海波 光
海波 光という男がいた。アポロ11号が月面着陸を成功させたその日、日本に生まれた赤ん坊は家族の愛情を大いに受け取って成長した。腕白なガキ大将みたいな地位を確立した子供時代をこれと言って問題を起こすこと無く、病気にかかることなく平和に送り、最終的には三流大学に進んだ。その後、東京の不動産コンサルタント会社に入社できた。若いころは幾度かの苦境に喘いだが、持ち前のプラス思考を前面に押し出すことでどうにか乗り越えてきた。仕事にも慣れ、世の中の渡り方を覚え、大して変わり映えのしない日々をルーティンワークのようにこなしていた。
47歳になった時だった。光にとって刺激の無くなった人生に転機が訪れた。
それはとある仕事の都合により6年間の期限付きでスウェーデンに赴任したことから始まった。
移民庁から渡航前に居住と労働の許可を得ていた光は住民登録などのいくつかの手続きを終えてはいたが、入国後は居住先での生活基盤の確立に手を焼いていた。そう、借り入れた住居は人が生活していた痕跡をそのままに残していたのだ。冷蔵庫、テレビ、書棚、デスク、散乱する書類や衣服の数々。それも単に生活の跡と言うよりは強盗にでも入られたかのような光景だった。
「オーナー、こいつはひどいんじゃないか?」
「すまんな。あんたが来る直前に借主が病死してな。親族は居ないし、俺も片づけきれなかったんだよ。まぁ、特に大きな金目のものは無いし、備え付けの物だと思って自由に使ってくれ。もちろん捨てても構わないぞ。」
「はぁ...」
この家の持ち主は病気で亡くなったばかりで親族がおらず遺品の整理ができていないというのが問いかけに対するオーナーの答えだった。そして、すべて処分して構わないがその費用も含めての貸し出しだと豪語した。その許しがたい対応に怒りを覚えたが、すでに居住許可を受けた後だけに渋々片づけたのだった。
(こいつはいよいよ押し付けられたな。この物件はハズレだな。それにしても金目のものは無かっただと? この散らかり様はオーナーがやったんじゃねぇか?)
衣類はブランド物で決して悪いものでは無かった。食器も安物では無かった。だが、至る所、至る物に明らかに抜き取られた形跡があり、何者かによる物色の疑いを匂わせていた。オーナーがそれとなく怪しく感じたが光はこの国の警察では無い。それ以上首を突っ込むのを止めることにした。いずれにしても赤の他人、それも死者の物を使う気にもなれず、光は処分することに決めた。書類を束ね、衣服をポリ袋に詰め込む。ふとシックな黒いデスクに目をやると鍵穴が真新しく傷つけられた引出しを見つけた。光は引き寄せられるようにその引出しの把手に手を伸ばす。
ひどく傷ついた鍵穴から予想された結果とは裏腹に引出しはいとも容易く開いた。そして、光は【渡界石】に出会った。手に取った瞬間に光に包まれた。
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薄汚く風通りのよい小屋で藁束の上に突っ立つライトは一枚の紙と【渡界石】を手にしていた。手紙にはオーナーに金貨が見つかり自らの身が危ういこと、次に地球側に戻った時には殺されているであろうこと、この異世界の崩壊の危機とそれを止める術が記されていた。死んだはずの前所有者からの勝手な依頼を受けた光は身一つで未知の異世界に放り込まれた。
渡界石の機能のおかげでエキルシェールの言語と知識を習得した光であったが、戸惑いと怒りから最初の三日間はその小屋に篭もることとなった。三日目にして壁板の隙間越しに周囲を観察する余裕ができた。戸の前には小皿に乗せられた堅そうなパンが5食分供えられていた。後に村人から教えられたことは前任者がそのように頼んでいたそうだ。
その村は砂漠のオアシス集落で【カラト】と呼ばれていた。住まう種族は恐竜を人化させたような生物だった。初めのうちはその不気味さに不安を覚えて人目を避けるように一部の店のみを出入りするのみだったが、親しくしてくる街の住民たちに励まされる形でこの異世界に馴染んでいった。30日が過ぎた一度目の帰還。来た時こそ二度とこの世界に足を踏み入れるつもりは無かったが、【時空の精霊】や【根源の精霊】といった精霊たちの加護を受けた俺は、地球上では成しえない強力な力技や魔法というものに酔いしれていった。地球上での日常の退屈さからの解放感も手伝って光は決断する、エキルシェールに戻ることを。
二週目。ついに街を出て世界を旅するに至った光は、この世界が陥っている危機を言葉としてではなく現実に目の当りにして認識することとなった。それは世界の果てと呼ばれる極寒の地でありながら大地が噴火を繰り広げる北の大陸に到達した時だった。強大かつ巨大な何かがこの星の中心から生まれようとしているようだった。精霊の加護はこれまで光にできないことは無いと思わせるに十分な力を与えてくれた。しかし、ここから生まれようとする存在は感じるからに今の彼の力ではどうにもできそうになかった。
そう、前所有者もこの存在に脅威を覚えていた。
こいつを抑え込むための力と抑え込んだ後の強力な封印が必要だった。
まもなく、光は各国にエキルシェールに訪れている危機を説いて回ったが、彼らは関心を持ってくれなった。だが、この危機に気づいていた幾人かの冒険者や識者が彼の下に集まった。そのころ、北の大陸では魔王が誕生していたが、彼はその地に佇んだまま一切の行動を起こすことは無かった。それと同じくして光は唯一、国家として彼の考えを理解して協力してくれたクラレスレシアを拠点として力の成長のための修行や封印のための仕組み作り、各国への働きかけなどに力を注いだ。結果、8年を要することになる。そして、光たちは封印の仕組みに関する答えを導きかけていたころ、ついにその存在が世界に向けて鎌首を持ちあげた。
各国は焦った。互いが互いの領土を食い合う争いに心血を注いでいたところに強大な存在、後に名を魔王と記される存在が世界の崩壊という横槍を投げ込んできたのだ。北の大陸からは次々と魔物が蜘蛛の子を散らすように湧き上がった。その侵攻は信じられないような速度で進み、戦火は世界中に広がった。各国は現れた強大な敵に対してすべての力をぶつけるべく協定を結び始める。剣を交えていたはずの隣国同士ですら手を取り合った。しかし、どうにか魔王の率いる軍勢に対抗出来たものの、現れた魔王そのものの前には無力であった。
そのころ、光は特に気を許した8名とともにパーティ【渡り鳥の拠り所】として活動していた。そう、魔王を滅ぼし、星の中心から昇ってくる元凶を封印するために動いていたのだ。
魔王との対峙の時。北の大陸に溢れる魔物は支援者と各国の代表者たちが切り払ってくれた。
いくつかの苦難の末に魔王と直接対峙し、仲間一人を失うという犠牲を払いながらもどうにか滅ぼした。悲しみの波が押し寄せる中、未完成ではあるものの世界崩壊の元凶たる存在に封印の処置を施してとりあえずの危機を脱したのだった。
「のう、ライト。この封印はどれほど持つもんなんだ?」
魔王が座していた噴火口に造られた黒い溶岩の椅子に腰かけたドワーフが火口に打ち付けられた30にも及ぶ聖銀製の杭を指さす。
「おそらくだが、あと2000年は大丈夫だろう。何も無いことが大前提だがな。それにしても悔しい結果だ。」
全身の鎧をボロボロにし、剣を地面に突き刺して杖のように体を預ける光は悔しさに柄を握る手に力が入り震える。
「レンドルか。惜しい男だったな。だが、ライトのせいじゃねぇよ。おめーはおめーで魔人たちと戦ってたんだ。それに、あいつはあいつで満足して逝っただろうよ。なんせ、魔王と刺し違える形で世界を救ったんだからな。」
ドワーフの男は椅子を立つと自身の体よりも大きな槌でその椅子を横なぐりに砕く。
「「ええ。」」
「そのとおりだよ。」
「...。」
仲間たちも口々に肯定する。
「だが、先にこの封印を施していれば、魔王が力を再生できずに倒せていたかもしれない。」
「ふん、それは結果論だ。ここを封印しようとすれば魔人が阻止しにくる。封印を守りながら戦うなんて不可能だった。」
果たしてそんなことができたのか、光から見ても時間的にも状況的にも難しかったことは事実だ。それでも、と思ってしまうのは人の死に慣れていない日本人ならではなのかもしれない。
「そうですよ。レンドルは世界を救った勇者として称えてあげないと。そのほうが彼も喜ぶと思いますよ。」
金髪碧眼の若かりしエレールが背を丸めた光に覆いかぶさるように抱きしめる。
「そうだな...。」
その後、世界は彼らを英雄として迎え入れた。だが、レンドルよりライトを勇者として祝福する風潮が心苦しくて、光はクラレスレシアに引き籠ってしまう。次の帰還まで20日。光には日本に残した妻がいたのだが、異世界では彼女に傍でその心を癒してくれることを期待することは難しい。まして、戻ったところで単身赴任では彼女は待っていてくれるわけでは無い。絶望していたライトを励まし続けてくれた仲間たちにいつしか友情以上の感情を抱き、勢いのままに結婚することとなる。
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こうして俺は異世界での冒険譚に一応のピリオドを打ち、封印の強化を模索しつつ、新たな妻たちと楽しい異世界隠居暮らしに突入した。だが、俺はその時には気づいていなかったのだ。エキルシェールにいる間は年を取ることを忘れたかのように不老の身となっていることに。第二の結婚から3年を過ぎた頃だろうか。妻の一人から嫉妬気味にそのことを指摘された時にはずいぶんと嫌な汗を流したものだ。やがてそれは現実として俺に襲い掛かってくる。彼女たちの方が先に老いて世を去っていく。幸いだったのは老いた彼女たちを変わらず愛おしいと思えたことだろう。彼女たちと過ごした時間は楽しかった。
そして、438年が経った。愛の深さに順序を付けるつもりは無いがその一つの指標でもある過ごした時間という点では群を抜いて長いエレールももう永くないだろう。もはやこの世界との唯一のつながりともいえる彼女がいなくなったとしたら未練なくこの世界を後にすることもできるだろう。人の最後を見守ることにも疲れてきた。地球側でも日本に戻ることが決まり、慌ただしくなってきたことを理由に誰かに引き継ぐことを検討し始めていた矢先だった。
俺はバスで普段通り勤め先を目指していた。突然の衝撃と回転する車体。バスが崖から50mほど転落したことや乗客は自分以外生きていないことを後日、病院のベットの上で知ることになる。脳の損傷による言語障害と半身麻痺という状態も合わせて。
(エレールに贈るはずだったブローチは無事だったか。良かった。っ、あいつの形見が...。そうか。お前に護られたのか。)
レンドルと最後の会話で渡された身代わりのネックレス。銀の十字架は大きくひび割れていた。
【渡界石】をみるとすでに満タンになるはずの3時間以上が経過しているにも関わらず黒味が帯びて美しい輝きを取り戻すことは無かった。おそらく世界を渡る力をチャージする能力が失われたのだろう。その貯められた力を使い、エキルシェールに飛ぶと満身創痍の体を精霊王の加護の力でごまかしながらエレールに事態を伝えた。彼女は泣いていた。俺たちはどうにか残るための手段を探していた。結果は言うまでもないことだ。この結末は十分に予想できたはずなのに涙が止まらなかった。
地球に戻った俺は輝きを失った【渡界石】をとある青年に託すべく最後の一手を打った。車椅子にぶつかった青年の持ち物が床に落ちる。終始低頭姿勢な当夜にさも彼の落とし物を拾い上げたように【渡界石】の入った紙箱を手渡した。
(すまんな。後は任せるぞ。)