11 禁断の
微エロ注意です。
別に走って逃げなくても良かったな……。
衝動的に家まで走って帰ってきたが、あれだと鹿目に対して失礼すぎたかも。
幾ら彼女に失望したと言っても、無礼をしていい理由にはならない。
もう付き合いはこれっきりにするとしても、一応は天音の友達だし、これまで互いに世話になってきた相手だから無碍に扱うべきじゃなかった。
しかも、よく考えてみればちゃんと別れ言葉を言ったわけでもないしなー……。
中途半端に話をぶった切ってきてしまったのを、今更ながらに悔やむ。
「というか、何で逃げたんだろ俺?」
自室のベッドに着替えもせず寝っ転がる俺は、自分自身の行動に疑問を持つ。
冷静に会話して詳細を知ろうと思っていたのに、結局は話半分しか聞いていない。
浮気していたのは疑いようもないが、高良田と鹿目の関係性など、最後まで問い詰めてはいないので、詳しい事情は分からずじまいだ。
まあ、もう付き合い続ける気はないから別にいいか。
浮気した時点で、大して話も聞かずに別れるとか。人間関係の潔癖症の気がないでもないが、気持ちが納得しないのだから仕方ないだろう。俺は基本的に純粋なんだ。
「真剣に接してきたつもりだったんだけどな……」
寝返りをうちながら今までのことを思い出す。
鹿目のことに関して妥協してきたことなどない筈だ。
常に鹿目の為になるように行動してきたし、気に障るような失態は、したとしても二度目は絶対に犯さないよう心掛けてきた。
俺は恋人に対して全力だった。
「それがうざかったのかな……」
だとしたらどうしようもない。性分なんだ。
あいつと俺は相性が合わなかった。それだけの話となる。
喉の奥から静かに漏れ出る溜息を噛みしめ。仰向けになって天井を見る。
心にぽっかりと空いた穴を、無感動に見つめる俺が居た。
昨日に比べて感情の落差は大きくない。激しい怒りも悲しみもないが、何のやる気も出ないし、ただただ動きたくない。何をするのも面倒だ。
しばらく横になっていたら、だんだん眠気が意識を覆いだしてきたので、丁度いいからそのまま仮眠でもとろうと目を閉じる。
無理に走り続けたせいで疲労がマッハなのだ。起きているのもしんどい。
「ねえ、アニキいる?」
そこで、扉が開く音と共に、扉の隙間から天音が顔を覗かせた。
「……昨日もそうだが、お前が俺の部屋に尋ねてくるなんて珍しいな」
微かに開いた目蓋の奥から、胡乱げな視線を天音に向ける。
俺のいい加減な対応に、しかめっ面を浮かべながら許可なく部屋に入ってくる天音。
「別にアニキにはどうでもいいでしょ」
「俺の部屋に来るんだから、どうでもいいわけないだろ。こっちは暇じゃないんだよ。要件があるなら早くしてくれ」
「――随分といい態度じゃん。アニキのくせに」
我が物顔で部屋を横断して、机の椅子に腰かけて足を組む天音。
さっさと帰る気はなさそうである。
「大体、暇じゃないって。ただ寝ているだけじゃん。忙しさで言ったら私の方が何倍も忙しいっつうの」
「だろうな。まだ二年生の夏なのに受験勉強とは恐れ入る」
「東大だからね。手を抜ける訳ないでしょ」
そりゃそうだと、適当に寝ながら相槌を打つ。
東京大学の法学部への入学を目指している天音は、来るべき大学受験の為、だいぶ前からコツコツと受験対策に取り組んでいる。
東大なんて遥かな高み過ぎて、俺には難易度がよくわからないが、天才様の天音でも綿密な準備が必要らしく、こいつが自分の部屋に引きこもっている時は、だいたい勉学に打ち込んでいるらしい。
両親や親せきのみならず、学校や数多の知り合いからもそうとう期待されているとのこと。
想像を絶する重圧だと思うのだが、天音の様子を見るに気負っている節はまるでない。
やはり天才様は、凡俗の俺とは違うらしい。
「――で、忙しいなら俺に構っている暇はないだろ。眠いんだよ、寝かせてくれ」
「……ふん。それで鹿目とはどうだったの?」
前振りなしの唐突な質問。しかし、意図するところはわかった。
「なんのこと?」
「とぼけんな。鹿目と会ったんでしょ。別れたの?」
有無を言わさない口ぶり。こいつの中ではすでに確信事項らしい。
痛いところを突いてきやがる。そいつだけは聞いて欲しくなかったから、さっさと追い出そうとしたのに単刀直入に切り出してきやがった。
「ふん」
もぞもぞと寝返りを打って天音に背を向ける。
だんまりを決め込もうと寝ている振りをしてみたが、ジッと鋭い視線が背中に注がれているのを感じる。
帰る様子はまるでない。
「……お前の言う通りだったよ」
無言の圧力に耐えかね、しょうがなく吐き捨てる様に答える。
「浮気は本当だった。鹿目は俺が思っていたより気の多い奴だった。……だから、愛想が尽きた。それだけだ」
改めて言葉にすると、事実がストンと腹の底に落ち着く。
俺の恋愛は終わったのだと再確認させられて、どうしようもなく憂鬱になる。
「さあ、もういいだろ。少し一人にしてくれ」
「……」
返答はない。
それならそれで、別に構わない。さっさと寝てしまえば天音も飽きて勝手に帰るだろう。
精神、肉体共に疲れて面倒な妹の相手をする余裕はない。昨日と違って鹿目の事は結論が出ているのだし、天音に相談することもないのだ。
倦怠感に引っ張られて、意識を手放そうとする。
――背後で妹が立ち上がった気配がした。
「……アニキ。ねえ、アニキ」
天音が俺を呼ぶ。
いつもと同じ口調。けれど、いつの軽薄さは感じられない。優しく、人懐っこく甘えるような声。
酷く懐かしい。子供の頃、そう疎遠になる前はこんな風に俺を呼んで、懐いてくれていた。あれは中学より前のことだったか、たかが数年前がこんなに慕わしく思うなんて。
「落ち込むことなんかない。たかが、一度の失恋。大したことないよ。
鹿目はアニキことを一番に思っていなかっただけ。アニキのことを理解してなかっただけ」
左肩に感触。
見なくてもわかる。天音の小さく、しかし暖かい手だ。
それが、優しく添えられている。――珍しい。こいつがこんな風に触れてきたことがあっただろうか?
「でも、でもさ。
――私はアニキのこと。理解しているでしょ?」
耳元で囁かれる柔らかい呟きに、思わずビクリと肩を震わせてしまう。
いつの間にかこんなに接近していたのか。流石に距離が近すぎる。
離れるべきか……? けど、疲れてて動くのも面倒だな。それに何か心地いいし、そのままでいいか。
「私はアニキのことは何でも知っている。理解できる。共感できる。そして期待に応えてあげられる。そんな私がずっとアニキの傍にいてあげるんだよ? 何を心配することがあるわけ?」
「……お前が?」
「そう。私が。そして何より……私は誰よりも一番に想ってあげられる。だって家族だしね。当然じゃん。――だからアニキも、私のことを想ってよ」
いつの間にか肩に置かれていたはずの手が、首元に回されて深く潜り込む。
耐え切れず目を開くと、目の前には天音の顔が間近にまで迫っていた。
そこでやっと、異常を感じ始めた俺は体を起こそうとする。
――が、それを押し留める天音の掌。
「お、おい」
兄妹として比べられて、いつも忌々しく思っていた天音の美しい風貌。その端整な顔を上気させて、艶っぽく俺を見詰めている。
潤んだ瞳に俺が映る。
「なに? 兄さん」
ねっとりとした声に頭が痺れる。意識に靄がかかったように曖昧だ。
妙に動悸が激しい。天音の肌から伝わってくる熱が俺に伝播して、体が火照ってくる。
気のせいだと思うが。まるで変な気分になっているみたいだ。
いや、まさか。妹に対してそれはない。あるわけない。
「お前……」
「うん。わかっている。兄さんの心の痛み。裏切られた悲しさを。平静を装っていても私には伝わるよ。
胸にぽっかり穴が空いて、それを何でもないように振る舞っている。かつてそこに埋まっていたのは鹿目だったけど、失ってしまって喪失感に喘いでいる。
――あのさ兄さん。……私じゃダメ?」
「お前、何言って……」
少しずつ体の密着範囲が広がっていく。
俺にもたれ掛って逃がさないとばかりに体躯で包みこむ。空いている掌に天音の掌が絡んできて、細身の両足が胴体に跨る。
「う……」
「お願い兄さん。抵抗しないで」
理性が最大級の警鐘を鳴らす。今すぐ天音を突き飛ばせ。少しでも離れろ。こいつに喋らせるなと。そうじゃなきゃ、取り返しのつかないことになる。
だが、わかっていても止められない。
天音の一言一句が頭の中で、何度も反復して考えがまとまらない。
弱った心に天音の好意が痛いほど染み渡る。空虚な心の大穴に、蜂蜜みたいな温もりがドロリと流れ込む。凍えていた感情が温められ、満たされる。
そのせいで迷いが生まれている。
抗う意志が……足りない。
「私が間違っていたことあった? 私はいつも正しかったよ。
今までずっと。鹿目のことだって警告した通りになった。私は兄さんのことを考えて、出した答えに間違いはない。
だから、――だから私に全部委ねてよ。そしたら万事うまくいくから。安心して私に兄さん譲って?」
天音の相貌が視界を覆いつく。
甘い女子の香りがする。熱い吐息が顔に掛かり、長い茶髪が首元を擽る。
内心で渦巻く葛藤に、身動きが取れない俺の唇を、天音の唇が奪う。
「――っ!!」
ああ、女の子の唇ってこんなにも柔らかいなんて……。
鹿目ともしていない口づけ感触。初めてのキスに精神の天秤が傾く。理性が振り切れ、口をこじ開けて入って来る舌を受け入れようとした瞬間――
『――最後に一つだけ。ボクの告白にどう返答をしようと天馬の自由だけど、せめてそれまでの間は、他の女の子とイチャイチャしちゃだめだよ』
『そりゃ……、もちろん』
『うん。天馬を信じてるよ。……ボクを忘れないで』
夕焼けに染まる屋上に立つ、小麦色の髪の少女との会話を思い出した。
ほんの僅かに戻る正気。その一瞬の内に天音の体を押し飛ばす。
「えっ!」
驚きの声を無視し、密着が離れた隙にそのままベッドから飛び跳ねる。
呆然と俺を凝視する妹から距離を取り、先ほどの感触を忘れるために口を拭うと、天音の表情が微かに歪むのがわかった。
「……ふざけるのもいい加減にしろ。自分が何してるかわかっているのか?」
気持ちに喝を入れ、出来る限り平静の口調で言い放つ。
爪が食い込むほど強く拳を握り、痛みで何処かへ行っていた理性を取り戻す。
改めて冷静になってみると、今起ころうとしていた事の異常さに身震いを隠せない。
俺はもう少しで妹に手を出そうとしたのだ。
失恋で心が弱っていたからとか、妹が変な誘惑をして来たからとか、どんな理由があっても許されない。決して踏み越えてはいけない一線を、俺は越える所だった。
本気の憤りを乗せた視線を天音に向ける。
「……、……。――そう、ちょっとした冗談だって! あんまりにもアニキがらしくなかったから、からかっただけだよ。そんなマジになんなって」
「冗談?」
「うん。見りゃわかんでしょ」
その態度はいつものそれ。あんなことがあった後にも関わらず、悪びれる様子はまるでない。
ベッドのスプリングを軋ませながら、ジャンプで部屋の扉の前に飛び降りた天音は、小悪魔的な笑みを浮かべながら振り返る。
「今ので少しはいつもの調子を取り戻したんじゃない? 私が体を張ってあげたんだから、感謝しなさいよ。美少女の感触を味わうことができるなんて、普通の男なら泣いて喜ぶことでしょ」
「……。…………まあ、そうだが」
色々思う所はあるのだが、取りあえず同意はしておく。
「こんなサービスは二度としないから。期待しないでよね」
最後は突き放すような口調で締め、そのまま部屋を出て行った。
扉を僅かに開けて、天音が自分の部屋に入るのを確認した後。扉をゆっくり閉じて鍵をかける。
普段は鍵など掛けないが用心のためだ。
よろよろと覚束ない足取りでベッドに近づき、糸が切れたかのように倒れ込む。
天音に触れた時の感触がフラッシュバックしそうになったので、頭を叩いて煩悩を吹き飛ばす。
もしあのまま、流れに任せてしまっていたら、冗談では済まない事態となっていただろう。妹に手を出した罪で、豚箱にぶち込まれていた可能性もある。考えるだけで恐ろしい。
「……月夜にまた変な借りができたな。あいつの言葉がなかったらヤバかった」
体は未だ熱いにも関わらず、冷や汗が背筋を伝う。
月夜は別に助ける気あって言ったわけじゃないだろうが、あいつの言葉がなかったら、もしやという状況になっていたかもしれない。
だいたい、妹相手に欲情しただなんて、黒歴史もいいところだ。
さっさと忘れたい。
「にしても、天音の奴。いったいどうゆうつもりで……」
妹の意図がわからない。奴の言をそのまま信じている訳じゃないが、だとしたら……。
いや、考えるのはよそう。
このまま答えに辿り着くと泥沼にはまる気がして来た。
もう寝よう。それが救いだ。次起きた俺に面倒事は任せてしまえ。
「……南無三」
それだけ言うと、俺は改めてベットに身を委ねた。