17 思いの交錯
「私が何を言っているか……それは、もちろんわかっています。ですけど、先輩は事実を聞いただけです。次は意志の話を聞いて下さい」
険を含み始めた俺の様子に、されど臆せず口を開く鹿目。
「意志?」
「はい。私と先輩の気持ちの問題です」
「……」
「お願いします。……それとも、私みたいな浮気女とはもう話したくないですか? だから、すぐに会話を終わらせたがっているのですか?」
「それは」
話をさっさと終わらせようとした、だって?
……まあ、そうかもしれない。
最初は色々文句を言ってやろうと準備していたが、浮気の事情を確認しているうちに、もう会話を続けるより、すぐに帰りたい思いが先行し始めたのだ。
鹿目と一緒にいるだけでもストレスが溜まり、言い争いをする余力も失せてきた。
だから、無意識の内に早く帰ろうと、急いでいたのだろう。
「わかったよ。じゃあ、遠慮なく言わせてもらっていいかな?」
「……どうぞ」
「キツイことを言うよ。大丈夫?」
「大丈夫です」
「そう。なら言わせてもらう。――俺はもう、鹿目のことが好きじゃない」
「……!」
「そんな奴だとは思わなかった。君には失望した」
声を詰まらせる鹿目を無視して、俺は言い続ける。
「俺は鹿目を大切に思っていた。恋人同士になってからは、何をするにも頭の隅で鹿目のことを常に考えていたよ。……君に夢中だった。好きな女優とか、タイプのアイドルとか、今まで気になっていたそれらのものが、どうでも良くなるくらい君だけを見ていたんだ」
目を閉じると昨日のことのように鮮明に浮かぶ。
あの日々ほど、「俺は幸せ者だ」と意識していた時間はない。
毎日が輝いて見えた。家族から要らないもの扱いされている俺を必要としてくれた。好きだと言ってくれた。貴方だからいいのだと、囁いてくれた。
だから俺は、生まれて初めて「恋」をした。
「その時の俺は、どんな魅力的な女の子が言い寄って来たって、心が揺らいだりしなかったはずだ。それほど本気だった。
――だから、鹿目が他の男とデートしているところを見てしまった時は……目の前が真っ暗になるくらいショックだった。それこそ、家への帰り道がわからなくなったり、周りが見えなくてトラックに轢かれそうになるくらいには」
「……っ、そん、な」
目を開くと、口を押えて目尻に涙をためた鹿目の姿が映る。
驚くのは筋違いだぞ。
鹿目は俺にどの程度好かれていることくらい知っていたはずだ。なら、俺がどれほど傷つくかは予測できたはずだからな。
少し時間が経って色々悩んだ結果、ようやく諦めがつきかけていたのに、鹿目のことは忘れてもいいかなと自分を納得させられる気がしてきたのに……、
なのに――。
「――その上で、もう一度言わせてもらう。
「捨てないで欲しい」、「別れたくない」……だって? ――自分が何言っているか、ちゃんとわかっているの?」
感情を声に乗せないようにしながら、淡々と心中を告げる。
責めて怖がらせるのが目的じゃない。苛立ちの感情は面に出さないよう努める。
それでも、俺が言いたいことは伝わったのか、鹿目は耐え忍ぶように唇を噛む。
「――はき違えるな。他の誰でもない。俺を捨てたのは君自身だよ」
「……」
「この苦しみを、君が理解できるか? いや無理だ。
人に好きだと囁いておきながら、熱が冷めないうちから他の男と逢引するような君に、「真剣に恋していた人に裏切られた気持ち」を想像できるはずがない」
そう吐き捨て、僅かに残っていたアイスコーヒーを飲み干す。
もう、これくらいでいいだろう。これ以上は私怨が行き過ぎてしまう。ただの悪口だ。それは男らしくない。自制しよう。
……ちょっと言い過ぎた気もする。心情を伝えるのに必要だったとはいえ、心配になって来た。もっと優しくオブラートに表現すべきだったかもしれない。
フォローをいれた方がいいのかなこれ? な、泣かれたら困るぞ……。
「……!」
空のグラスを脇に寄せ、眼鏡の奥を覗き込んだ俺は感心する。
鹿目の眼はまだ諦めていない色だった。
今の言い分で俺の気持ちは十分に伝わったはずだ。それでもまだ心は折れていないらしい。
「……先輩のおっしゃる通り、私には先輩の気持ちを想像しきることはできません。高良田くんのことも、弁解の余地もありません。本当に――ごめんなさい」
テーブルに頭を擦りつけるほど、深く頭を下げる。
俺は何を言うでもなく、目の前にある黒艶な頭髪から視線を切ってそっぽを向く。
「……」
「…………」
「………………」
「……………………もういいよ。頭を上げてくれ」
一秒、三秒、七秒……、そして十秒が過ぎても押し黙ったまま謝り続ける鹿目に、音を上げた俺はガシガシと頭を掻く。
同年代の少女を謝らせて虐めたい欲求などない。
そんな無言の圧力で謝られ続けても、気まずいだけだ。
「俺の言いたいことはそれだけだ。
……それと、高良田のことが好きなんだろ? なら俺に執着することもない。そいつとそのまま恋人関係になればいい。それがお互いの幸せになる。俺は俺で上手くや――」
「あいつはもう好きじゃありません。昨日の内で絶交してきました」
「……え?」
どうでもいい事柄を報告するみたいにあっさりと、鹿目は驚愕の内容を口にした。
一瞬、聞き間違いかと思ったが、こんな静かな場所で、滑舌のよい鹿目の台詞を勘違いするわけがない。
「絶交、だって? どうして……?」
「高良田くんとのことは魔が差したというか、出来心なんです。加害者の言い分なんて信じてもらえないでしょうが……。それでも今この瞬間の私は、彼に対する恋慕の感情は微塵もありません。
――その証明のための、私なりの誠意です」
「っ! 調子のいいことを! 裏切った君の言葉をどうして信じられる? 嘘はいい加減うんざりだよ」
右掌を強く握りしめ、額に強く押し付ける。そうしなければ頭痛が発生しそうな勢いだった。
どうしてそんな言葉が飛び出してくるのか理解しがたい。
今更そんなことを言われても迷惑なだけだ。鹿目のことを諦めた俺が、その発言に喜ぶとでも思ったか?
「嘘では――」
「嘘じゃないなら尚のこと馬鹿だ! じゃあ何のために俺は傷ついた? 君への気持ちを失う羽目になった? 頭がどうにかなってしまいそうな思いをしてまで、愛情に諦めをつけた!?
君が……、君が! 高良田のことが俺よりも好きだと確信するなら、悔しいけど、それでよかったんだよ!!」
「――っっ!」
「傷ついても、失っても、「それなら仕方がない」と割り切ることができる。鹿目が好きだったから、君が高良田と幸せになるなら、その幸せを祝福してやることが、最後の意地であり救いになるはずだった。
惨めな奴なりに、格好つけることができた。なのに……、
――君はその救いすらも奪うのか!?」
そこまで言い切って、俺は我に返る。
冷静になって鹿目を注視すると、堪えながらも今にも泣き出しそうなほど震えている。苛立って怒鳴り散らす俺を、唇を噛みながら潤んだ目でただただ見つめ返していた。
やっちまった。
俺は自分自身の声が荒げるのを感じながらも、止めることができなかった。一度決壊したダムの水をせき止められないように、胸の内に秘め隠すつもりだった感情が溢れ出てしまったのだ。
何て未熟。あれだけ冷静に対処しようと構えてたのに、また感情的に……。
「……ごめん言い過ぎた」
「……」
「…………」
鹿目は俯き黙ってしまい、俺も言葉が続かない。
そして序盤の無言の空間への逆戻りしてしまった。もう帰りたい。
未だ店内には他の客は存在せず。決定的に相容れない元パートナーと、こっちの話が聞こえていても気にせず店の仕事に徹するマスターのみ。
とても静かだ。
ただただ、店外から聞こえる雨音に耳を傾けていると数十秒。
鹿目が顔を上げた。
「どうしたら許してくれますか?」
「……」
「先輩を裏切りました。傷つけました。――そんな私が、先輩と共に歩むためには何を差し出せばいいですか? 何を犠牲にすればいいですか? ……私は何でもします。罪を償って先輩に再び好きになってもらえるなら、それがどんなことだって」
「……お前」
鹿目の小さな体躯から鬼気迫るものを感じる。
言葉には責任が伴う。気軽に「何でもする」と口にしてはいけない。特に彼女の様な年頃の少女なら尚更だ。鹿目は馬鹿じゃないのだ。それくらいわかっているはず。
なら、鹿目にそこまで言わせるほどの原動力とは何だろう?
それは俺に対する好意なのだろうか?
九條鹿目の真意がわからない。
「誠実さを目に見える形で示せと言うなら、この長髪を切って坊主にします。
ヒモとして養えと言うなら、どんな仕事でもやって遊んで暮らせるくらい貢ぎます。
純潔を証明しろと言うなら、今この場で服を脱いで、隅々まで肢体を確認してもらってもかまいません。
先輩の傍にいる為になら、あらゆる行為を躊躇わない」
「……鹿目」
「もしチャンスをくれるなら、先輩に私の全てを捧げます。全身全霊を持って先輩を幸せにしてみせます。永遠の愛を誓います。今度こそ裏切らない。
どうか――どうか私にチャンスをください」
恥ずかしげもなく、鹿目はそんな台詞を口にした。
真っ直ぐ、俺の眼を見てだ。
「……」
その眼を見返していると、次第にわからなくなった。
自分の気持ちや、鹿目の思いが。
一体どうすればいい。どの選択が正解だ? 俺はどうしたいのか?
「――――」
「……先輩?」
鹿目は小首を傾げ、怪訝そうにこちらの顔を窺っている。
それにリアクションすることはできそうにない。こっちの脳内リソースは一杯一杯なのだ。
「――――――」
俺は一心に鹿目を観察する。
今までにないってくらい真剣に、本気の集中で、目の前の少女の本心を推し量る。
目はどこを見ているか? 表情に変化はあるか? 身体の軸はブレてないか? 体の何処に力が籠っているか? 呼吸のリズムは崩れていないか? 全てが判断材料だ。
同時に自分の内心に問いかける。
俺の中にほんの僅かでも鹿目への「思い」が残っているか? 未練があるか? 後悔はあるか? 躊躇があるか? このまま別れて本当にいいのか? それを問いかける。
更に考える、その他の要因について。
天音の「鹿目とは決して上手くいかない」という忠告を思い出す。月夜の「天馬が別れるのを持つよ」という選択や、「彼女さんは臭い。臭くて真っ黒だ」といった発言を思い出す。
鹿目の「共にいるなら何だってする」という覚悟と比べて考える。
俺は賢くはないけれど、馬鹿なりに鹿目の真意を探り、自身の気持ちに折り合いをつけ、この場で俺はどうしたいかを思案する。
九條鹿目を許せるか?
このまま恋人関係を続けることに意味があるか?
………………。
「…………」
意識を表層に戻すと、緊張の面持ちをした鹿目の顔を見つけた。
いつもすました表情でポーカーフェイスを気取っていたこいつが、ここまで緊張を露わに俺を見ているのが何だかおかしくて、僅かに心が軽くなる。
体感では数秒だったが、もしかしたら一分近く経っているかもしれない。思案に時間をかけ過ぎた。
鹿目を待たせてしまったかな。
知らぬ間に強く噛みしめていた歯を開放し、ゆっくりと口を開く。
「わかったよ鹿目。俺は今ここでは、君と別れない」
「――!」
疲れ果ててか、暗く固かった鹿目の表情が目に見えて明るくなる。
俺はそれを「だが!」と言って手で制す。
「まだ別れないと決まった訳じゃない。――君にはある条件を出す」
俺は無理やり頬を吊り上げ、ここに来て初めての笑顔を作った。