☆41 国家を揺るがす猛毒
遠くから手を振ったコック服の女の子が猛然と走って来る。
「ししょうー!!」
流石の思春期間近な少年でも、ビッグボアのような勢いで迫りくる奴隷を受け止めるだけの心の余裕はない。
マケインはそれを見て、冷や汗を出し。思わず反対方向に逃げ出した。
「どうして逃げるんですかーっ!」
「いや……だって!」
この本人の希望でマケインの奴隷になったコックの娘さんには、毎日毎日貪欲な勉強熱心で追いかけまわされて正直もう勘弁してくれといった心境なのだ。最初はにこにこ教えていたものの、男というものはデリケートな生き物で、逃げる獲物は追いたくもなるがタイプではない女子にぐいぐい迫られるのは苦痛すら覚えるのだった。
「今日という今日は、あの秘伝の技を教えてもらいますよ! 師匠!」
「いや……俺、今は忙しいからっ」
「じゃあ明日! いやせめて一週間は空けてください!」
「そんなこといってもなあ……」
マケインは、しょうがないので事情を丁寧に打ち明ける。なるべく近日中に王都へ旅立たねばならないこと。帰って来れる時期も分からないこと。
「なんっですかそれは!! どうして断ってきてくれなかったんですか!」
悲痛な叫びで、サラという名のコック娘は滂沱の涙を流す。その女を捨てた豪快な泣き方にマケインはびっくりするが、彼女は自分の服の袖で水を拭いた。
「ついていくことは……っ このサラ、できない! 何故なら私は一人の奴隷にすぎないですし……!」
「じゃ、じゃあそういうことだから……」
恐る恐るマケインは逃げ出した。流石のマケインを精神的に追い詰めていた彼女も、この理由には諦めざるを得なかったらしい。ようやくホッとできた少年は、身体に羽が生えた気分でスキップを始めた。
ああ、この解放感!
ようやく自由に好きなことができるぞ!
王都?いいじゃないか、なんだか気楽な旅行気分だ!
「はははは!」
そう陽気に笑い声を上げたところで、じいっとどこかからの冷めた視線を感じた。ハッと振り返ると、そこには土のついた野菜を持ったドグマが立っている。
「やあドグマ!」
誤魔化そうと思ったが、呆れたようにため息をつかれただけだった。
「何もないところでゲラゲラ笑って、ついに頭がおかしくなりました? マケイン様」
ザ、辛辣。まるでワライダケでも食べたかのような反応が返ってきて、ようやく自分の今の様子が客観的に不審者にしか見えないことに気付く。
「いや……そんな目で見ないでくれ。頼むから」
「やることがないなら、マケイン様も野菜の収穫を手伝ってくださいよ。あの奴隷と連日追いかけっこばかりしてるから、トレイズ様も不機嫌だし……」
「仕事がないわけでもないけどな」
特権階級の貴族だというのに、手づから農業をしなけりゃならないのは我が家族ながらすっかり貧乏生活が身に染みていることを実感する。ぶつくさ嫌そうな顔をしていたドグマもようやく彼のマケイン・モスキークの従者が何をやらされるか悟ったようだった。
「さあ旅支度をするぞ、ドグマ」
「旅支度?」
「わけあって王都へ向かわなけりゃならなくなった。ダムソンさんからの紹介状も書いてもらったし、なるべく早くモスキーク領を発とう」
「王都へ……」
従者は驚いたようにこちらを見る。
「ちょっと待て、流石に僕の頭が破裂しそうだ。何の用事でわざわざ王都まで行くつもりなんだ? 思いつきにしては距離がありすぎるぞ!」
ドグマの口調が素に戻った。それぐらいに衝撃を受けたらしい。
「ギルドカードがおかしくなったから、魔法の専門家に見てもらわなくちゃいけなくなってさ。この領内ってそれ関係の知識人はいないも同然だろ」
なんせ国境沿いの貧しい土地だ。こんな危険地帯に貴重な魔法学者を国がみすみす置いておくはずがない。ダムソンさんでもダメだった時点で、さっさと次の諦めをつけるしかないのだ。
「男爵と奥方は知っているのか!」
「あー、やっぱり話さなくちゃダメか」
「当たり前だろう! 事情を説明しなくちゃ、やってることは出奔と同じだぞ! トレイズ様だって……」
「トレイズは置いていくに決まってるだろ?」
「は?」
王都までの行路に何があるか分かったものではない。マケインは女神を危険なこの旅に連れて行く気はさらさらなかった。ダムソンの庇護下である食神殿のあるこの土地で待っていて欲しい。それは彼女を大事に思うなら当然のことのように思えたが、ドグマにとっては違ったらしい。
「どうやってあの方に納得してもらえばいいというんだよ!」
「それはきちんと説明すれば分かってもらえるさ」
マケインは楽天的にそう考えた。トレイズの並々ならぬ執着心を知っているドグマは頭を抱えて奇声を上げたくなった。
言葉にすれば絶対に分かりあえるなんて。それができるぐらいなら戦争なんて最初から起こらない。
案の定、というべきか。椅子に腰かけたトレイズは不機嫌に脚を組んで言い放った。
「このあたしが、ここで待っているわけないでしょう。あなたったら、おバカさんなの?」
ぴきりと空間にヒビが入った。
その場所から寒々とした木枯らしが部屋の空気に発生する。目元を真っ暗にして立ち尽くすマケインに、トレイズは鼻を鳴らした。
「旦那様のいないこの土地なんて、具の浮いてないスープと一緒! 毎日ダムソンや食神殿の信者の相手をして指折り数えるなんて、あたしが耐えられるわけないでしょう! あたしにマケイン以外の作る料理を食べて待てっていうの?」
「いや……しかし、愚息もまた、トレイズ様のことをおもんばかってですな」
「答えは一緒よ。あたしは、絶対に王都までついていくわ」
その一言に、マケインは信じられない思いで言葉を失くした。
マリラが深々とため息をつく。次々と起こる騒動に、もう胃を悪くする暇もない。
「それにしても、ご加護をもらったばかりの子どもを王都までやるにはどれだけのお金が必要になるのかしら。あまりにもみすぼらしい恰好で行かせたら、ご紹介いただいた神官長様にまで恥をかかせてしまうわ」
「それだったらなおのこと、あたしと行った方がいいじゃない。あたしが王都に行きたいと云いさえすれば、神殿が上等な輿を用意してマケインと一緒に乗せていくわよ」
「それは有難いお話ですが……」
悪びれないトレイズの笑いだ。
すっかり圧されそうになっているルドルフとマリラに、マケインがカチンとくる。
「この前はいるはずのない場所でオークが出たんですよ!? いくらなんでも無事に行って帰ってこれるという保証がどこにあるんだよ! 何が起こるか分からないじゃないか!」
「そんなの出ないわよ。滅多にないことってのは、二回も三回もあるものではないわ」
「俺はよくても、トレイズには何か起こるかもしれないだろ! そうは見えなくても神様なんだからっ」
「……そうは見えなくても?」
トレイズはマケインの発言に引っかかるものを覚えた。
「なあにそれ、失礼なことを云うじゃなくって……?」
「あっ しまった!」
「旦那様ってば、神々の中でも一番に美しいあたしにそんなことを思っていたっていうのね?」
「違う! ただ、やっぱり美人は三日で褪せるとい……間違えた、飽きるってよくいうぐらいだし……っ」
「そんな言い間違えするんじゃないわよ、この馬鹿!」
立ち上がったトレイズのつま先が、俺の足下を勢いよく蹴飛ばす。地味に痛い攻撃を腹いせに二回、三回繰り返し、その顔が泣きそうになっていることに気が付いた。
「……すん、離れたくないのはあたしばかりなの?」
「そんなことない! トレイズのことは、その」
「マケイン、もういいわ。諦めなさい」
マリラが疲れた声を出す。
ルドルフは苦渋に満ちた表情で告げた。
「お前はトレイズ様をこの領内に隠しておくつもりかもしれないが、これだけ大勢の神殿関係者が知っていることだ、もうとっくに陛下の元には存在が知れていることだろう。我が家の格では国を敵に回すことも到底できない。ここは、なるべく主導権を握られない間に王宮へご挨拶に伺った方が得策かと思われるが……」
「それでトレイズが連れていかれたら、どうするんですか?」
「恐らくは女神様の意に背くような真似は誰もできないと思うが……」
ルドルフが小声で囁く。
考えてみなさい、トレイズ様の微笑み一つでこれだけの数の信者が動くんだぞ?……と。
連日連夜、大波のような巡礼者に代わる代わる拝まれているモスキーク邸の人間なら、そのいわんとすることの意味がすぐに分かった。
どっと疲労を感じたマケインは白旗を挙げる。
「……分かったよ、勝手にすればいいだろう」
道理で今まで他の貴族が静かにしているはずだ。……つまりはこの女神の影響力は国家の序列を超えた革命くらい信者という数の暴力で容易く起こせるということらしい。
何が起こっても知るもんか。
毒を食らわば皿まで。
トレイズの微笑みは、国家を揺るがす猛毒だ。
もしかしたら、この自棄になった発想がいけなかったのかもしれない。




