23 勉強会
図書室は静かで人も少なく、心休められる神聖な空間だ。
教室連とは別の遠く離れた校舎であるため、夏場であっても冷房を目当てに涼みに来る邪魔者はいない。休み時間や放課後に訪れるのは勤勉な者か読書家のみで、いずれも物静かで図書室のルールを守る者たちだ。
そんな者たちの聖地がこの図書室。外の煩わしさから一時逃れることのできる安息の場所と言っていいだろう。
風の鳴る音が外から小さく聞こえ、たまに誰かが本のページをめくる音がする。
今日はいつもより一段と静かで人も少ない。良い感じの雰囲気だ。
「実はここにくるのは初めてだけど、……何というか古い紙の、――そう、本の香りがするよ」
静かな空間に月夜の透き通った声が響く。
小さな声だったが、図書室では喋る人がいないので自然と目立つ月夜。
「そういや転校してまだ一ヵ月くらいらしいな。学校には慣れた?」
「慣れるもなにも学校なんてどこも一緒だよ。似たような授業、似たようなカリキュラム、似たような学生。細部が違うだけ何も変わらないよ、基本的にね。……ボクの髪が珍しいのか、ジロジロ見られるのは不愉快で慣れないけど」
「そ、そう」
僅かに声のトーンが下がった月夜の言に、苦笑いを浮かべる。
……俺もついつい小麦色に視線を奪われることがあるが、もしや今のは遠回しな警告だったのだろうか? ……俺の考えすぎなら別にいいが、一応は視線に注意しておこう。
会話が少々うるさかったのか、図書室にいた他の人たちは俺と月夜にチラリと視線を向け、すぐに興味をなくしたように自分の作業に戻る。
その中に驚いたままこちらを見ている奴らが二人。梅山と貝塚だ。
「……あれれ? 天ちゃんは来ないって聞いたけど?」
二人のいるテーブルに近づくと、貝塚がさっそく疑問をぶつけてきた。
梅山も俺を一瞬見た後、次に月夜を見つけた途端に胡乱げな表情を浮かべる。
「いや、色々あって急遽そっちのテスト勉強に付き合うことになった。……大丈夫だろうか?」
「もちろん駄目じゃないよ! ね、梅ちゃん」
「ああ、……だが、そちらの奴も一緒にか?」
貝塚は快諾してくれたが、梅山は月夜を気にしているのか警戒の色が見える。
俺が女連れなんてそりゃ怪しいよな。さて、どう紹介すればいいのやら……。
「彼女は……えーっと」
「ボクは天馬と懇意にさせてもらっている朧月夜って名前の女子高校生だよ。よろしく」
説明に困っている隙に、自分から自己紹介をしてしまう月夜。
よどみのない口調。僅かたりとも気負った様子のないラフな態度だ。
「――でさ。その勉強会……ボクも参加していい? ボクの頭はいい方だと思うけど、転校してきて初めての中間テストな上に、最近は不登校気味だったからさ。授業あんまりついていけてないんだよね。
だから、良かったらボクも君たちの集まりに入れて欲しいのだけど……。ダメかな?」
手を合わせ顔を傾けて、お願いをアピールする月夜。
貝塚は小麦色の髪や琥珀の瞳に心奪われている様子で、「僕っ子だ……」と言いながら半分放心状態のままだが、梅山はさっきから月夜を怪しげな者を見る目を向けたままだ。
「天と懇意に……か。命の恩人と随分と仲良くなったようだな」
「あ、あはは……。まあ、うん。何か成り行きで」
意味ありげな視線を梅山から向けられ、何故か目線を逸らしてしまう俺。
梅山は俺や貝塚に比べて察しが良くて聡明だ。俺と月夜の関係性がバレてしまわないかと心配になってしまう。それがバレたら、自然と鹿目とのごたごたも浮上してしまうことになるだろう。そうならないよう細心の注意を心掛けなくてはならない。
月夜はそんな様子をニヤニヤしながら眺めている。
「君は梅山くんだっけ? 同じクラスの。その節はどうもありがとう」
「その節……、天馬の風邪を知らせた件か? あれは本人からお前に伝えて欲しいと頼まれただけだ。礼を言われることじゃない」
ぶっきらぼうに言う梅山。
その向かいに座って、教科書やノートをバッグから取り出す俺は、月夜に隣の席に座るよう促す。
「それで? 別に月夜を入れてもいいんだよな?」
俺の声で我に返ったらしい貝塚は、大きく首を縦に振って梅山を見る。
梅山は何か言いたげな気配を覗かせたが、結局何も言わずに肯定の意を示す。
「そっかー。ちゃんと命の恩人さんとは会えたんだね」
「貝塚の目撃証言がなかったらいまだに会えてなかったかもしれない。――あの時は助かったよ貝塚。おかげで屋上にこいつがいることがわかった」
「えへへ。僕なんかが役に立てるなんて感激だよ」
貝塚が照れ隠しに頭を掻いている間に、月夜が席に座って準備が整う。
全員が一つのテーブルを囲うようにして、誰が言い始めるでもなく各々の勉強を開始した。
俺たちが集まって勉強する時は科目を統一することなく、自分が必要だと思った科目を自分のペースで進めて、わからない点や理解できない問題が出た時に、周りに聞くというポピュラーな方法だ。
貝塚は国語や古文、歴史方面は得意だが、逆に数学や物理が苦手。
梅山は理系も文系もそれなりにできるが、唯一英語がかなりの苦手。
俺は苦手分野はないつもりだが、逆にこれといった得意分野もない。あえて述べるとするなら、中間テストとは関係ないが、芸術科目は得意で体育が苦手だ。
これらの傾向から、貝塚は数式に頭を悩ましながら解き方を梅山に教えてもらい、逆に「英文が読めん……」と唸る梅山を俺と貝塚が助けるといういつもの形が成立した。
俺は時間さえあれば大抵の問題は自己解決するので、教えることはあっても教えられることはない。
そして新参者の月夜は、勉強する必要があるのかと突っ込みたくなるほど、俺たちとはレベルが違った。
「……もう終わったのか。月夜」
「まだ半分かな。でもこのテスト範囲なら大丈夫そうだよ。これ基礎中の基礎問題しかでてこないし、たまに出る応用問題も子供だましだね」
「「「……」」」
学問的強者の発言に押し黙るザコ三人。
そんな俺たちを嘲笑うかのように、筆を止めてペン回しを始める月夜。クルクルと手の中で回転を描くシャーペンが、多彩な挙動で見る者を楽しませる。
最近どこかで似たような芸を見たような気がするが……いや、覚えてないし気のせいか。
にしてもこいつ……勉学だけでなくペン回しすらも無駄に上手い。
この万能性、見ていると天才の妹を思い出して何かムカつくな……。
「ねぇねぇ。ここの接続詞だけど――」
「ん? ああ、これか……」
貝塚に肩を突っつかれ、英語の問題集を覗き込む。
梅山は英語を教えられないので俺が教えるしかない。幸いこの英語の問題は前に授業で習ったのを覚えている。何とか教えられそうだ。
「……」
「……何かな。梅山君? そんなにボクを睨んで」
「ふん。別に睨んではいない」
前置詞と接続詞の違いを貝塚に教えていると、梅山と月夜の間で何やら不穏な空気が漂ってくる。
「――いきなりだが。俺の友達を、……天をトラックから助けてくれたことに礼を言う。迂闊なこいつを守ってくれて助かった」
「それはどうも。人助けは善人の義務ですから」
ペン回しをピタリと止めて、月夜は照れる振りをする。
その露骨な演技と滲み出る胡散臭さに、梅山の視線が更に険しくなる。
「天と随分仲が良い様子だが、――いつからだ?」
「もちろん学校で天馬と再会した時からだけど? 天馬みたいな人の良い方とは、是非とも仲良くなりたいと思ってね。それがどうかした?」
「仲良くなりたいというのは友達としてか?」
「――っ!!」
爆弾発言に思わず反応しそうになったが、寸でのところで思い止まる。
当事者である俺が下手に口出しすると、余計に事態がややこしくなる可能性がある。ここは貝塚に英語を教えているから、二人の会話には気づいていない風を装うことにしよう……。
月夜には事前に「余計なことは言うな」と釘を刺しといたから大丈夫なはずだ。
しかし急に何を言い出すんだ……梅山。隠したいことをドンピシャで突いてくるなんて勘が良すぎるでしょ……。
「ふふ、どうボクの発言を受け取るかは君の自由だよ」
いつものように思わせぶりな発言をする月夜に、こめかみに冷や汗が流れる。
月夜の危ない発言に、梅山も好戦的な言葉を投げてくる。
「天には彼女がいるぞ」
「もちろん知ってるよそんなこと。――そうだ。逆にボクが君に質問するけど。梅山くんは天馬が悩んで落ち込んでいた理由は知っているの?」
「……!」
月夜の言葉に梅山は目を見開く。
余計なことは言うな、と言ったはずだが、月夜はもう覚えていないのだろうか?
この会話を素知らぬ顔で聞いている俺のストレスがマッハだ。胃が痛くなってきた。
「お前は知っているのか?」
「なに? 君は知らないのかい?」
「……」
梅山の眼光は重さを増し、月夜の飄々とした雰囲気にも鋭さが混じり始める。
二人の敵意が図書室の広い空間を駆け巡り、静かで穏やかな場が戦場のような剣呑な空気が満ちる。
これには、今まで隣の応酬にまるで気が付かなかった鈍感な貝塚も、違和感を察して顔を上げる程だ。
「……気に食わないな、朧月夜。天の不利益になることは許さんぞ」
「そんなつもりはないし、ボクは天馬の友達である君とは仲良くしたいのだけどね。梅山くん」
睨みあいを続ける梅山と月夜。
そもそも何でこの二人がいがみ合っているのかもよく理解できてなのだが、このままではお互い喧嘩腰で収拾がつきそうにない。つい数十秒前まで普通に勉強していたのに急転直下の激動だ。
俺は……どうしたらいいのだろうか? 口は挟まない方がいいなんて言ってられないか? だけど、何て言ってこの場を収めればいい?
……いきなり過ぎて考えがまとまらない。取り敢えず形だけでも止めるべきか。落ち着けとか勉強に集中しろよだとか言って……。いや、話題の中心である俺がそれを言って大丈夫なのか?
ともかく、何か言わないと。
そんな修羅場と化した戦場で――、予想だにしてない第三者の声が上がる。
「ねえ、二人とも何やってるの? 暇だったら僕のこの問題教えてくれない?」
恐れ知らずの貝塚が無謀にも二人の間に割って入る。
時間は凍結し、静寂が場を支配する。息を呑む俺と反応がない梅山と月夜。
そして一拍経った後、空間に満ちていた敵意が霧散し、誰かのため息が零れる。
「そうだな……、どれ見せろ。――何だ英語じゃないか。俺じゃ無理だぞ」
「じゃあボクが教えてあげるよ。英語は比較的得意なんだ」
先程とは打って変わったいつも通りの二人の態度に呆然としていたが俺だが、唐突に始まった睨みあいは、始まりと同じように唐突に終わったことを理解し、誰にも見えないよう胸をなでおろす。
鈍感は愚かだが時には重要かもしれない。
貝塚のお陰でなんか助かった。
月夜のミステリアスな雰囲気は個性の一部だが、どうやら梅山はそののらりくらりとした態度が気に食わないようで、月夜も月夜で、あえて梅山を煽っている節もあり、二人の相性が目に見えて悪いことが証明されていると言える。
薄々こうなるかもしれないって思っていたよ。
だから、会わせたくなかったのに……。
俺はバレないようにため息をつき、出し過ぎたシャーペンの芯を奥に引っ込ませながら、三人の様子をぼーっと眺めるのであった。