☆85 守護の誓いと父親からの頼み事
トレイズの顔が盛大に歪む。
「なん……ですって?」
明らかなる不快な心境が表れていた。
わなわなと震える彼女を横目に、ダムソンまでもが険しく目元を細めた。怒気が溢れて険悪な雰囲気となるが、国王は泰然とそれを受け止めている。
「小童、何を言っているのか分かっておるのか」
「無論、儂は言葉を違えるつもりもない。今のこの王国にーー肉体を持った神など不要だと言っておるのだ」
マケインは息を吞んだ。
「神といえば、崇高なるこの世界の守護者ぞ! 偉大なる人類の祖! その高貴なるトレイズ様に対し、不敬がすぎると思わんか!」
「……それで世が安寧を迎えるのであれば、これほど楽なことはない」
国王は憂い気に溜息をつく。
その視線はまるで哀れな存在を見るようにトレイズへと向かっている。それはまるで……シャレにならない悪戯をしでかした幼児に対するもののようだ。
「帝国の脅威も増している中、王宮へは各地で魔物の暴走の報告がされている。これらの崩れた日常、不均衡の原因が、現世へと神界の理を持ち込んだそこの女神によるものだと邪推されても仕方のない状況なのだ」
「……違うわ」
そんなこと、していない。
トレイズは驚いた声で言う。
「分からないか小娘! 国内の瘴気が濃くなっていることは確かである! この状況下、いつ何時、何が起こるか分からない事態に王家からの序列が乱されること自体が災厄と同然と心得よ!
王家へとそなたの血筋を取り込もうとしたところで、我が直系の姫が一人存在しておるのみ……であれば、己が首を懸けたとて、女神の存在を認めるわけにはいかぬのだ!」
「……言いたいことはそれだけ?」
要は、このタイミングで女神の存在を公式に認めてしまうと、王家への求心力が揺らいでしまうということだ。内乱が起これば、確実に帝国は王国へと侵攻を開始する。もしそうなればどれほどの血が流れるか分からず、災厄の責任を問われるのはトレイズ自身だ……そういうことなのだ。
温度のなくなった新緑の瞳。それが、深く傷ついたように揺れている。
彼女は言葉の中では人類を見下しても、実のところはマケインたちを困らせようとは思っていないのだ。
痛々しいほどに張り詰めた部屋の空気。それ自体がガラスの切っ先のように痛くて仕方ない。
「それは、巫女姫のお心か?」
「ズーシュカにも既に承諾はとってある」
「であれば……彼女がそう言うのであれば神殿も動けぬということ。最早……口惜しや」
悔しそうにダムソンがテーブルを叩く。
打ちのめされた表情でトレイズの身が竦む。そんな哀れな一人の女の子に、マケインは思わず指を伸ばした。
温度のなくなった手の甲に、手のひらを重ねる。
泣きそうな目で、トレイズはこちらを見た。
「……言いたいことはそれだけですか」
顔を上げたマケインの克己心に、アストラ王国の盟主は関心したように笑む。
「いいぞ。文句があるのであれば言うてみよ」
「そうなったら、トレイズの立場はどうなるんです。まさか、野良猫のようにその辺に放り出して生きていけっていうのですか」
「神殿の関係は我が娘に任せることにしている。表向きには隣国からの賓客として遇しよう。だが、女神として公に名乗るようであれば今後の保証はできかねる。王家の威光を妨げるような真似は断じて許さぬ」
「身分は」
「平民だ。下手に貴族ということにすると、縁戚関係などでややこしいこととなる」
「なんて酷い……」
思わずマケインは顔をしかめた。
それは、トレイズの身は男爵子息のマケインよりも更に不確かな身分となるということだ。
(何か、彼女の為にできることはないか)
思考を巡らせているマケインに、国王は悠然と言う。
愉快そうに相手の瞳がきらめいた。
「もしも今後この小娘のことを案じるのであれば、己が手で勝ち取ることだ」
「……へ?」
「その曖昧な思いを本物にしたくば、立身出世し、己の手であらゆる困難から守り切るほどの覚悟を見せよ」
「覚悟……」
青ざめた顔色で震えているトレイズの手は真っ白だ。
覚悟。ずっと逃げていたことだ。
マケインは、今までそれを決めているようで決めていなかった。いつも口先ばかりで曖昧なことばかり紡いで、どれほどトレイズを不安にさせてきたんだろう。
(君を守りたいって何度言ったって、俺なんか何にも分かってないんじゃないか)
この世にたった一人生まれ落ちた神様。
どれほど不安で、どれくらいの孤独を抱えていたんだろう。
その血の気の失せた手のひらを強く掴み、マケインは息を吸い込む。
「俺が、この子を守ります」
「覚悟はあるか」
「生涯を懸けて、守り通します」
言質を取られた。そのことに気づくも、全ては今!決まった!
「であれば、まずは王国の騎士となるがよかろう。必要な物は、先ほど渡したはずだ」
ーーーー燕黒勲章。
その重さを感じながら、頷いたマケインに国王は不意に難しい顔をする。あれだけ人でなしなことばかり話していたくせに、何故か人情味のある一面だ。
「食神の加護を抱くそなたに、一つ頼みたいことがある」
窓から見える空は、分厚い雲によって陰り。日差しは灰色に染まる。
重々しい空気に、その声が響いた。
「私の娘を、助けてほしい」
それは切実な、父親の声だ。
「このままではあの子は死んでしまう」




