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くたびれて薄汚れたカーテンが風に靡き、アルミ製の机に積まれた書類が音を立て捲れた。窓から見える空は真夏のカラッと晴れた青く、そこに眩しい位に白い雲がいくつか乗っていた。本棚と机が部屋の大半を占め、床には本棚に入り要らなかった本が東京の高層ビルのように参列しその間に辛うじて人一人が行き来できる道路があった。光が届かない薄暗い奥には段ボールが転がっており、何が入っているかは見ることができない。
そんな部屋の主はアルミ製の机に顔を突っ伏して緩やかな呼吸を繰り返していた。癖のない黒髪は首元に掛からない程度に短く切りあげられ、少し皺のある白いシャツは肘まで捲し上げられている。いつもは隙のない瞳が閉じられ幼く感じた。白く陶器のようにきめ細かい肌は汗一つかいておらず、整った顔立ちもあり存在が作り物めいていた。
彼の傍には一人の少女がいた。積まれた本の間を縫い傍まで近寄った彼女は熱い視線を彼に注いでいた。空いた手で彼に触れようとし、寸で思いとどまり胸に手を押し当てる。胸の内で溢れそうな思いに必死で蓋をし、堪えるように窓の外へと視線を巡らせる。いかにも初夏らしく澄み渡った空は一年前と変わらず、それは否応なしに彼女に記憶を辿らせた。
彼女が人を知り恋に落ちたあの時間に。
朝の日を浴び意識が浮上する。
日の光を浴びて山田 杏は気だるげに体を伸ばし、緩慢な動きでベッドから抜け出す。顔を洗いタオルで水滴を拭う。
顔を上げた時に洗面所の鏡に映ったのは冴えない少女だった。癖のある茶色の髪は寝ぐせで四方八方に毛先を向け、青白い顔には表情がなかった。思春期に嫌というほど気になっていた口元のホクロは年を重ねるたび大きくなっている気がする。
重いため息をつきリビングに向かう。部屋の中央に正四角形の机が陣取り、その右側にはソファーが壁に張り付くようにおいてある。そのソファーに制服が無造作に置かれているのを集め、着替える。ひんやりとしたブラウスが肌に馴染んで気持ちが良い。セーラー服を身に纏うとソファーの横にある木製の引き出しから、黒色のヘアピンを取り出す。引き出しの上の四角い鏡を覗きながら右耳の上に二本平行線になる様にとめた。鏡の横に置いてあるヘアミストを取り出し髪全体に一吹きかけ、手で髪に馴染ませる。毛先のはねが収まったのを確認しリュックを背負う。
鍵をして家を出た。
春風が優しく頬を撫でる。住宅街の小道を徒歩で1分もしないうちに大通りに出た。電化製品店の前にバス停があり、そこへ向かう。通勤時間帯で車通りが多かった。なんともなしに空を見上げると、電線にとまっている小鳥が一匹視界の端に映る。
黑い羽と丸々とした白い腹を持ち赤い頬を持つ鳥は燕だった。せわしなく顔を巡らせ辺りを警戒しつつ時折思い出したかのように毛繕いをしている。風に電線が揺れるにもかかわらずどっしり構えている姿は逞しい。すると一匹の燕が傍に留まりぴったりと二匹は肩を並べた。
(彼らは知り合いなのかな)
不思議そうに観察していると、低いエンジン音が耳に届く。音のした方に視線を向けるとバスがすぐ近くまで迫っていた。目の前で止まると機械音をさせドアが開く。バスの運転手が行き先をアナウンスするのを聞きながら乗り込む。
学校では無口で無表情な学生で通っていたし、実際杏はそういう人間だった。
友達と言える存在もなくいつも一人静かに椅子に座っていた。授業はまじめに受けるし行事にも参加はする。ただそれらを楽しいと思えず常日頃から無表情だった。杏に言わせれば周りが異常であるように見えたし理解ができなかった。学校は受け身の授業が多くグループワークがほとんどなかったため一人でいることに拍車がかかり、人との関わり方を徐々に忘れていった。
その日も一限目から授業に参加し先生が板書することをノートに写す。四限目が終わると生徒たちは昼ご飯なのでみんな浮足立ち、各々集まり話をしたり弁当を広げたりした。杏が授業内容を見直しているとノートに影ができる。顔を上げると四限目の授業を担当した一条 要が目の前に立っていた。目が合うと口角を上げ人の好さそうな笑顔を浮かべる。黑く癖のない髪に女子生徒から人気の整った顔立ち。年も20代後半と若いが授業は理解しやすく面白かった。
「勉強熱心だな、山田さん」
その台詞に曖昧な笑みを浮かべる。機転の利いた一言も浮かばず、迷っているうちに何も言えなかった。
会話が終了したのを感じすぐに教室を出ていくだろうと心の端に思う。杏の席は教室の出入り口に一番近い最前列だった。しかし要はすぐには去らず違う話題を振ってきた。
「今日は朝バス停で空見上げていたところをみたよ、そんなに珍しいものでもあった?」
その言葉に驚愕し目を瞬かせた。
そこで杏が利用しているバス停に面する道路は他の先生方も利用していることを思い出した。しかし、この話題をほかの生徒ではなく杏に振る先生は初めてで、柄にもなく動揺してしまった。すぐに落ち着きを取り戻し、燕を見ていたことを伝えようか逡巡する。上手く説明できる自信もなく、結局曖昧に頷いた。
「そう、そろそろ燕が渡ってくる時期だから空にでも飛んでいたかな」
要は少し首を傾け優しい口調で独り言のように呟いた。杏の心を読んだかのような台詞に言葉を失った。杏の呆けた顔が面白かったのか手を口元に当てくすりと笑う。そのまま何事もなかったかのように杏に背を向け教室を出て行った。要の背中が見えなくなるまで杏は目が離せなかった。
それからというもの何かと要は杏に構い、その度要の洞察力に圧倒された。口を開かずに察してくれる要に心を許し次第に口を開くようになった。
要は人の心を読めるわけでは無いので時折見当違いなことを言うときがあったからだ。
そのためそれを訂正するために喋りだしたのがきっかけだ。
『せんせい、そうではなくて…』
緊張で舌足らずな言葉に要はいつも優しい笑顔を浮かべ最後まで聞いてくれた。要といるといつも心が温かくなる。この感情に名前が付けられずにいた。しかし時が経つにつれ疑問は大きくなりついに要に聞いてみようと決心する。
放課後、要の部屋で話している時に口にした。
「私、先生と話していると…こう…ここら辺が温かくなって、まるでお布団の中にいるような感覚がするの…これは何?」
杏は胸に手を当てて要をまっすぐ見つめながら聞いた。要は国語担当だったので図書室のカウンターの後ろに部屋を持っていた。どうにも掃除や整頓が苦手らしく机には書類と書籍が詰まれ、床にも勢力を伸ばしていた。その間に二つ椅子を向かい合うように置きいつも話をする。
要は考えを探る様に杏の瞳をじっと見つめ、唸りながら手を顎に当てた。その姿勢のまま自分の後ろにある窓へと視線を巡らせる。
要は答えが見つからないという風ではなく、どう説明すればいいか考えているようだった。二人の間に窓から入った風が駆け抜け、杏の目には要のサラサラした黒髪が靡くのが映る。それに見惚れていると、要は急に意を決したかのように立ち上がる。急な行動に驚いてつい要のように立ち上がると、その様に要は苦笑を浮かべた。そのまま座っていなさい、と一声かけ杏の返事を待たず壁に隣接した本棚に近づき、本の背を指でなぞる。杏は大人しく椅子に座って要の行動を眺めた。
少し時間が経ち、風が冷たくなったのを感じた。思わず視線を窓の外に巡らせると太陽が赤く燃え山々の間に沈みかけている。要と話す様になる前は時間や季節の変化に何も感じなかった。しかし、国語の先生といる時間が増えたせいか最近自然の変化に敏感になりさらにその変化に美や喜びを感じるようになった。
(これも先生のおかげだな、先生はまるで神様みたい。先生を知ってからの世界は以前のとまるで違う。)
しみじみとそう感じて、例の不思議な感覚に襲われる。手を胸に当てると、そばで要がいることに気づいた。顔を上げると要は何とも言えない表情で杏を見下ろしていた。憂いを帯びたその顔に赤い日の光が照らし顔の半面に影を作る。杏と目が合うと何事もなかったようにいつもの笑みを浮かべた。
要は時々形容しがたい表情をする。しかし、杏と目が合うといつもの要の優しい笑顔に変わるので杏は深く考えないことにした。
「山田さんはね、この本を読むといいよ」
湿った絹のような柔らかい声を落とす。差し出された古い一冊の本は要の私物のようだった。その本を手に取ると、時期に暗くなるから早く帰りなさいと促される。先生の柔らかく優しい声は何故か鼓膜に残った。
杏は読書の習慣が無かった。授業の宿題で教科書を読む程度しか長文に触れる機会はない。取りあえず読んでみようと家のソファーに座りながら文字を目で追う。ページをめくる手はどんどん先に進み、時計の針は淡々と時間を刻む。
気づいたら最後のページまで駆け抜けていた。本を閉じ、顔を上げると時計の短い針は2を示していた。しかし杏はそれが気にならないくらい満たされていた。自分が感じていたこの感覚は、この主人公が感じていたものと全く同じだった。
この話のテーマは家族。
主人公は男の子で家族が大好きだった。そしてある日突然、内戦で家族を失い一人で荒野をさ迷っていると年上の男性と出会った。ずっと一人だった主人公は一人でも生きていけると驕っていたが、男性は男の子が心配だった。男性の一緒に生きていこうという誘いを男の子は断り、その晩一人で野宿をする。偶々通りがかった盗賊に攫われそうになった時助けてくれたのはあの男性だった。助けてくれたことに感謝はするが、盗賊のせいで人間不信になった男の子を男性は優しく守ってくれた。最後には、男の子は男性を信じ男性は男の子を養子として受け入れた。第二の家族を手に入れた男の子は男性を兄として父としても愛し、安心して暮らした。
という話だった。
この男の子が男性や家族に感じたようなこの気持ちと、杏が要に感じている気持ちは同じだった。心が温かくなり、思わず目を閉じて寄りかかってしまいそうなこの感覚。これはきっと安心するという感覚なのだろう。杏の親類は問題ばかりでこのような感覚を人に対して持ったことがなかった。
自分の中のこの変化があまりにも大きく人間らしかったので、もし要に言葉で教えられたとしても、ただ漠然と言葉鵜呑みにするだけで、理解はできなかっただろう。しかしこの男の子を通して家族に愛され、男性の優しさに触れることにより、安心や安堵することを味わい理解できた。
「先生、ありがとう」
その言葉は一人きりの部屋を震わせ、余韻を残し消えていった。
いえーーーーーーーーーーーーーーーーーーい
先生×生徒大好物なんじゃーーーーーーーーー
切ない片思いor両片思いの末の背徳の禁断のラブラブもすきぃ