18 例の夢にて
「一か月間はとりあえず恋人同士のままだけど、その三十日の間の内に、天馬に「これからも恋人同士なってもよい」と思わせることができなければ破局。「思わせる」ことができれば浮気の件は水に流す……か。
これって簡単に見えて、結構難しい条件だね」
仮面をつけた正体不明の少女が、顎に手を当ててうんうん唸る。
三度目になると流石に慣れる。……例の夢だ。
彼女の横には無限の広がる海と、朽ち果て始めている人間の都市が沈んでいる。
神秘に溢れ、圧倒的な風景はしかし俺たちがいるこの教室には干渉できない。普通は数十トンの水圧で、教室の窓ガラスなんて一瞬に木っ端微塵のはずだが……、夢に物理法則を持ってくるのは無粋ってわけね。
溜息をついて、胡散臭げに仮面少女と向き合う。
「それで? 何でお前が昼間のことについて知っているの?」
「天馬のことについて私が知らないことなんてないよ。私は天馬の運命の相手で、貴方を愛しているからね! ――天馬は私のこと愛してる?」
「愛しているよハニー」
「……心が籠ってない。なんて棒読みだ……。無碍に扱わないでよダーリン」
「お前が真剣に話すなら無碍にはしないよ」
そっちがふざけるから、こっちもふざけて返さないといけないんだろうが。
というか、考えてみれば俺の脳味噌が生み出している夢だから、夢の住人であるこいつが知っていて当然だな。
机に頬杖をつき、窓の外を通り過ぎていく巨大魚を目で追う。
シーラカンスっぽかったな今の。
「……難しいと思うか?」
「ん? 何が?」
「さっきのお前が言った条件だ」
「――もちろん。困難な条件ね。あの娘には荷が重いかも」
仮面の少女は、俺の人生が記された分厚い本を器用に指で回転させている。
よくテレビとかで見るピザ回しみたいだ。イタリアンシェフがピザ生地を均等に伸ばすためにやる、アクロバティックなあれだ。
辞書みたいで結構な重さ本だが、駒のように美しく回転させている。
「信頼を失うのは簡単だけど、信頼を得るのは至難だからね。一度裏切っている前科がある以上、難易度は何倍にも跳ね上がっている。おまけに恋愛感情が関わっているから、例えどれほど頑張っても、天馬の気持ち次第で報われないことも覚悟しなきゃならない。
チャレンジする側からみれば、不安と緊張の連続でしょうね」
「俺の気持ち次第、か」
「そうよ。そもそも、これってただ考える時間が欲しかったから、一ヵ月の猶予を自分で作ったわけでしょ。結論が決まっていたなら、こんな条件は出さなかったでしょうしね」
「……う」
こいつに言い当てられるのは釈然としないが、まあ、その通りだ。
ようするに俺は結論を決めきれなかったから、条件を出すしかなかった。
あの時の鹿目に嘘はない。少なくとも俺に対する「本気度」は偽物じゃない。そうでなきゃあの台詞は言えないし、あの気迫は出せない。それは間違いない。
そして、浮気をされていながらも、未だに俺には未練があった。
自身の心に問いかけてわかった。まだ俺は心の何処かで鹿目が好きなままだったのだ。
あれほど鹿目なんてどうでもいいと思っていながら、土壇場で主張をひっくり返すとは男らしくない。けれど気持ちの問題なのだから、しょうがないじゃないか。
「そうだ。俺はあの場で決断するのを躊躇った。最初は鹿目と別れるつもりだったけど、最後の最後で迷ってしまった。
だから、考え直す時間を作るついでに、鹿目の「愛」を試すためにテストを提示したわけだ。――卑怯だろ?」
「別にいいんじゃない。女はもっと卑怯な手段を使うしね」
ケッケッケと不気味に笑う仮面少女。
仮面をしていると、どんな表情なのか想像するしかないから、それがより一層得体の知れなさを強調するな。人間の根源的恐怖を刺激してくる感じがする。
まるで魔女だ。
「でもさ。それだけじゃないでしょ?」
「ん?」
「鹿目ちゃんの事情だけじゃなくて……、月夜ちゃんも、でしょ」
「……お前ホントに鋭いな。頭の中でも覗いてるのかよ」
そう、これは鹿目の審査と同時に、月夜の審査も兼ねる。
俺はこの猶予の間に、あの小麦色の少女と鹿目を秤にかけるつもりなのだ。
「どっちつかずが一番いけない。浮気を責める俺が浮気をするなんて洒落にならないからな」
月夜にも好意を寄せられている以上、こっちも無視はできない。
とりあえず、一ヵ月の間は月夜とは女友達として接する。少なくともこの間のように家に訪ねてくるのは控えてもらおう。あれは友達の範疇を逸脱してる。
それで鹿目のことに決着がついたら、月夜の件をどうするか決める。
最後は一人を選ばないといけないのだから、同時に推し量って結論を出すのが最適。
このまま鹿目と付き合うことにするのか。
それとも、鹿目と別れて月夜を恋人にするのか。
あるいは、体裁を取って別れても月夜とは付き合わずに独り身になるのか。
一ヵ月の内に決めないといけない。
時間はあまりないのだ、急ぐ必要がある。
これからの展開に思いを馳せていると、仮面の少女の雰囲気が微妙に変わっていることに感ずく。
先程の若干おちゃらけた感じが消えて、気味悪いオーラだけが残っている。
急にどうしたんだ?
「最後は一人を選ぶ……ね。――罪づくりな男。つまりどっちの女の子もキープしとくわけね」
「そ、そういうのじゃないって。俺は紳士的にだな――」
「へーそう? 真に紳士の男なら、まず「どちらかを選ぶ」という思考に至らないと思うけど?紳士なら迷わず、今日の時点で結論を出すはずよ。だって貴方の選択は、鹿目ちゃんにも月夜ちゃんにも「一ヵ月もの間、自分を好きであり続けろ。いい方を選ぶ」って言っているようなものよ。
――それって、男の傲慢でしょ」
「……!」
頭を金槌で殴られたようなショックが走る。
咄嗟に反論しようと口を開くも、脳内は真っ白に塗り潰され言葉がでない。
仮面少女の言い分が、耳の中で何度も再生されて、反論を考えるほど嫌というほど叩きのめされ、納得させられる。こいつの言に非の打ち所がないと。
まさしく、正論だ。
俺は鹿目や月夜たちの立場になって、俺の言動や行動を考えるとよくわかる。
無意識の内に彼女たちを「下」に考え、自分本位の考えで行動していた。俺なりの正義や筋道を守りながら生きてきたつもりが、知らぬうちに「男の傲慢」に従って、彼女たちと「対等」な関係で接していなかった。
それが強く出たのが、今回の一ヵ月の条件付き猶予。
対等な関係なら、彼女たちを「試す」などそもそもしない。一体何様のつもりだとなる。
仮面の少女の言う通りだった。
「……はは、あはは。……情けないなこれ。俺は同年代の中でも誠実な方だと自負していたつもりだったのに、自分でも気が付かない内にこんな……」
両肩から力が抜けて、上半身を机の上に投げ出す。
彼女がいなくて誰からもモテなかった半年前の俺なら、こんな傲慢な考えは思いつかなかっただろうに。
俺も無様に落ちぶれたものだ。
「……はぁ」
「そう落ち込まないでって。別に責めているわかじゃない。しっかりとそれは自覚しなさいってことだよ。それに、鹿目ちゃんも月夜ちゃんもその傲慢を受け入れてくれるよ。二人は貴方が好きだから」
よしよしと頭を撫でてくる仮面の少女。
いつの間にか、右手で回していた分厚い本は脇に挟んでしっかりと固定している。
普段は頭ナデナデされそうになったら、恥かしさのあまり反射的に逃げるのだが、今回は一時的にひどく落ち込んでいたことと、夢の中だから別にどうでもいいかといった思いがあったので、されるがままになる。
その手つきが優しくて、不覚にも胸が熱くなってしまう。
きっと母親の温もりというのはこういうものなのかもしれないが、……俺には判別できない。そんなものはとうの昔になくしてしまったから。
でも、心が不思議と落ち着いた。
「でもね、それは「女の優しさに甘えている」に過ぎない。女の優しさを当たり前だと思って行動すると痛い目にあうから。だから常に感謝しなさい。
――好きでいてくれてありがとう。ってね。これ女心を掴む鉄則だから、しっかり覚えとくように」
「……わかった」
だからだろうか、正体不明で妖しさ満点の仮面少女の言葉を、純粋に受け止めて心にとどめておくことができた。
「ところで、この夢の世界の記憶って現実で残るのか? 今まで何故か起きていると夢の内容は忘れるんだが……」
「あ! そっか。無理だ。覚えてられない」
「……」
じゃあ今の教訓ほとんど意味ないじゃないか!
覚えていられないなら、何の役にも立たない……。せっかくの精神的成長もリセットじゃ、鹿目や月夜と真に「対等」な関係で接することができないままだ。
歯がゆい。俺自身ではどうすることできないのが歯がゆい。
誰か現実でも俺にこの教訓を教えてくれないかな……。
「……ともかくありがとな。色々ためになったよ」
撫でていた手を掴んで、上半身を起こす。
仮面の下の表情は読めないし、この少女が何者なのか、何の意味があるのか知らない怪しい仮面だけど、非常に助けになるいい奴だ。
ちゃんと正面で向き合って、きっちり礼を言うとわかりやすく照れる仮面少女。
「ふふ、うふふ。どういたしまして。頑張って最良の選択をしてね。――あ。そろそろ起きる時間だ。それじゃあ鹿目ちゃんと、月夜ちゃんとよろしくやってきな。それと妹の天音ちゃんにもね。……いや、天音ちゃんは別にいいか。
だって、鹿目ちゃんと天音ちゃんは同一人物だしね――――」
「――――――今なんて?」
俺の意志に反して、仮面の少女の声が急速に遠くなる。
そこで俺の意識は途切れた。
この後、もう1話あがります。