2 命の恩人
「ん、あれ?」
トボトボ歩いていた俺の頬を、不意に生ぬるい風が撫でる。
ふと我に返って顔をあげると、見慣れない交差点が目に入る。
鹿目たちに鉢合わせないように、いつも使わない道を使っていたせいか、来たことのない場所に踏み込んでしまった。
浮気のショックで呆然としたまま夢遊病者のようになっていたのも悪かったのだろう。ここに来るまでの記憶もぼんやりしている。
「時間は、六時前か」
鹿目たちを見てから時間は経っていない。
大方の道は間違っていない筈。太陽の沈む方向から家の方向は察することができるし、別に道に迷ったというわけでもない。取り敢えず、方向感覚が狂っていないことを信じて先に進みますか。
荷物を持っているか確認した後、改めて周囲を確認する。
うん。やはり見覚えはない。初めて来る場所だろう。
それにしても人っ子一人いない。商業地区だと思うがどこもかしこもシャッターを下ろした店ばかり。
こんな場所に一人で突っ立っていると、余計に気分が落ち込みそうだ。
早く帰らないと妹にどやされるし、さっさと立ち去ろう。
歩を速めて交差点を渡ろうとすると、狙ったようなタイミングで横断歩道の信号機が赤になる。
再び足を止めて左右を確認するが、人どころか車の気配すら一切ない。
小心者の俺は普段こういう状況でも青になるまで待つのだが、今日は待っているのも馬鹿馬鹿しく感じる。なんで意味もないのにルールを守り続けないといけないのか、車が来ないなら別に構わないじゃないか。
逡巡の末、赤信号の横断歩道に一歩足を踏み出す。
俺の精神状態は冷静ではないのかもしれない。並大抵の些末事はどうでもよく感じる。だが、高校生にもなって赤信号破りに抵抗を感じる方がどうかしているのだ。
今日くらいは堅苦しい俺とはおさらば――
『でも、そんな姿が健気で。先輩のそこが好きなんですよ』
不意に、鹿目が以前言っていたことを思い出す。
いつの日の会話だったか。鹿目との暇つぶしがてらの話題。
お互いにいい点を褒め合おうという内容で、鹿目が俺に対して挙げた長所の内の一つが「人としてのルールや、誰かとした約束事は決して破らない」というものだった。
俺はそんなことないよと謙遜し、頑固さは生きにくいと反論した。
それに対して鹿目が静かに放った言葉がそれだったか。
今思えば、俺の何処が好きなのかを初めて聞いた瞬間だったと思う。
「なら、どうして……」
大きなため息が感情と共に漏れ出る。
鹿目の事を考えるだけで、胸に空いた穴が広がっていく気がする。
楽しかった思い出であればあるほど苦しい。
あの言葉は嘘だったのか。それとも心境の変化があったのか。どちらにしても今の鹿目がその言葉をもう一度言ってくれる場面を想像することができない。
例えこのまま付き合い続けることができたとしても、以前のように心休まる瞬間を共有することは難しいだろう。きっとギクシャクしたものになるはずだ。
あの日々は戻ってこない。
視界は暗く濁り、心中は汚濁が渦巻く。周囲の音はどこか遠く。世界から置き去りにされたような絶望感が自意識を蝕もうとしていた。
だからなのか。
「――え?」
クラクションが鋭く鳴り響くまで、その存在に気づかなかった。
右耳を叩く音に遅れて振り向くと、視界を覆い尽くすほどのトラック。
断末魔の声をあげる暇さえない。圧倒的な質量が洒落にならないスピードで俺の体を弾き飛ばすのを幻視する。
死んだと思った。
――瞬間、何か物凄い力に襟首を引っ張られた。
「っうぐぇ」
喉が締め付けられ、蛙が蹴り飛ばされた声を上げながら体勢を崩す。
ろくに受け身を取ることもできずに尻餅をついた俺の目の前を、減速する様子すら見せなかったトラックが走行音と共に走り抜けていく。
唖然としながら去っていくトラック見送った後、遅まきながら恐怖が湧き上がる。
嫌な汗が背中を伝い、生唾を飲み込む。あのスピードで跳ねられていたら恐らく――
「死んでいたよ。ボクがいなかったらさ」
鈴の転がすような声が背後から聞こえた。
振り返ると、目に入ったのは差し伸べられた細い手。
「起こしてあげる。手を出して」
「す、すみません。び、びっくりして……」
引き起こしてくれるのなら有り難く手を借りようと、顔を上げた俺は僅かに驚く。
紅い夕焼けの中、見上げた先に居たのは、果たして人か天使か。
暖かな光を思わせる白色に近い小麦色の髪。短すぎず、長すぎない長さで揃えられ、静かな風に揺れてどこか懐かしい雰囲気がある。
美人特有のバランスの取れた風貌に、陶磁器を思わせるきめ細やかな肌。そこに夕陽がキラキラと反射し、落ち着いた美しさを際立たせていた。
その琥珀色の瞳は、全てを見通しているかのような深さがある。
唯一整ってない点を挙げるとすれば、そのスラリとした体格を包んでいる短パンとチュニックくらいか。服のセンスは悪くないが、少女自身に見劣りしてしまう。
俺と大して歳の差は離れていないかもしれない。
それと、この顔……、既視感を感じる。何処かですれ違ったことでもあるのだろうか?
「起きて」
しびれを切らしたのか、ボケっとしている俺の手を掴んで立たせる彼女。
彼女と同じ目線になると、前髪によって美貌が隠れてしまう。先程は下から覗き込むように見上げていたので顔の全容が窺えたのだが、正面から見ると案外普通の少女に見える。
彼女が俺をトラックとの衝突から助けてくれたのだろうか?
「怪我はどう?」
「いや、間一髪で避けきれたみたいだ。君が助けてくれたのか? ありがとう。……いや、ありがとうございます」
「敬語は別にいいよ」
言葉も少なめに会話を切った少女は、こっちをジロジロと見ながらくるりと俺の周りを太陽の周りを公転する地球のように回り始める。
「……」
「えっと」
「……」
「……あ、あのままだったら病院送りじゃすまなかったかもしれない。すごく感謝している。本当に助かったよ、君がいてくれて……」
「……」
「あの……」
一向に立ち止ってくれない。
話を聞いているのか、いないのか。視界を横切って行ったり来たりする少女に、どうすればいいかわからずに頭を掻く。
こんな美形でもない男を観察して何が楽しいのだろうか。ちょっと不思議な子だ。個性的というか、天然が入っているタイプか。トラックから助けてくれた命の恩人だから無碍に扱いたくないが、正直やりづらい。
少女の公転が三週目に入り、そろそろいい加減にして欲しいと思い始めた時――
「ねぇ」
前触れもなく立ち止まる少女。
彼女が立っている場所は、危うく俺が轢かれそうになった横断歩道の上。
その足元には、トラックに潰されてしまった買い物袋。確かめるまでもなく中身はご臨終となっているだろう。
少女はそれを見下ろしていたが、俺に視線を戻して唇を動かす。
「これ、落としているよ」
そう言って買い物袋を指さした。