時ヲ止メテ
退職したいと言って今日すぐに辞められるわけもなく。父を看ながら結局、月末まで勤務した。何をしでかすかわからない父を自宅に残しての数週間が何事もなく済んで心底ほっとしている。
母の病状が安定してくると、退院の準備が始まった。自宅介護の準備である。身体に麻痺のない母に物理的な準備はまぁ、必要なかった。では、何が必要だったのかと言えば、家族の覚悟という心の準備だろうか。『介護』という単語に付随するさまざまなイメージが重苦しくのし掛かる。この時期の心境を振り返ると、戦々恐々という感じだろうか。経験のない事は必要以上に緊張するともいう。
退院するために必要なのは何か。糖尿病とか肝機能がどうとか高脂血症とかアレやコレ。食事制限や生活上の注意が本当は必要なんだけど全部は無理だと思うからと、前置きした上で優先度の高い塩分制限と血糖値の管理はしてくださいと医師から言われる。ホントは必要なアレコレは、確かに全部は無理だよねと納得しつつ、これだけやってねと言われた内容も介護初心者には結構高いハードルでした。
介護職に就いているか家族に要介護の人間がいる場合を除き、具体的に何をするか理解している人は少ないだろう。今、この瞬間に求められているのは、なにをどうするのか、判断する力と、行動力だった。看護師さんより生活する上で最低限必要な医療処置を仕込まれる。
血糖値の管理は主に、血糖値の測定とインシュリン注射である。20年と少し前、知り合いにインシュリン注射をしている方がいた。予防接種に使用するような注射器を使用していたが、それに比べれば今の注射器は随分簡単なものになった。マジックよりは太めのスティックに薬液が入っていて、計量するための目盛りが付いている。使い捨ての針を付け、目盛りを合わせたら、お腹に刺してカチッと音がするまでヘッドを押し込む。痛みもほとんど無いと聞く。実に簡単な手順だと思うが、初心者にとって他人のお腹に針を刺すというだけで一大事なのだ。これが静脈注射だったら挫折していたかも。皮下注射でよかったとほっとする。
母の食事に合わせて病院に通うが、時間がずれれば摂取が終わっているし、用事があって行けないこともある。退院すれば自分が注射するのだからと、1日1回以上を目標に練習に励んでいく。さすがに片手の指を超えてくると手順書を見なくてもサクッと済ませられるようになってきた。仕事の都合で時間の合わない兄弟達にも、なるべく経験値を稼がせたい。
くだくだと時間稼ぎをしていると、看護師さんより退院日を決めてくれと迫られる。自宅介護の覚悟なんて決まらないまま、退院となった。