浮かずの池
結局、朝も何から何までカルがやってくれた。
いつの間にか兎を仕留めて焼いていたし、目的地への偵察も済ませたという。そしてその肝心の兎はカルが食べないので、ボクは気まずい気持ちで急いで食事を終えて出発することになった。
「目的地ってどんなとこなの?」
「たいしたことない池さ──ほれ、見えてきた」
鬱蒼とした木々の間を抜けると、少し開けた場所に出た。
そこにあったのは、太陽の光を受けて光る池。馬が十頭は横に並べそうな広さの──いや、広さなんかどうでもいい。
「うわぁ──すごく澄んでる」
ものすごい透明感だった。池の底まで見通せるし、空気との境目もわからないほどだ。
ほんとうに──どこまでもどこまでも透明で、まるで吸い込まれる──
「溺れるぞ」
「うわっ」
ぐい、とカルに首根っこを引っ張られて、我に返った。いつの間に池に頭を突っ込みそうになっていたんだろう。
「べ、べつに落ちたって、泳げるから」
池に夢中になっていたことが恥ずかしくて、ボクはつい強がって言ってしまう。いや、嘘じゃないよ。足のつく──腰までしかない川での話だけど。
「この池では魚だって泳げねえよ。なんたって、浮かずの池だからな」
「浮かずの──?」
「まァ見てな」
そう言って、カルはどこからか鳥の羽毛を取り出して、そっと池の水面に浮かべ──浮かばなかった。
「えっ……え、えっ?」
カルの指を離れたとたん、まっすぐに羽毛は池の底へ落ちていった。揺らぎもせず、すぐに見えなくなる。
「極めつけはこれだ」
空気で膨らませた革袋があっさり水中に入り、開けた袋の口から空気がこぼれおちていく。気泡が、下へ。下へ──
「なっ、なに、この池……」
「いつからあるか知らねえが、相当昔に魔力の影響を受けて狂っちまった池さ。浮力のない水──ま、たいしたことはない変異だがな」
いやいや、たいしたことあるだろう。浮力がないってことは何も浮かばないってことで、底無し沼よりもたちが悪いじゃないか。
「いったい……こんな池に、何の用事なの?」
「薬の材料を取りに来たって言ったろ。ほれ、あれだ。あの底の方にある、黄色い玉」
と言われても、よく見えない。
底まで見通せる透明度でも、距離があればやっぱり見づらい。たぶん、二階建てぐらいの家がすっぽり入る深さじゃないだろうか。
眼鏡をかけなおして目をこらす──うん、それっぽいものがぼんやり見えた。
「何か──植物の、実?」
緑の葉と茎が見える。黄色い実はその横に転がっていた。
「よく分かったな。ありゃタイヨウの実だ」
「うそ、だってあんなに大きな!?」
タイヨウ。春先に花をつける小さな草だ。根気よく探せば、町の空き地に生えていることもある。群生はしておらず、ぽつんと一本見つかるぐらいだ。珍しいけど、貴重というほどでもない。
タイヨウの最大の特徴は、その黄色い実だ。春の終わりごろに膨らむその実は、中身のほとんどが空気より軽いガスになっている。風に揺られて、実は花弁を離れ、わずかな種を抱えて飛んでいくんだ。
その様子からタイヨウと名がつき、旅立ちの縁起にいいと言われているけれど──あんなに大きくなるわけがない。
「あんな大きさになる前に、とっとと風に吹かれて飛んでいくはず──あ」
「気づいたか。そう、浮かずの池だからな。タイヨウの実は飛んで行かない」
カルがイヤらしく笑う。
「実はタイヨウは水と光さえあれば、腐らずにずっと育つってことでな。十年前に種を蒔いたんだとよ」
「十年で、あの大きさ──」
ボクがようやく抱えられるぐらいだろう。巨大なタイヨウの実。
「あの実の果汁が、薬の材料だ」
「え、果汁なんてあるの!? ほとんどガスなのに?」
「あれぐらい大きくなってようやくちびっと底に溜まったのが採れるんだとよ。でもってめんどくさいことに、すぐ腐っちまうそうだから、ここで薬を作るしかねえ」
なるほど。薬師を──ボクを連れてこないといけなかったのはそういう理由があったからか。
「つーわけで、これが薬の製法な。読んどけ。すぐ採ってくっから」
「え、でも、どうやって? 底無し沼みたいなものでしょ?」
「オマエは薬のことだけ集中してりゃいい。失敗されちゃかなわねからな」
「なっ──し、失敗なんか!」
「ハッ、あんまり見栄張るとあとで恥ずかしいぞ?」
「なんのことだよ!」
言い争い──というか、ボクだけが焦って声をあげている間に。
「……っと。オイ、ちょっとマテ」
カルが眉をしかめてボクの背後を見る。
「ごまかされないぞ! いいかい、ボクは見栄なんて張ってないんだから!」
「わーった。わーったから、ちっと後ろ見ろ」
「後ろがなんだっていう──」
振り返って何もないことを確認しようとして──ボクは固まった。
池の向こう側に、何かある。
まるでカップから出したゼリー寄せのようだと、現実味のない考えが浮かんだ。大人二人ぶんぐらいの高さの、小山のような黒いゼリー。
でもゼリーは動かないし、赤い目もついていないし、牛がまるごと飲み込めそうな口もついていない。
なにより、敵意なんて向けてこない。
「ま──魔物!?」
そいつは、がばっと口を開くと、オオオオォォ──と空気を震わせた。
2021/12/29改稿