20 浮気男
「――でさ、松原博士が書いたこの『不可逆的でない時間の真実』は今までの時間に対する考え方を一転させるすごい内容なんだ!
ネタばれは避けたいから詳しくは説明できないけど……、大まかにいうと、時間という概念に干渉して過去や未来に手を伸ばそうという、人類の夢に挑戦しようというお話なんだけどね。今までもそういったテーマの作品はあったけど、何というかオカルトちっくで全然現実的じゃないものばかりだった……。でも、これは違う!
斬新かつ理論的な内容。さらに曖昧な憶測や推論だけでなく、実際に時間へ干渉しようとした実験の結果をいくつも記している。これは人の興味を誘うだけのオカルト本じゃない、正真正銘の! 未知への探求なんだっ!」
「こ、声が大きい……」
「あ……、ごめん。で、でも、ホントにいい本だよ」
貝塚は申し訳なさそうに謝りつつも、ちゃっかりオススメの本を押し付けてくる。受け取らせないという選択肢はないのだろうか?
眼鏡の奥で瞳がキラキラしていて、その期待に満ちた眼差しと目を合わせるのが何とも辛い……。
普段は大人しいが、大好きな著書の話になるとノンストップで突っ走る。そこらへんの性格は出会ったころから変わらないし、嫌いじゃないのだが、本屋では静かにしてほしい。さっきから店員の視線が痛いからな。
まあ、貝塚がハズレの本を紹介してきたことなんてないし、気乗りしないけど一応読んでみるか。
「わかったよ。気晴らしにでも読んでみる」
「うん。絶対面白いから!」
力強い声で断言する貝塚。こんな姿は珍しいな。
いつも貝塚は「たぶん」だとか「きっと」だとかハッキリしないタイプのだが、ここまで確信して勧めるのなら、内容に期待が持てるかもしれない。
でも物理学についての本って、小難しい話が延々と続くイメージがあるけど大丈夫なのか?
俺みたいな馬鹿でも読めるのかな……。
「う。値段が高い……」
裏表紙を確認した俺は、想像以上の高価格にたじろぐ。
漫画やラノベならともかく、分厚い単行本だといい値段するなこれ。
「心配しないで。僕のを貸すよ」
「おお! そうしてくれると助かる。貝塚のオススメなら面白いのは間違いないのだろうけど、これに数千円は高すぎるからな。貸してくれるのなら万々歳だ」
「――なら、ちゃんと……読んでね?」
「え? あ、う、うん。わかってるよ」
貝塚はホントに本が絡むと人が変わるな。今の一瞬、寒気がしたぞ。黒縁の眼鏡が怪しく光っていたし、そこまで俺に読ませたいのか。
きっと、好きな本の話を共有できる友達に飢えているんだろう。
梅山は文学に縁遠いし、多少なりとも小説や知識本を嗜む俺が標的となったわけだ。
学校で読んだ感想とか聞かれるのかな? 絶対そうだろうな……。
マシンガントークを散々聞かされ、そこまで興味のない本を読んで感想を考えるはめになるとは……。
そもそも、立ち寄った本屋で貝塚と出会ったのが運の尽き。
さらに並べられていた書物の中で、貝塚オススメの著書を俺が偶然にも手に取って眺めていたという絶交の瞬間に鉢合わせてしまった。斬新な模様の表紙が気になっただけなのだが……、そんな事情を貝塚は知る由もない。
まさに、腹が減った猛獣の前に現れた一匹のウサギ。
貝塚が飛びつかないはずがないのだ。
「そこまで興味ないって言えばよかったかな? いや、でもな……」
ついつい相手の気持ちを考えて、貝塚が気落ちすることは言えなかった。
交友関係にも小心者の性が発揮されてしまうとは情けない。
諦めてその『不可逆的でない時間の真実』とやらを貸してもらったら軽く目を通すとしよう。
しかし、この本のタイトル……、最近どっかで聞いたことがあったような、ないような……?
「どうでもいいか……」
貝塚はまだ中で目新しい本がないか見て回るらしいので、一人で本屋を出た俺を照り付ける日差しと暑さが迎える。
ちょっと前まで涼しい季節だったが、本格的に夏になってきたな。
肌がじりじりと焼け、冷房の効いた室内と外気温との温度差にうんざりする。
「――な!」
「……ん?」
声のした方向を反射的に見る。
本屋の前にある駐車場の隅にポツンと置いてある自動販売機付近。ちょうど近くに生えている植木の影になっているため、いい感じに熱さをしのげるその自販機の傍で、涼んでいたらしい若い男が驚いた表情でこちらを見ている。
「あ! お前は」
知り合いではないが、俺は顔には見覚えがあった。
スラリとした体格に憎たらしいイケメン面。つい最近、夕暮れの中でその姿を忌々しく思いで睨んだ。
そう、こいつは鹿目とデートしてた浮気相手。
――高良田だ。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
チビチビとスポドリを飲む高良田を他所に、俺も自販機にコインを投入して紅茶を購入する。
飲み物を買う気はなかったが、炎天下でこいつと話すなら水分補給が大事だろう。
「……」
「……」
き、気まずい……。
これが針の筵の上に座る気分ってやつか。胃がキリキリする。
本当は一分一秒たりともこの場に居たくないのだけど、この機会を逃したら二度と会えない可能性もある。会いたいとも思わないだろう。彼女の浮気相手と関わりたいと誰が思うやつがどこにいる?
でも、だからこそ、これはいい機会だ。
鹿目の事情や誠意を調べると決めた以上、浮気相手だった高良田から話を聞けるならぜひ聞きたい。それは有益な情報になるはず。
高良田視点からの鹿目の様子も知っておくべき。
相手の顔を見ると、高良田は露骨なまでに目を逸らす。
先程の反応といい、どうやら向うも俺のことを知っているようだ。
明らかに話しかけられるのを嫌がっているが、そういう訳にはいかないので覚悟を決める。
「お前……。高良田だな? 天望高校の学生でバスケ部二年の」
できるだけ強気な口調をイメージする。
会話のペースを相手に譲らずに、こちらで支配しないと。
「……」
「俺のことを知っているよな? 九條鹿目の……一応、彼氏をさせてもらっている者だ」
無言の高良田を無視して、話を続ける。
別に会話のキャッチボールをしたくないなら、それでもかまわない。
最低限、俺の質問に答えてくれればいいのだ。むしろそれ以外はこいつと何も話したくはないから、静かなのは好都合だ。
「事情をわかっているつもりで話を続けるぞ」
「……」
「俺は何かを言いたいわけでも、殴りたいわけでもない。思う所はあるが、それを相手にぶつけるのも不毛だしな。だからそこは心配ないでいい」
「……じゃあ何の用だ。二度と俺の女に手を出すなって言いに来たわけじゃねぇのか?」
初めて喋った高良田は、疲れ切った様子で俺を見る。
やっぱバスケ部なだけあって背は俺よりもだいぶ高く、目を合わせると俺が彼を見上げる形になってしまい、その体格のでかさに内心戦々恐々とする。
怯えを表に出さないよう注意しながら睨み返す。
「それは言うまでもない。当たり前のことだろ? だからそれは省略する。――俺はただお前に聞きたいことがあるんだよ。ちょっとした事情聴取だ。答えてくれれば俺はすぐにでもここから立ち去る。……どうだ?」
高良田が鹿目ともう関わらないのは当然だと前置きし、本命の方を前面に押し出す。
二、三問ほど俺の質問に答えてくれれば、邪魔ものの俺はすぐに消える。これは相手にとっても悪い条件ではないはずだ。目の前の男と一緒に居たくないのはお互い様だしね。
「……それに答える理由があるか?」
「答えてくれれば俺は二度とお前に関わらない。お前に対する遺恨も水に流す。どうだ、意外と悪くない条件だと思うが。それとも、俺に恨まれ続ける方がお望みか? ……もしや鹿目のことをまだ諦めてないとかか? だとしたら俺もそれ相応の対応をするぞ」
できる限りの敵意を集めて、高姿勢を維持する。
もちろんハッタリの一種だ。こんな運動部の奴と喧嘩なんてまっぴらごめんだし、高圧的な態度を演技している今この瞬間も、不安と緊張で足が震えているのを隠す始末。
俺に人を脅したり強請ったりは全然向いてない。想像以上に高良田が元気ない感じだったので、押しに弱いかもと考えたが……正直、もう無理。
「で、どうする?」
「……わかった。質問に答えればいいんだな」
逡巡の様子をみせた高良田だったが、静かに頷いて了承の意を見せる。
俺はその答えにホッとしつつも、聞き分けの良すぎる高良田の態度に内心驚く。
普通に断られると思っていたのだ。
それも襟首をつかまれて怒鳴られるのも覚悟して。それくらい俺の要求は高良田にとっても気に障る事柄だと思っていた。取引なんて調子こいてんじゃねぇ、とか言うんだろうなと考えていたのだ。
話が通る可能性は一、二割ほどだと見積もって、ダメ元で一応聞きたいことは聞いておこうと、半分やけくそ気味に突貫していた。
だから、こんなすんなりいくと逆に拍子抜けしてしまう。
鹿目のことを執着している様子もないし、案外、話の分かる奴。
人の彼女を奪おうとしたことを後悔しているのだろうか? だとしたら、無理に強気な態度で責める必要もないかもしれない。心の中でどう思っているかわからないから、油断はできないけどな。
――さて、では始めますか。