いくつかの光
十二月の寒空の下、おれは振られたあげくスーパーマーケットの駐車場へ車から放り出された。
地元ではまあまあ有名な県北の公園でイルミネーションを見た帰りだった。彼女が寛大にも「寝てていいよ」と言ってくれたものだから、仕事の疲れもあり助手席でうとうとしてしまっていた。まさに夢見心地だった。なんだか眩しいなと思った。
目を開くとスーパーが見えた。看板灯と店内照明が煌々と駐車場を照らしている。目を擦って伸びをした。買い物に寄るのだろうか。
「ふぁぁ」
外へ出たくはないが仕方がない。眠ってしまったお詫びにお金は出してあげよう。外気の冷たさを覚悟して上着の首元を直した。
「――何でまだいるの?」
しかし外気よりも冷たい言葉を浴びる覚悟はできていなかった。
「え?」
おれは声を上げた。理解できなかった。夢なのかと本気で疑った。イルミネーションデートの帰り道に聞くべき言葉でないのはたしかだ。眠気などたちまちに去っていく。
「な、なんで?」
「――出て行って。あとは自分で帰って」
彼女は質問に答えなかった。
つい一時間前まで手を繋いで夜景を歩いて、一緒にこたつに入ってぜんざいをすすった仲だというのに、何があればここまで状況がおかしくなるのだろう。しかもこの目、彼女は間違いなく本気だ。
自分で帰る。それがどのくらい困難なことか考えてみた。ここからうちまで車で三十分以上かかる。そして自分は車から追い出されようとしている。
「どうやって」
「知らないよ。電車ででも帰れば?」
おれは腕時計を見た。午後八時前。土地勘はなくどこに駅があるのかもわからない。やばいなと冴えた頭でなくてもわかった。
「急にどうしたの?」
温情にすがりつこうともう一度聞いてみる。
「何かしたなら謝るよ」
「出てって」
「でも、そりゃないでしょ」
「出てって!」
そういうわけでおれは出ていった。車はあっという間におれを置き去りにした。
車の中も足先が冷えて十分寒かったが、外では全身が寒かった。
夜の冷気は精神的な痛みをおれにあまり感じさせなかった。おかげで泣き出さずにはすんだ。大の男が迷子のように駐車場でむせび泣いていたとしても、おれは笑わない。だって悲しいのは仕方ないだろうから。でもおれは遠慮しておきたい。奥歯がガチガチ鳴った。早くどこかへ入らなければ。
だだっ広いこの駐車場の間近にあるのはもちろん、LEDきらめくスーパーマーケット。これが最後の情けだったのかと理解した。
おれは吸い寄せられるように中に入っていった。出入り口で買い物を終えた主婦たちとすれ違う。よほどひどい顔をしていたのか、怪訝そうな眼差しを感じた。自意識過剰かもしれないが、こんなときに過剰にならない自意識など持ち合わせてはいない。
スーパーの中は期待していたほど暖かくなかった。というか外ほどではないが十分に寒かった。
しかし広いスーパーだからか、幸いなことに玄関のすぐ横にカフェコーナーが設置されてあった。カフェコーナーといってもカップジュースの自販機とテーブルがあるだけだったが、それでも助かった。
そこでは先客の若い男一人と女二人がコーヒーを飲みながら楽しそうにおしゃべりしていた。おれは彼らからできるだけ離れて座った。といっても二メートルくらいの距離しかなかったので、話し声などはすべて聞こえてしまう。苦痛だった。
どうやら大学生らしい。男女共に顔立ちは悪くない。この場にいない他の誰かの話題で盛り上がっている。飲み会の話をしている。頼むから帰ってほしい。
幸せそうな人間はまったく有害だなと思った。みじめな人間をさらに追い詰める。
携帯電話を取り出して地図を調べる。スマホではないので指がこわばってうまくボタンが押せない。背筋に悪寒が走りつぎにはブルっと全身が震えた。もはや身も心も冷え切っていた。せめてどちらかは暖かくしないと人間生きていけない気がする。だからおれはもう死ぬべきなんだと悲観的なことを思った。
寝起きで体温も低く、腹も空いていた。しかし何かを飲んだり食べたりしようとは思えなかった。とにかく家に帰って泣いて寝たかった。
「帰りたい」
そう呟く。しかしそれができないから困っているのだと思い出し悲しくなった。
足先をぐりぐり床に押し付けて暖を取ろうとしていたが成果は少しも上がっておらず、心にいたっては押し付ける先すらなかった。
あまりにも寒いからやっぱりココアくらい飲むかと思って、立ち上がり自販機に百円を入れた。十円玉二枚とココアのカップを受け取って席に戻る。
指先が温められ、携帯をつつくだけの器用さはもどった。カップに口をつけ甘いココアをすするとほんの数時間前食べたぜんざいの味を思い出した。もう当分ぜんざいは食べたくない。
携帯電話のせせこましい画面でグーグルマップを眺め、駅を見つける。徒歩一〇分。結構遠い。しかも正直なところ地図の見方がよくわからない。
案ずるより産むが易しという至言に助けられ、ココアを一気に飲み干し席を立った。とにかく大学生たちから離れたかった。ほとんど同時に彼らも席を立った。本当に鼻につくやつらだ。もう二度と会うことはないだろう。彼女とも、とどこかで木霊が囁いたがおれはそれを無視した。
出る際にスーパーの地下にはTSUTAYAまであることに気づくが会員ではないので無視した。会員であっても行かなかっただろうが。
地図と睨めっこした結果だいたいこっちだろうと思う方向へと歩き出す。
だれかに道を訊ねるべきなのだとはわかっていたけど、だれとも口を利きたくなかった。それなら迷った方がましだと判断した。
とにかくおれはスーパーの灯りに別れを告げ、住宅街の一段落ちる灯りの元へと向かった。
住宅の温かみを感じさせるそれらの灯りはおれをいっそう孤独にさせる。まあ実際には家庭内暴力や不和、しみったれた生活の灯りもかなりの数混じっているし、多分羨むようなものでもないのだが、不安な想像力はそれらすべてにドラマのような幸せを見出そうとする。
幸せの虚像の間を縫って歩いてしばらく経ち、改めてグーグルマップを確認すると目的地まで徒歩一五分になっていた。何がいけなかったのだろう。
引き返すのも癪なので、そちらだろうと思しき方角へと舵を切りなおした。さっきまでもそうしていたつもりだったのだが、今度は本気だ。もう結構歩いているけど体はほとんど温まらない。
黙々と歩いているとなんでおれは置いて行かれたんだろう。何をしてしまったのだろうという疑念がおれを苛んだ。捨てられた子供の気持ちがすこしだけわかった気がした。
途中運転を変わったとき下手くそだったからか? だけど免許取って半年なのだからそれをだれが責められるだろう。道路脇に雪が残っているような道だぞ? 一車線しかなく多少煽られたって四〇キロ以上出す勇気はおれにはないんだ。
あるいは途中路肩に停車して立ちションしたからか? こちらの方が有力だが、生理現象だしほかにどうすればよかったんだ。
ああすればよかった。あるいはしなければよかった、という考えが浮かんでは沈み、沈んでは浮かんだ。
最終的に、生まれなければよかったというところまで遡り、思考は終わった。
とにかく帰ろう。考えるのは帰ってからでいい。
四つ角を折れると、数メートル先で何かが動くのが見えた。
おれはとっさに身構える。
しかしよく見ればそれはやせ細った中型犬で、情けない顔でとぼとぼ路地を歩いていた。
おれはその姿に自分を見出した。なんてかわいそうなんだろう。
何かあげるものはないか、と鞄の中を探ると小腹が空いたとき用に入れておいたカロリーメイトが出てきた。多少窮屈だったせいか、かなり食べやすい形には変わっていたが味は同じなので、包装を切ってかけらを投げた。
犬は驚いて、アスファルトの上のカロリーメイトには目もくれず、おれを睨んだ。そしてほえて唸った。
「ったく、ばかめ!」
おれはすっかり傷ついて、捨て台詞を吐いてから踵を返した。噛まれるのが怖かったのだ。
安い同情はもうやめだ。ほとんど泣きながらカロリーメイトの粉末を口に入れて歩いた。やっぱりフルーツ味が一番おいしい。
結局のところ彼女は病気だったのだ。考えるのをやめたと言いつつ、再び考え始めてしまう。
だって出会ったのは精神科の待合室なのだから。
もちろんおれだって悪かった。きっと幻滅させたのだろう。しかし今こんな目にあうほどだろうか? これは彼女の精神的問題でもあるように思えた。
統合失調症だと前に彼女は言った。入院歴もあったらしい。二回。だけど普段は朗らかだし何より美人だったのだ。
――病院の待合室。その日はあまり混んでいなかったから、順番はすぐに来るだろうと涼しい顔で本を読んでいた。しかし前の患者が初診なのだろう。中々順番が回ってこない。まあいい、暇つぶしのために読む本が一番頭に入る。
そんな風にしておれが賢くなろうと頑張っているところに、すらりとした美人が向かってきた。正確にはおれの座っている長椅子にだが。
自意識過剰なおれはもしかすると彼女はおれに気があるのかもしれないと思った。初対面だしそんなことがあり得るとはわかっていたが、本質的にはわかってはいなかった。
本の内容など頭に入らない。美人の横顔を眺めるのに夢中だったからだ。
黒髪のセミロングに真っ黒な目。目じりの下がった温和そうな表情。肉のなさすぎる輪郭線も好きだ。
「――こんにちは、初めての方ですか?」
自分でもびっくりするほどの気安さで声をかけていた。
「え?」
当惑げに彼女は声を出す。その気持ちわかる。おれ自身驚いていた。
「いやはじめて見る人だったので気になって」
と適当なことを言う。この調子だとおれは病院中の人と友達になってしまうだろう。
隣に座る患者からのわけのわからない質問に恐怖の表情を浮かべるかと思いきや、なんと彼女は微笑んだ。
「ああ、ううん、曜日替えて貰ったから火曜日がはじめてなだけですよ」
「そうなんですね。実はおれはまだ病院来たばっかりで」
うそだった。もう二年は通うベテランだし、さっき口走ったこととこの設定に早速矛盾が生じかけていたが、会話を繋ぎたかったのだ。
「それじゃ不安ですね」
幸い彼女はそこには気づかず、それどころか共感的に彼女は言った。
対しておれは頷く。
「ええ、少しだけ」
しかし破顔一笑して
「でもやさしそうな人と話せて安心しました。えーっと、なにさん?」
「それならよかった。伊藤です」
「伊藤さんか。おれは松田です。よろしく」
「こちらこそ、松田さん」
話してみると彼女はおれより二つ上で、こちらが童顔だからか、早い段階で警戒を解いてくれた。また待合室で他の患者に声を掛けられるのははじめてではないらしい。たしかに彼女は話しかけやすそうな見た目をしている。男に声を掛けられたのはおれが初だそうだが。
おれもまさか病院の待合室ではじめてのナンパをこなしてしまうとは思わなかった。自分の謎の行動力と巡り合わせに感謝した。
次にいつ来るのかを訊ねて、うきうきで診察を受け、それから帰った。
次に会ったとき連絡先を交換し、その次の週におれたちははじめて病院の外で会った。とても楽しかった。
三度目のデートで手を繋ぎキスをした。それから彼女は自分の弱みをさらけ出し車の中で泣きだした。おれは慰めるように彼女を抱きしめた。抱きしめるためには最高のシチュエーションだなというような邪さも抱きながら。
その報いなのか、四度目。つまり今回。
午後三時過ぎに近所のコンビニで待ち合わせて、彼女の車で県北に向かった。
途中の山道と夜勤の反動で気分を悪くしたおれのために薬局に寄ってもらう。酔い止めを飲んで再び発進。
雪合戦ができそうほど傍らに積雪の残る国道を北上すると、入場料がやたら高い県立公園に着いた。
県内ではここのイルミネーションは有名で、デートスポットとしても知られている。
寒いから巨大な焚火のそばで手を繋いでライトアップを待つ。
ライトアップ。幻想的な光景。でもそんなことはおれにとってはどうでもよく、彼女とベタベタすることしか頭になかった。
イチャつきながら歩き回る。寒いので雰囲気のあるお店でぜんざいを食べる。
一通りみたし寒いので帰ることにした。ここからが本番だ。
しかし気が付くとおれはスーパーマーケットの駐車場で半べそをかいていた。
まさかこんなことになってしまうとは人生わからない。
携帯を取り出して、彼女へメールを送る。
「大丈夫? ごめん。おれは気にしてないからね」
実際にはめちゃくちゃ気にしていたが、えてしてメールとはそういったもので、二人で同じ嘘を信じ込もうとする過程の別名をメールというのだ。
その際電池残量が三〇パーセントを切ったのを見て危機感が増した。
もうどこかホテルに泊まるべきかとも考えたけど、一人のホテルなんてまっぴらだった。もっとも二人だったとして手を出す度胸なんておれにはないがしかし一人ではないのだからそれでいい。温かみがある。しかし今はどこをどこを見てもおれ一人きりなのだ。
グーグルマップを確認した。目的地まで四分。かすかな達成感を覚えたが現状を考えると喜べるほどの成果とはいえない。
「うっ!」
俯きがちに三歩おきに溜息をついて歩いていると何故だか突然頭が痛くなった。
激痛に頭を抱える。前が見えない。やばい。
なんだおれは死ぬのか。
死を覚悟するような痛みだったが、すぐに治まった。
その代わりに気づくとおれは妙な場所にいた。とにかく光がきらめいていた。四方八方神々しい白い光がおれを包んでいるのだ。
そのとき前方とおれが解釈している方角から、巨大な黒い柱が一直線に飛んできた。
車道のど真ん中で立ち止まって一生懸命車が迫るのを見つめる野良ネコはちょうどこんな気持ちなのだろう。
しかしおれはネコよりは凝視に夢中にならなかった。両足が勝手におれをその場から押しのけた。おかげでこうしてまだ生きているのだ。
今の状況はもう理解の範疇を大幅にはみ出ていたけど、とにかく逃げるしかないなと走り出していた。やっぱり死に方は選びたいし。
逃げると言ってもどこへ逃げるのかはわからない。光に囲まれているから。おれは一体いまどこにいるんだ。思えばさっきからずっとその答えを探しさまよっていたのだが。
黒い柱はいつの間にか十本くらい増えてもう逃げようがない角度でおれを追い詰めてくる。
その内のどれかがおれの頭を打ち砕くところで意識が途切れた。
気持ちが楽になるのを感じた。
――気が付くと電車の中で揺れていた。帰宅時間帯を過ぎているためか車内はまばらでのびのびと二人掛けの座席に陣取っていた。車窓から、闇の中を通り過ぎて行くいくつかの光が見えた。マクドナルドの看板もその一つで、お腹が空いたなと思った。
ところでおれは一体いつの間にどうやって電車に乗ったのだろうか。夢遊病的にやったとしたらおれは自分が認識していたよりかはずいぶん優秀だということになるが、同時に危険であるのかもしれない。よくホームから落ちなかったものだ。
そもそもこれはおれが乗るべき電車なのだろうか。しかしその不安も次の停車駅のアナウンスで杞憂だとわかった。帰れる! そうわかるととても嬉しくなった。感覚が麻痺しているなと自覚していたが、手術に麻酔は付き物なのでまあいいだろう。
なじみ深い地元の駅に到着し、こんな時間になってもまだ人の絶えない駅の構内で牛丼を食べてからおれは自宅へとバスで帰った。
いざ泣くぞと試みたものの涙は出てこず、そうこうしている内に携帯のアラームが鳴っていた。朝が来たのだ。かなりよく寝たがまだまだ疲れは抜けきっていない。しかしこんな日はとりあえず家から出ることだ。だって家にいるとロクなことを考えないに決まっているから。
仕事が始まるとおれはパソコンに向かっていつものように仕事以外のことを考え出した。おれはなんで振られたのか。帰り道での体験はなんだったのか。終業まで考えつくしたが答えは見つからなかった。
幻滅させたから振られたのだ。軽自動車を運転しながらおれはかなり投げやりにそう結論づける。もう一つ、帰り道での体験は……。
数分後、駐車場に車を停めて、家まで歩いていると途中で犬に吼えられた。別に驚くことじゃない。二軒隣のこの家の犬は毎日おれに吼えるのだ。きっとそれがこの犬の健康にはいいのだろう。
そんな小さな善行のおかげなのか、犬に吼えられたことで記憶のノードが活性化をして、昨日吼えられた哀れな捨て犬にまで連想が及んだ。あいつも捨て犬おれも捨て犬。仲間だと思ったのにあいつはそうは思わなかった。
……そうか、共感だ。あれはきっと異星人かなんかがおれに共感してくれたのだ。多分そいつも太陽系までデートをしたところで女に降ろされるかどうかしたのだろう。しかしその共感からのやさしさはおれには理解できる形じゃなかったのだ。おれはその考えにすっかり納得し、うちの鍵を開けた。
ちょっとまいってるのかも。今度病院で、今回のトラウマのせいで病気が悪化してないか訊いてみよう――。
**
それから病院で彼女に再会することはなかった。
そもそも彼女なんてほんとにいたのか、もしかすると妖精かなんかだったのか少し真剣に考えたが、携帯に連絡先は残ってるし、妖精はauと契約しないだろうから、現実に起こったことだとみて間違いなさそうだ。
単に彼女はまた曜日を変えただけなのだろう。
**
一年くらいして彼女から連絡があった。
「元気してる?」
まさかの連絡に驚き、また多少不快にも思ったけれどおれは買い換えたスマートフォンで軽快に文字を打つ。
「元気してるよ、なっちゃんは?」
おれは彼女をなっちゃんと呼んでいたのだ。
「よかったー。松田くんのこと気になってたんだ」
まるで一年という歳月もあの事件もなかったかのような親しいメールのやり取りが続く。しかしさすがにもう、なっちゃんと付き合うだけの気概はない。
お互いに一年前の事件については頑なに触れなかったから、結局なんで振られたのかはわからずじまいだ。でもまあ、人生はそんなもんだろう。わからなくていいことも多い。
**
――地球くんだりに捨てられたペットの〇×▽は、ある日、低い次元のかわいそうな動物を見つけたので舐めてやった。
それから飼い主のことを思って吼えた。