺えた。
これまでも経験と自惚れから、分不相応にも私という高嶺の花にまで手に入れられる勘違いをしているのだろうが……。
――そんなわけあるか!
そういう風に見られているだけで虫唾が走るし、言い寄られたせいで気分は最悪。お前みたいなのを引き寄せるために、身なりに気を遣ってるわけじゃない!
天馬に喜んでもらうため、天馬に嬉しい気持ちになってもらうため、天馬が私を「可愛い」と言ってもらうためであって、発情期のチャラいサルのためじゃないんだよ!
一緒の空気を吸っているだけで気分が悪くなる上に、天馬とのデートで盛り上がったテンションが今や遥か谷底まで落ちていって、……ああ、もうホントにお前みたいな取るに足らない凡俗が私に関わらないでほしい。
――というか、消えろ。
私と天馬の人生から悉く消え去って二度と現れるな!
この場にいるだけ時間の無駄だ。一分一秒も耐えられない。
……早く天馬にくっついたりして、天馬の魅力でこの落ち込んだ気分を晴らさないと。
男たちの視線に背を向けて、ベンチを回り込んでその場から離れようとする。
「では私はこれで」
「ちょ……、待てって!」
怒りと羞恥心で顔を真っ赤にしたチャラ男が叫ぶ。
無様な姿を晒して、それでも諦めずに伸ばした手が私の右腕を掴む。
――瞬間。
脊髄に稲妻が駆けた。
体に刻まれた反射によって、弾かれた肘鉄がきれいに溝内へと滑り込む。
余計な力は籠っていない自然な動き。だが、相手の動きを一瞬止めるには十分すぎる威力が、チャラ男の体を突き抜け衝撃が弾ける。
鈍い衝突音が肘と胴体の間から伝う。
たまらず、体がくの字に折れ曲がるチャラ男。
そのまま流れる動きで、顎を軽くなでるように掌打をかまして意識を刈り取る。
脳を揺らして平衡感覚を崩す。これはどれだけ体を鍛えていても耐えきれるものではない。
ましてや、格闘術の素人であるチャラ男がどうこうできる訳もなく。トン、と間抜けな音と共に首が傾き、ぐりんと目玉が白目を向いて、受け身も取らず硬い土の上に倒れて沈黙した。
その間わずか1秒未満、誰も予期しなかった状況に静寂が場に満ちる。
「…………あーあ。手を出しちゃった。全く面倒だなーホント」
その声に清楚さやおしとやかさの欠片もない。
悪びれる様子すら見せやしない。
鹿目の演技をする時は、意識も「九條鹿目」のそれに切り替えるものだが、天馬がいないからもう正直どうでもいい。それどころではない状況となった。
――そう、そうなのだ。
こればっかりは、私が黙っていられる筈がなかった。