仄青く灯る
女はそこで、死を待っている。
薄暗い部屋の中、壁に切られた四角い窓。
古びた窓枠に切り取られ、赤い格子に刻まれたうら寂しい農村の風景。
それが彼女の知り得る世界の全てだ。
女は閉じこめられている。
長い長い時間。薄闇に、ずっとひとりで。
「退屈だろう」
気付けば、言葉がこぼれていた。
首を傾げて女が見上げる。袂の中で腕を組み、窓の外に立つ俺の姿を。
俺と女の間には、赤く塗られた格子があった。格子の向こうは薄暗く、空気も澱んで動かない。その中に、古びて傷んだ板張りの上に、女はぽつりと白点の様に座していた。
世話をする者もないのだろう。伸びるに任せた女の髪が、女自身の顔や体を黒くうねりながらに隠している。わずかに塗り残された隙間から、ぽっかり開いた目が覗く。
こんな所にずっと閉じこめられているのは、この目のせいに違いなかった。
不思議に光る瞳の色に、鬼火の様だとその時思った。ただ開いているだけの、心の見えない青い目が。
「退屈だろう?」
「……退屈」
重ねて問うと、鳥の様に女が答える。
格子の向こうの女の瞳が、俺を越えてもっと遠くの何かを見つめた。
わずかに衣擦れの音がして、女が身じろぐ。板敷の上に黒い髪がねじれながらに広がって、横座りの足先が着物の裾からちらりと見えた。
それをぼんやり眺めていたら、またも勝手に言葉が出ていた。
「逃がしてやろうか」
逃がせる訳はないのに。
……いや、逃がせるだろうか。
村の者が頼んできたのは、この女の始末だ。
祟られた娘だと。祈祷師ならどうにかしてくれと。
それを逃がせば、俺もただでは済まないだろう。
だから逃がしてやろうと言った瞬間、胃の辺りがじくじく冷えた。後悔した。拙いに決まってる。だが、それでも。女が望むなら、逃がしてやろうと思っていた。
なのに。
まるで言葉の意味が解らないとでも言う様に、女が再び首を傾げた。
虚を突かれた。
ぽっかりと開いてこちらを見る目に、その仕草に。
吸いこまれる様な青い目が、俺を見ている。
鬼の子だと。
祟られた娘だと。
どんなふうに忌み嫌われてきたかは、想像がつく。
なのに、女の瞳には何もない。怒りも、恨みも。ただ純粋な、青だった。
それはとても、厄介な事に思えた。この女は本当に、妖の血を引いているのかも知れない。そう思った。
だとしたら、俺は祈祷師失格だ。
しかし同時に、納得もする。
妖だとでも思わなければ、説明が付かない。ひと目で魂まで食われた様に、魅了されてしまったこの心に。
吐息と共に浮かんだ笑みは、自嘲めいていただろう。
――そうか。……そうだ。
「参った」
気が付いた。
気付いてしまえばそれが一気にふくらんで、持て余すほどの勢いで全身を支配した。
俺はとっくに、それも酷く、この女が好きだった。
「ああ、もう! 参った」
うめく様に小さく叫び、自分のザンギリ頭をがしがし掻いた。屋号を染め抜いた羽織を脱ぎ捨て、小屋の周りをうろうろと歩く。
女が閉じこめられているのは、村の集落からぽつりと離れた小さな小屋だ。粗末な小屋には不似合いに、外壁は漆喰で塗り固められている。
小屋の周囲を一周しても、出入り口は見当たらなかった。
閉じこめた後は必要ないと、漆喰の下へ隠しているのか。ならば事実、小屋の内と外をつなぐのはこの小さな窓だけだと言う事だ。
窓は四角く、どうにか人の肩幅程度。しかし頑丈な格子に阻まれて、女の腕さえ通るか怪しい。
「待ってろ」
「うん。待ってる」
独り言のつもりで放った言葉に、返事のあった事に驚く。だが、違った。
「もう、ずっと待ってるんだ」
そう続けられた女の声で、待っているのは俺ではないと気が付いた。
一度集落の方へ足を向け、しばらくしてから小屋の前に戻った。
改めて、窓の格子に片手を掛ける。格子は赤い。ベンガラだ。
ベンガラの色は、魔除けとされる。俺はその魔除けの赤に、躊躇なく鉈を重く振り下ろした。
近くの農家から勝手に拝借してきた鉈は、よく切れた。頑丈な格子も、やはり木だ。肉厚の刃を何度も打ち付けて行く内に、木っ端みじんになってしまった。
阻むもののなくなった窓から、小屋の中へ手を伸ばす。
「おい、行こう」
「どこへ?」
女は不思議そうに問い返すばかりで、俺の手を取ろうともしなかった。それはまるで静かな拒絶で、俺の内側を苛々と焦がした。
「どこでもいい。行こう」
「だめ」
「逃げるんだ」
「待ってるの」
「何を?」
咄嗟に尋ねた。
女が答える。
「終わるのを、待ってるの」
聞かなければよかった。
聞く前に、強引に女を連れて逃げればよかった。そうしたら、どうなっていただろう。
だが、俺は聞いてしまった。
そして、ああ、と思ってしまった。
ああ、そうだ。女は。彼女は。ここで死を待っている。
「……待つのか」
「うん」
「じゃあ、仕方ないな」
独り言をぼそりと落とし、俺は思い切る様に息を吐く。それから鉈を足元に放り投げ、残骸の赤く散る窓を越えた。
薄闇で満ちた部屋の中、逃げる間も与えず女の体を抱きすくめる。息もできないほどきつく女を引き寄せて、やっと、腹の底をちりちり焙る苛立ちが落ち着く。
どうしようもなく寂しくて、どうしようもなく愛しい。
「俺も待つ」
女を腕に閉じこめたまま、いいか? と問う。女は答えなかった。身動きすらしなかった。ただ全身を強張らせて、耐えている。
ぎくりとした。それほど嫌かと。
そろそろと腕を緩め、体を離して女の顔を覗きこむ。薄暗い中でも、よく解った。
白い肌が、今は真っ赤だ。
心底驚いた顔をしていたのだろう。実際、驚いた。その俺の顔を見て、女が「あっ」と言って身を引いた。そのまま転がる様にして部屋の隅まで逃げて行く。
これは、どっちだ。
「……いいか?」
「だめ」
だめなのか。
「おい」
「だめ」
「せめてこっちを向いて言え」
そう言うと、やっとこちらをおずおずと見た。
「……だめ」
だめなのか?
女を見る。女も俺を見ている。
小屋は小さい。部屋の中は狭い。隅まで逃げても、顔くらいはどうにか見える。
本気で嫌なら、そんな顔をしないで欲しい。
だめだと言うのに真っ赤になって、瞳を潤ませ、まるで親とはぐれた犬の子だ。
俺は女の方へ膝を向け、板敷の上をにじり寄る。すると女は壁にぺったり背中を付けて、少しでも距離を取って逃げようとあがいた。
「俺は、嫌か」
この頃になると、まあ、確信はあった。だが、あえて尋ねた。また逃げられでもしたら、さすがに俺も少々傷付く。
だから、問う。追い詰めて、逃がすまいと。
「嫌か?」
ゆっくりと手を持ち上げて、女の方へ差し伸べる。
不安なのか、期待なのか。よく解らない。胸の中でどくどくと、これまでにないほど心臓が騒ぐ。
ふるえる様な女の視線が、あちらに伸ばした手の先をくすぐった。そして腕、袂から覗く肘。ゆっくりと肩へ移って、おずおずと。さまよいながらに俺の顔まで辿り着く。
その刹那、全身の血が暴れ出す。早く、早くと急くのを堪えて、辛抱強く、半ば祈りながらにじっと待つ。
か細く白い女の指が、俺の手の平に触れるのを。
この腕の中へ、女の方から囚われにくるのを。
鬼火の様だと思わせた瞳が、仄かな感情を灯すのを。
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