15 運命との出会い
腹いっぱいになると途端に眠気が襲ってくる。
月夜の訪問に気を取られて、体の調子を気にせず普通に行動出来ていたが、ふと再び自身の体調に意識を向けてみると、数十分の活動でかなりの体力が削られていたのがわかった。
知らないうちに無理をしていたらしい。
風邪症状も相変わらずだ。特に頭痛がきつい。
休息を取れと、脳が命令しているのか、耐え難い睡魔とだるさが襲ってきて、起きているのもしんどい。
「月夜は学校に戻るのか?」
「いやーもう行く気ないよ。今更戻るのも面倒だし……ね」
「そうか。俺は部屋で寝直してくるが……、そっちはどうする?」
本音を言えばそろそろ帰って欲しいところだが、わざわざご飯を振る舞いに来てくれた月夜を、邪魔だから帰ってもらう……というのは何だが悪い気がする。
月夜から「そろそろ帰るよ」と言い出してもらうのが一番なのだが。
「ん? 確かにウトウトして眠そうだね。わかった、ボクを天馬の部屋に案内してよ。つきっきりで看病してあげる。喜んでいいよ」
「か、看病もかっ。そこまでしてもらう必要はないぞ。一人で大丈夫だから」
「その遠慮は遠慮するよ。元から看病してあげるために来たから、夜まででもいいけど? それとも、ボク迷惑?」
「そ、そんなことはない……けど。俺はまだ彼女と別れてないから、月夜を俺の部屋に入れるってのは、倫理的にちょっと」
「迷惑じゃないならいいでしょ。さ、部屋に行こうか。二階だよね」
楽し気に言葉尻を弾ませる月夜。なんで嬉しそうなんだ?
ともかく、完全に長居するつもりだこれ。
さっきはこっちを気遣ってか、差し障りのない優しい態度だったのに。急にグイグイせめてくる姿勢にチェンジしたぞ。変なところで積極性を発揮するな。
帰らせるのはもう無理か。本人に帰る気がないならしかたない。
お言葉に甘えるとしよう。
「じゃあ、俺が寝てる間のことは頼む。……手間かけさせて悪い」
「ボクの意志だよ。気にしないで」
重たい体を起こして、軽く朦朧としながら月夜を部屋に案内する。
普段の俺なら、家族以外の異性をプライベート空間に入れることに関して、恥かしいだの緊張するだのと考えるのかもしれないが、今は風邪で体が弱っているのが逆に幸いしたな。
眠すぎてそれどころではない。
ああ、ただただベッドが恋しい。
「へー、普通だね。普通の部屋だ。男の子の部屋って、もっとごちゃごちゃしていると思ってたよ」
「そういうのは人によりけりだろ。俺は物とかあまり買わないからな」
ベッドに倒れ込む形で、布団の中に潜り込む。
慣れ親しんだ寝床の感触に、緊張が一気に解かれて、眠気が強くなるのを感じる。
「……部屋にある物は好きに使っていいけど、……盗むなよ?」
「もちろん」
頭を動かして、チラリと月夜の方を見ると、すでに簡易本棚に並べてある小説や漫画を手に取って、椅子に腰かけているところだった。
初っ端から読書する気満々だが、看病はしてくれるのだろうか……?
傍にいてくれるだけでも有難いっちゃ有り難いが、相変わらずマイペースだな。
「……おやすみ」
「うん。おやすみ、天馬」
心地よい会話に余韻を感じながら、ゆっくりと寝返りを打つ。
目蓋が重さに耐えかね目を閉じると、俺はあっという間に意識を手放した。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
一階の玄関から聞こえた、扉が開く音に目が覚める。
どうも熟睡していたらしく、カーテンの隙間から夕陽の赤が部屋を照らす。
寝ぼけまなこで周囲を確認するが、月夜の姿はない。
今のは月夜が帰った音だろうか?
頭に靄が掛かった感じで上手く思考が回らない。
取り敢えず、眠気はスッキリ解消されたので、身体を解すためにベッドから起き上がる。
体の調子もだいぶいい。倦怠感は残っているが、頭痛や吐き気は今のところ感じないので、山場は越えたのだろう。
案外、大事には至らなかったな。これなら明日には全快なはずだ。
「……そろそろ母さんか、天音が帰ってくる時間か」
母さんは何用で出掛けたか知らない為、正確な帰宅時間はわからないが、天音ならそろそろ帰って来るタイミングだし、月夜が今帰ったのは有難い。
あの二人が鉢合わせるのは……何か面倒なことになりそうだし、天音には鹿目のことを話した手前、「彼女に愛想尽かせた1日後に、新しい女を家に連れ込みやがった!!」と騒がれかねない。
どの道、母さん経由で天音には月夜のことはばれるだろうが、実際に会うよりは被害は少ないはずだ。
あの二人を会わせるとしても、まだ時期が早い。
「鹿目のことを何とかした後じゃないとな……」
その前にまず、しっかりと風邪を治してからだ。
やるべきことは多い。
気持ちを新たにし、欠伸を噛み殺しながら一階に降りると、そこには、
「――――」
「……」
無言で相対する天音と月夜がいた。
寝ぼけた思考が一瞬で覚醒する。
馬鹿か俺は! 今のは天音が帰ってきた音。月夜が出て行った音じゃない。何でこんな簡単なことに、ほんの少しも気が付かなかったんだ。
「あー、……おかえり天音。えーっと……、げ、元気か?」
「……」
何とかしなきゃと反射的に天音に話しかけるが、ガン無視。
ち、沈黙が辛い。
空間が質量を持ったみたいに場が重く、不用意に喋れない。
なんでピリピリとした空気が張り詰めて、一触即発なんて雰囲気になっているのか。
そりゃ、天音の視点からだと、家に帰ってきたら知らない女が居て驚いた、って状況だが、それだけでこんな無言の睨みあいに発展するか……?
大体、なんだ天音のその眼は?
呆然と突っ立ちながら、両の眼を見開いて月夜を凝視する天音。
その瞳に浮かぶのは困惑でも、怒りでもない。どちらかといえば恐怖に近い。
まるで幽霊にでも出会ったかのような眼だ。
「あ、天音。こいつはうちの学校の……」
「――ねぇ、天馬。ボクそろそろ帰るよ。お邪魔みたいだし」
事情を説明しようとした俺を、月夜が遮った。
俺に背を向けていた月夜がこちらを振り返る。
天音とは違い、月夜からは剣呑な様子は見られない。睨んでいたのは天音が一方的にだったらしい。
「うん、パッと見た感じ顔色は良さそうだね。大事なくて良かった」
「ああ、おかげ様でだ。今日はありがとうな。後、妹が失礼したみたいだな。悪い。今日のお礼はまたいずれ」
「あはは、そんな気にしなくていいのに。――それと」
学校用のリュックサックを背負いなおした月夜が、急に距離を詰めてくる。
慌てる俺に構わず、右耳に息がかかりそうなほど顔を寄せ、
「――妹さんにボクの紹介、お願いね」
と、囁いて、あっという間に玄関をくぐり抜ける。
すれ違いざまに軽く会釈する月夜に、警戒する猫みたいな動きで、素早く俺の後ろに隠れ、月夜を睨みつけながら俺の右腕を強く掴む天音。
「お、おい、天音」
「――黙って」
今度は俺の左耳に鋭く呟く。
いつになく声音が厳しい。普段の外用猫かぶりすらない、剥き出しの警戒心だ。
こんな天音は初めて見る。格闘技の師範代相手に、少しも怯えずに道場破りを挑んだことすらあるほど、こいつは怖い物知らずだというのに。
一体、月夜の何がそんなに恐ろしいのか?
「また来週に屋上で会おうね。バイバイ」
「ああ、また来週」
そんな天音には一切触れず、帰ってしまう月夜。
月夜が行った後、掴まれている腕を振り払って玄関の戸締りを行う。
その後、リビングに戻って、体温がどれくらい元に戻ったかを確認する為、体温計を探していると、天音が柳眉を寄せながら仁王立ちで立ちふさがる。
「あの女だれ?」
開口一番にド直球で聞いて来るか。まあ、そりゃ気になるだろうな。
「二日前に話しただろ。トラックに轢かれそうになったところを、助けて貰った命の恩人だよ」
「――知り合いだったの? てか、何で家にいるわけ?」
「うちの学校の同学年だったからまた会えた。家に訪ねてきたのは、俺が今日、風邪気味で学校を休んだから、心配でお見舞いに来てくれたんだよ」
理由を知ると、更に顔を顰める天音。
なんかイライラしてるな。そんなに月夜が気に食わないのか?
「……へー。会って数日でもうそんなに仲良くなったんだ」
「ああ、まあな。ご飯も振る舞ってくれたりして、ホントにいい奴だよ」
また借りができてしまった。命を助けて貰ってから月夜には迷惑をかけっぱなしで申し訳ない。看病とかはあいつが自主的にやったことだけど、助かっているのは事実だしな。
お礼とかどうしよう……。
「ご飯? この家で?」
「うどんだけどな。美味かったぞ」
「……!」
チラッとキッチンの方に目を遣り、再び俺を強く見据える。
その眼には批判する色がありありとあった。
「鹿目との件がまだ落ち着いてないのに、別の女に飯作らせて看病させるとか、言い御身分ね。散々落ち込んでたくせに変わり身がはやいんじゃないの? これじゃあ尻軽度合いは鹿目と大差ないと思うけど?」
蔑む感じの雰囲気を纏い、咎める口調のままでこちらを見下してくる。
やっぱりそこを追及してきたか。
事実ではあるんだが、そのことで騒がれるのも困る。
「確かにそうだが……、天音には関係ないだろ。これは俺の問題だ」
昨日の様子がおかしかった天音を思い出ながら、冷たく吐き捨てる。
普段の俺なら、ここでこんなセリフは言わない。
だが、こっちは治りかけといっても、病人には違いないのだ。ちょっと大人しくしてもらいたい。下手に出て、昨日みたいな変な展開になっても困るしな。
「っ!」
天音は顔を真っ赤にして、ギリっと歯を食いしばる。
物凄い剣幕で怒鳴りつけようと口を開いたらしい天音は、しかし何も言わず、悔しそうに俯き肩を落とす。
鹿目のことならともかく、月夜のことに関しては口出しできないはずだ。
このまま言い争いをしても、「天音には関係ない」という俺が先に断言している時点で、言い争いが不毛になることを悟ったのだろう。
怒っていても天音は想像以上に冷静なようだった。
「じゃあ、そういうことで。……お、体温計あった。これで……」
「――夕飯」
「ん?」
気持ちを切り替えたのか、先ほどとは打って変わった落ち着いた様子で、ぼそりと呟く天音。
「……昼はあいつが作ったもの食べたんでしょ。……だからって訳じゃないけど。……久しぶりに私の料理、食べさせてあげる。感謝してよね」
「え? あ、ああ」
え? 夕飯? 何で夕飯を作るなんて言い出したんだ?
天音の思考がどんな答えを出したかは知らないが、どうやら今夜の夕飯は、天音の手料理らしい。どういう風の吹き回しだろうか。
もしや、月夜に対抗心を燃やしたのか……?
――いやまさかな。
俺の返事よりも早く動き出した天音は、さっそく母さんに電話して、夕飯は自分が作る旨を伝え、「食材買ってくる」と言い残して、着替えもせずに制服姿のまま家を飛び出してしまった。
数時間後、俺が食べることになったのは、高級料理店もかくやといった、見事なご馳走のフルコースとなった。
味は言うまでもなく、両親がご飯を食べながらむせび泣くほどだった。
……そういやこいつ、料理も上手なんだよな。流石は天才様だ。