☆35 守りたい、それで充分じゃありませんか
さて。ただいまの手持ちの金額だ。
あの日、市場でパンと水を売ったお金は白銀貨三枚と銀貨五枚ほどになっていた。ここから次回の原材料費諸々を差し引いた金が自由に使えるものとなる。
なるべく後で困らないように、四割くらいを残して後の貨幣は次回に持ち越す。となると、実際に依頼で使うことができるのは白銀貨一枚と銀貨四枚程度だ。
現実は厳しい!
「マケインちゃん、今日はよろしくねー!」
結果、モスキーク男爵家の依頼に応えてくれたのは、本来なら受付嬢をやっているはずのソネットと。
前にギルドでマケインのことをナンパしようとしてきたBランク冒険者の青年が一人。後はマリラの弟のジェフ、それといかにも怯え切っているドグマの四人が集まることになっていた。
「おっ俺! 聖女様の為ならなんでもしますので!」
自分でいう限りでは領内で一番の剣の使い手だと自称している青年だが、現在は御者として馬車を走らせている。なんとなく軽薄な印象を与えていた。
「……せ」
「はい?」
「聖女とか言うな!」
馬車の中のマケインは火を噴く勢いで殴り掛かりそうになったが、それをジェフに止められる。
「まあまあ、マケイン様!」
「俺は男だと何回説明させれば気が済むんだよコイツは! 頭の中空っぽで、てんで人の話を聞いちゃいないんだ!」
「あっははははは!」
腹を抱えて笑ったのはソネットだ。褐色の肌を惜しげもなく露出した健康的な防具姿を見せつけておきながら、彼女は目尻の涙を指先で拭う。
「それにしても、カラット家の妨害は酷いものだったよね! あまりにもみんな貴族様に怯えて依頼を受けてくれないものだから、あたしも久々に剣を握っちゃったよ!」
そう。このメンバーになったのはそういう事情からだった。
モスキーク男爵家よりも上位のカラット子爵家の不興を買えば何をされるか分かったものではない。あの市場の出来事からそう判断した街の冒険者は、今回の討伐依頼を敬遠して避けてまわったのだ。
「ソネット、本当に良かったのか?」
「あたしは流浪民だからね、この程度のことで怖がってちゃ生きていけないっての! これでもCランクくらいの実力はあるんだ、狩りぐらいで不安にならなくても大丈夫!」
馬車に揺られながら、彼女は快活に笑った。
「しかも、今回はあれでもBランク冒険者と一緒だしね、そんな危険な目にも遭わないっしょ」
「あれでも?」
「あの男冒険者ね、限りなくC寄りの実力のBランクってゆーめいなのよ」
声を潜めてソネットが笑う。
なんだろう、その女子の下着のカップ数的ないわれようは。
「それでも、一応はBなんでしょ?」
「ぶっちゃけ、試験の時に奇跡でもおきたんじゃないかって噂されてるのよね」
今更感あふれる衝撃の事実に俺の世界が傾きそうになった。
その時。馬車ががくんと大きく揺れる。鎧の中にあったソネットの弾力のある胸と谷間も上下に震えた。
日頃は意識していない相手でも、眼福の光景にマケインは一瞬だけ鼻の奥が熱くなる。
「……ところでさ、マケインちゃん。あたし、こないだから気になっていることがあるんだけどー」
こちらの脇腹をつっつきながらソネットはずばり尋ねてきた。
「マケインちゃんって、食神様のことが好きなの? それとも、実はエイリスのことが本命なの?」
あれ? 気のせいかな。ガールズトークのノリを感じる。
ここは一体女子高の放課後か?
「そのような不敬な物言いはやめなさい、ソネットさん」
正しい王国民であるジェフが眉間にシワを寄せた。
「平民ごときを食神様と同列に並べるなど、言語道断だぞ。お前……っ」
この間まで神官として教育を受けてきたドグマが髪を逆立てそうになる。それをなだめようとしたマケインを見ながら、ソネットは悪びれなく言った。
「なーによ、アンタらだって気になってるんじゃないの?」
「そっそれは……」
「確かに、トレイズ様に対して煮え切らない態度をとるとは思ってはいたが……」
形勢は一気に受付嬢に優位となる。
難しい顔をしたジェフが、くぐもった声でマケインに向かって囁いた。
「確かに、普通であれば食神様に選ばれただけでも有頂天となるものなのに、どうしてマケイン様はトレイズ様に……距離をおこうとするのですか?
なんというか、あれではまるで嫌がっているような……」とジェフが。
「マケイン様、いくら貴様でも食神様の御好意を無下にしようとするのなら、ここでお前を僕の手で殺さざるを得ないが……」とドグマはトレイズへの崇拝心をちらつかせる。
皆からの口々の言葉に、思わず俺は白旗を挙げる。隠すに隠せていなかったマケインとトレイズの距離感に、彼らも疑問に思ってはいたらしい。
「……嫌なわけじゃないさ」
マケインはボソッと喋った。
「では、なぜ離れようとするのです?」
「嫌とかそういうんじゃないんだ。ただ、トレイズは俺のことを好きで一緒にいたがっているわけじゃないだろ?」
「どういう意味?」
「……トレイズが好きなのは俺の料理であって、俺自身のことじゃないんだ」
暗く沈んだ声が喉から出た。
我ながら情けない。
ずっと、もしかしたら出会った時から考えていたことだ。トレイズがこの地上に降臨して再会した瞬間から頭に掠めていた事実。
――トレイズは美食好きが高じて俺を求めているのであって、決してマケインのことを好いているわけではない。
「確かに、勘違いしそうになったさ。あんなに可愛い子が、一途に俺だけに愛してるって云ってくれるんだ。しかもこの世界の神様が、旦那様って呼んでくれてる。貧乏な男爵家の跡継ぎにはもったいないことだって理解しているんだ」
「だったら!」
「でも、俺よりも美味い料理を作る人間が現れてもそれが続くって保証はどこにあるんだ?!」
マケインは泣きそうな顔になっている。
思っていても言えなかった黒い本音が自分の口から出てくる。
みんなは沈黙をした。
……期待をしたくない。期待をしてしまったら、未来を望んでしまう。
彼女は綺麗だ。存在しているだけで希代の宗教画の一枚だって褪せてしまうほどに、本物の女神は美しかった。
細くて白い指が好きだ。桜色の髪も、長い睫毛に縁取られた吸い込まれそうな萌黄の瞳も。美味しいものを食べたときの満開の笑顔も好きだ。
自覚をしてしまったら、俺は生きていけない。物分かりのいい男になんかなれない。出会った時からいつでも身を引けるようにメンタルをコントロールしていたのに、簡単に全てがバカバカしくなってしまう。
「……マケイン様」
「…………」
「本当は、マケイン様は、トレイズ様のことを誰にも渡したくないほどにお好きなのではありませんか?」
「…………」
ジェフが、落ち着いた口調で話す。
「だとすれば、手放してはいけませんよ。今、彼女を深謀渦巻くこの世界から守ってあげられるのは、もしかしたら君しかいないのかもしれない」
「え?」
マケインは唖然とする。
「だって、俺は下級貴族だし……トレイズを守れる人間なんてもっといい人間がいくらでも……」
「それがそういうわけでもないんですよ」
ジェフはやれやれと頭痛を堪えた。
この坊ちゃん、やっぱり何も分かっていなかったのだ。
「今は仮にも食神様自身がお選びになった伴侶がいらっしゃいますから一見平和に見えますがね、もしも彼女に決まった相手がいないとなれば国同士を巡った大騒ぎになります。王族や貴族の血みどろの争いや、戦争。トレイズ様ご自身を捕まえて研究対象にしようとする不届きものが現れるかもしれない。それが起こらないようにトレイズ様の前で生贄と……いえ、失敬。いい感じの盾となるのが君の役目です」
「……だとしても、他にいい人間が」
「世の中君ほどに欲が薄くて善良な人間なんてそうそういないんですよ!」
ジェフの言葉に、マケインは、はっと目が覚める思いになった。
「マケイン様、それでも男ですか!」
「…………っ」
「好きな子を守りたい、それで充分じゃありませんかっ だから今回も多少の危険が伴うと分かっていながらもこうしてオックスを狩りに出ているのでしょう!」
くだくだ面倒くさいことを考えていた自分が恥ずかしくなる。
ソネットがよしよしとお姉さんらしく頭を撫ぜてくる。マケインの頬がたまらず羞恥で赤くなった。




