追いかけっこ
当夜は、ウォレスが逃げるように帰っていった次の日には猛烈な筋肉痛に襲われていた。さらに、その翌日には昨日の影響が残っていたせいか進みが遅れた。午後の中ほどに何とかノルマを達成することが出来はしたものの、体力も使い果たしたためにとても依頼など受ける気にもなれないでいた。結果、その両日ともライラの過剰に愛情の篭もったマッサージを断ることができずに甘んじて受け入れたのであった。3日目には、そんな苦行も午前中に終えることができるようになり、当夜自身、急激な体力向上に異世界補正でもあるのかと驚くことになる。午前中に終わったとはいえ、午後についてはまともな依頼が残っていないと判断して自宅の訓練所で自主練をすることにした。当夜が訓練所でザイアスに習った剣術を思い出しながら素振りをしていると、アリスネルが退屈そうにそれでいて離れる様子もなくティーカップを片手に当夜の特訓を見ているのであった。
ここまで2人の間には会話という会話は存在していなかった。訓練場に現れたなりアリスネルは不機嫌そうに開口一番、ライラから仰せつかった見張り番としてきた旨の宣言を発布した。当夜はそんな彼女の様子を馬鹿正直に受け取り、仕事の邪魔とならないように鍛錬に集中してしまったのだった。
「ねぇ。何だか退屈そうなことやっているのね。そんなことやって意味あるの?」
アリスネルが髪飾りをしきりにいじりながら当夜に尋ねる。
「もちろん。素振りは、どんな、競技でも、ビギナーに、課せられる、練習、だよ! 基礎、訓練は、決して、裏切ら、ない!」
(それに気も紛れるし。こうでもしてないとこの歳でホームシックにかかりそうだ。)
意を決して声をかけたアリスネルであったが、当夜は彼女に関心がないかのように素振りを続けながら答えるのみだった。
ここに来る前にアリスネルは普段はあまりいじらないヘアースタイルに一工夫を与え、いつもより上質な香油を使っていた。このようなむさ苦しい空間がわずかながらに華やいでいるのは彼女のおかげである。それにもかかわらず、彼女を見向きもしない当夜の態度にアリスネルは半ば苛立ちめいたものを感じながら、どうにかしてこの少年の関心をこちらに向けられないか思案していた。
(人が話しかけているのにその態度は何よ! そもそもこんなに雰囲気も変えているのにまったく気づかないとかおかしいでしょ!
ライラさんとはあんなに仲良くしているのに、私にはずいぶん素っ気ないし。う~。ちょっとくらい私に関心向けてくれてもいいじゃない。ただ見張っているだけなんてすっごくつまらないんだからっ
あっ! そうだ。悪戯しちゃおう。う~ん。低級水属性の魔法なら大きな怪我もしないだろうし。うん、大丈夫、大丈夫。やっちゃえ。)
「えいっ!」
アリスネルが発動したのは【水塊】。この魔法は生活魔法に近いもので、バケツ1杯ほどの水の塊を発生させるものである。彼女たち【世界樹の目】は、その存在自体が精霊に近いこともあり、低級精霊の魔法程度であれば精霊の力に頼らず発動できる。それすなわち、無詠唱での魔法の発動である。
当夜は、突如として頭上に発生する水の塊にまるで対応できず、全身びしょ濡れになってしまった。
「きゃははっ」
アリスネルが前髪から滴る水を拭う当夜を見て指を指して笑う。
「ほっほう。アリス君。君は僕に何か恨みでもあるのかな?
覚悟はできているんだろうな。お前もびしょびしょにしてやる!
あ、待て! 逃げるな!」
当夜がテーブルに突撃する。そんな行動などとうに見通していたかのようにアリスネルが軽やかに飛びのく。
「ふっふ~ん。そんな攻撃も避けられないんじゃ、刀を振るう前に死んでるわよ。ほら、ほら!」
テーブルを挟んでアリスネルが同じ魔法を繰り出す。避け切れない見事な位置に魔法を展開された当夜は成す術なく水塊に押しやられる。
「ぬわっ! ぶふぅ~。ギャッ!」
第二、第三波を受けた上に、そのまま走ろうとして濡れた足元に獲られて盛大に前に突っ伏せる当夜は、そのまま微動だにしない。
「えっ? ちょ、ちょっと、トーヤ? だ、大丈夫?」
慌てて当夜に駆け寄るアリスネルであったが、当夜の顔を覗き込んだ瞬間に何者かに足を掴まれる。
「えぇっ!?」
アリスネルの目が彼女の足元に向けられる。そこには当夜の右手が確かにあった。視線がすぐさま当夜の頭部に戻される。そこには不敵な笑みを浮かべる当夜がいた。
「引っかかったな。秘技、【死んだふり】だ。さぁ~て。わかっているんだろうな、ア、リ、ス~」
「い、嫌ーっ。離して、この変質者!」
驚きから一転、アリスネルの表情に恐怖がありありと浮かぶ。その感情が声に、そして涙に変わる。
「え?」
(やばっ。やりすぎたか? へっ!?)
当夜の顔面に炎が炸裂する。次いで水塊に抑え付けられ、地面が激しく当夜を打ち上げる。そして、とどめの風のハンマーである。当夜は壁に盛大に叩きつけられて今度こそ意識を失った。どうやら彼女の抑えきれない感情は自己防衛の魔法となって当夜に襲い掛かったようだ。
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「あっ! ト、トーヤ、大丈夫!?
ね、ねぇ、また【死んだふり】なん、でしょ?」
恐る恐る近づいて足を突いてみたが、反応がまったくない。当夜は突っ伏しているためにその表情もうかがえない。咄嗟に使ってしまったが、いずれの魔法も低級であるので致命傷にはとても及ぶはずはないのだが、アリスネルは軽い悪戯から始まったお遊びのはずが過剰防衛による傷害事件へと発展したことで混乱の極致に陥っていた。
「...」
「―――ねぇ、トーヤ? もう悪い冗談はやめてってば。」
当夜の手の届かないところから不安げに見守っていたアリスネルの不安の種の種類が自身に向けたものから当夜に向けられるものへと変わっていく。
「...」
アリスネルは恐る恐る当夜の体を反転させる。そこには煤けた顔に白目をむいて意識を飛ばした当夜の姿があった。
「キャー! ラ、ライラさん、ライラさんっ! 助けてください!」
自身が治癒の魔法をかければ済むにもかかわらずアリスネルはライラのもとに駆け込む。
「な、何があったの?」
ライラからすれば先ほどまで仲良く遊んでいる声が聞こえていたのに、アリスネルの突然の救難要請である。訓練場には白目をむいてぐったりとうなだれる当夜の姿があった。慌てて当夜に駆け寄り、呼吸と外傷を確認する。呼吸は浅いが整っている。眉毛と前髪の一部が僅かに焦げていることと全身ずぶ濡れであることを除いて目立った外傷は無いようである。アリスネルから事情を確認したいところだが、当夜をこのままにしておくわけにもいかない。2人がかりで当夜をベッドに運び、ライラはアリスネルに厚布とお湯を用意させて彼の鎧や服を脱がせていく。
(ふう。あの娘の話の通り大きな怪我は無いみたいね。)
アリスネルは、駆け込んでくるなり当夜の裸を目撃してしまい、顔を真っ赤にしながらドアの陰に隠れてしまった。ライラは心配そうに扉の陰からこちらを覗き込むアリスネルに苦笑しながら、布とお湯を受け取りに出向く。ライラはアリスネルに当夜の私服を取りに戻らせるとトーヤの体を拭いていく。
(まったく。この様子じゃアリスとトーヤ君をくっつけるのも楽じゃないわね。強力なライバルもいるみたいだしね。大変よ、アリス。)
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どれくらい気を失っていただろうか。気がつけば当夜は1階のベッドの上で寝ていた。ふと、お腹に重みを感じて頭を持ちあげると、アリスネルが倒れこむように眠っていた。顔には涙の流れた跡が残っている。
「ごめんね。怖がらせちゃった上に心配かけちゃったか。」
(でも、今回の件は良い経験になった。魔法ってのは術者の周りに発現するばかりじゃないことがわかったし、無詠唱でも発動できるんだ。
それに気絶するような攻撃でも命に支障を来すような攻撃でなければ【遅延する世界】は発動しないってことをあらためて思い知らされた。強者に軽くあしらわれて気絶でもしたら【遅延する世界】が発動していても意味が無い。やっぱり僕自身が強くならないと駄目だな。明日もアリスに手伝ってもらおう。
ん? 甘いような良い香りがする。)
当夜がアリスネルの頭を撫でる。温められたことで香油が飛び始める。今にしてようやく当夜はアリスネルから香る仄かに甘い香りに気づく。とは言え、日本でありふれた人工の香りのいずれにも敵わないほどに淡い。
「ん? トーヤ? 意識が戻ったんだね。良かった。本当に良かったよぉ。」
「ごめんね。怖がらせちゃった上に心配かけちゃったね。」
当夜は眠っていたアリスネルにかけた言葉を再び口にした。アリスネルはその言葉にただ泣きながらうなずいていた。
「ねぇ、アリス。明日も僕に魔法を撃ってほしいんだ。」
「え? 私、そんな趣味、無いよ?」
当夜の突然のお願いはゆがんだ形でアリスネルに伝わる。呆けた後にドン引きである。
「ん? いやいや、そうじゃなくって、魔法回避の訓練をしたいんだ。君が言っていたようにあれが実戦だったら死んでいた。そうならないためにもアリスの力が必要なんだ。協力してくれないかな?」
「も、もう、ややこしい言い回ししないでよ。しょうがないわね。また明日もびしょびしょにしてやるんだから。
覚悟しててよね。」
顔を赤面させて怒りながらも、出口から出ていく際に振り返った彼女は屈託のない笑顔でウインクしながら会話を締めくくった。
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そして、当夜はウォレスに課せられた4日目を午前の筋トレと素振り、午後のアリスネルとの魔法対策に費やして過ごすこととなる。アリスネルは、【世界樹の目】として持つ豊富な知識を当夜に授けながら、彼に頼られている事実に心踊らせるのであった。
かくして、5日目、警邏待機所に当夜と顔色の優れないウォレスの姿があった。
「ウォレスさん、おはようございます。いや~、すごく充実した訓練でしたよ。ってどうしたんですか、体調が良くないみたいですが?」
「あ、ああ。トーヤか。おはよう。実は実家から縁談の声がかかったんだ。」
「良かったじゃないですか。どんな方なんですか?」
「まぁ、見た目は良いんだが。最近、女性が怖くてな。通りすがる度に、‘独身’、‘未婚’という言葉が聞こえてくるんだ。この人にもそんなことを言われたら、もう一生独身だぞ。会いたいけど会いたくない。はぁ...」
(おいおい、どんだけライラさんの恐怖を引きずってんだ。はぁ、しょうがないなぁ。)
「ウォレスさんともあろう男がどうした。この紹介状の絵をみるにすごく優しそうな人じゃないか。ライラさんは一見怖いけど旦那さんにはベタ惚れのゲキ甘だぜ。
ウォレスさんは良い人なんだから自信を持ちなって。ここを逃したらそれこそ一生独身だ。うじうじしてないでばっちり決めて来い!」
先輩相手であるが当夜は勢いをつけるためにも敢えて生意気な言葉遣いを選ぶ。
「そうか、そうだよな。よし、ちょっと顔を出してくるか。ありがとな、トーヤ。
ああ、そうだ。その道具はやるよ。トーヤも後輩を持った時にそれで鍛えてやれ。それと鍛錬は日々の積み重ねが重要だ。忘れるなよ。だがしかし、そんなことばかりやっていると俺みたいに女日照りになるからな、気を付けろよ。」
どうやら持ち直したらしいウォレスは意気揚々と警邏に向かっていく。
この後、ウォレスは上司に頼んで休暇を取り、実家でお見合いを果たす。その結果はトーヤの耳に直接届くことは無かったが、彼の管轄する通りの住人からは残念がる声が多く挙がったのだった。




