花嫁修業の幕開け
当夜は、簡単に考えていた。それも当然だろう。なにせ、肉を一口大に切るだけの作業なのだから、小さな子供でもできるのではなかろうか。もちろん、アリスネルに任せるのは素材取引所で部位ごとに切り分けてもらった【鎧猪】の肉の部分である。残った骨と身が分けられていない【隠れ兎】や【鎧猪】のガラ、内臓は当夜が担当することになった。
「じゃあ、僕は泉部屋で作業してくるからアリスネルさんは肉を一口大に切っておいて。」
内臓は綺麗に洗わなければとてもではないが食材には向かない。その役をこの少女然とした管理人見習いに任せるわけにはいかないと当夜は張り切る。自身が獲った獲物と言うのも大きく背を押しているが。さらに加えるなら自身のつくる異世界風スープにどのような反応が帰ってくるのかを楽しみにしているというのもある。
「私のことは呼び捨てでお願いします。これでは外で聞かれた時になめられてしまいますよ。」
アリスネルは炊事場で呆れたような表情を浮かべる。
「ん~、そっかな? 別に良いけど?」
「良くありませんっ
良いですか、主人がなめられると仕える私たちにも影響があるのですよ!」
当夜は実に関心の薄い反応だったが、そのことがアリスネルに火をつける。当夜のことはともかく敬意を抱かれるべき存在である【世界樹の目】の一人、アリスネルが馬鹿にされたということはひいては世界樹が馬鹿にされたのと同義である。そんなことは彼女には許せない。
「そういうもんなのかな。でも、呼び捨てはちょっとなぁ。そうだ。それなら愛称でアリスって呼んでも良い?」
アリスネルの反応に少しばかり面を喰らった当夜はまじめに思案する。その結果にアリスネルは大きく動揺して後退りする。
「なっ!?」
(あ、愛称!? この子は~~~)
この世界で愛称は家族やよほど親しい間柄のみが用いる呼び名である。出会ったばかりの知人が使うようなものではない。しかし、当夜からすると、テリスールからの安易な誘い(もちろんテリスールはそんな気軽に誘ったつもりはないのだが)の件やそもそもこの世界の住人に普段からトーヤと愛称で呼ばれ続けているという認識があるがゆえにそれほど大きな問題とはとらえていなかった。
「駄目だった?」
(ど、どうせまだまだお子様だから知らないだけでしょ。)
「まぁ、いいでしょう。さぁ、それより材料を早く出してください!」
当夜は、顔を赤らめるアリスネルに首をかしげてアイテムボックスから食材を取り出す。
このアイテムボックスであるが、複数の物が入っている場合に特定の物を取り出す第一歩として、手のひらに箱をイメージすることから始めることになる。すると黒いモヤのようなものが現れる。これを取り出したいものを置く場所に移し、取り出したいものをイメージする。そうすると、あら不思議。取り出したい物がその場に現れるのだ。これ、入れた物を忘れてしまった場合どうなるのか、当夜にも気になっていた時期があったのだが、実際に使ってみて自動的に解決した。そもそも、アイテムボックスに物を入れていると、この魔法を発動させたときに自動的に脳裏に何がどれだけ入っているかが浮かんでくるのだ。
【鎧猪】の肉塊を思い浮かべてアイテムボックスを発動させる。まな板の上には【鎧猪】の様々な部位の肉や内臓が並んでいく。
(ほんと、アイテムボックスって便利だけど不思議だよな。生肉や内臓なんて、入れた時の状態が保たれているんだよね。どこまで持ち続けるか試してみたいけど、今はそんなことしている場合じゃないな。さて、彼女に任せる分を分けますか。)
「へ~。トーヤ、さん、さまは、アイテムボックスが使えるのですね。【時空の精霊】様に加護を貰えるなんて幸運ですね。」
この言葉は取りようによっては二つの面を持つ。一つは商人や運搬人としての立場から肯定的に褒めているケース。もう一つの面は、冒険者としての立場から無能者として蔑む意味合いであるケースだ。ここではアリスネルは前者の意味で使ってはいるが、それは今の当夜の容姿をみて冒険者であるはずがないと評価してのことだ。
「幸運か。まぁ、そうだね。結構便利な魔法があるよね。
それより呼び方が堅苦しくて何だか気になるなぁ。せめて2人だけの時とかもっと砕けた感じで、そうだな、愛称でトーヤとかで十分なんだけど。どうかな?」
(はい、確定。この子はまったくわかってないだけ。でも、異性に対する練習相手にちょうどいいかも。)
「それは、う~ん、二人きりの時とかなら別に良いのかな。
じゃ、じゃあ、トーヤ。
そ、それで私は何をすればいいのかしら?」
顔を赤らめたアリスネルははぐらかすように語気を強めて問う。
「ああ、そうだった。えーと、アリス。今出したこの肉を一口大に切りそろえていってほしいんだよ。ほら、あそこの焼き台で焼いていくんだけど、あの金網にのせて焼くから適当に切ってもらいたいんだ。」
当夜の指さす暖炉を見てアリスネルは鼻を鳴らしながら頷く。
「ふ~ん。わかったわ。全部切ってしまって構わないのよね。」
(さすがに室内だと熱も煙もすごくなりそうだけど。まぁ、私が風と水の魔法でどうにかすればいいか。私の有能さに恐れ慄きなさい、トーヤ。)
「うん。今日はお客さんがたくさん来るから、ちょっと足りないくらいかな。たぶん、ライラさんが余分に食材を買ってくるから、そっちも手伝って上げて。じゃあ、僕はスープを作るからあと頼むね。」
当夜は不敵な笑みを浮かべるアリスネルに一抹の不安を覚える。
「もちろん! この私に任せなさい!」
当夜は息まく彼女に肉切り包丁を渡すと、自身は大きな寸胴鍋や解体用の器材を用意してアイテムボックスに収納する。彼女の様子も気になるが、あれだけの自信に加えてエレールの推薦する人材でもあるので信頼して泉部屋に向かうことにする。
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その頃、台所では肉切り包丁を片手に肉とにらめっこをしたまま動かないアリスネルの姿が残されていた。
「あ、あれ?」
(おかしい。おかしいわ。切れない。切り方がわからない。
わ、私は【世界樹の目】として、世界樹の記憶情報を共有しているわけだから料理だって知っているはずよね。肉を切るなんて、包丁で切ればいいだけでしょ。で、でも、一口大ってどのくらい? どの向きでどこから切ったら良いの? 料理なんていつもお付きの者がやってくれていたから、私って料理したことなかった。ど、どうしよう。)
外からは何やら固いものが砕かれる音が聞こえてくる。おそらく当夜が鎧猪の骨を砕いているのだろう。何をするのか見当がつかないがスープの材料にすると言っていた。普通、獣の骨は武器や防具、装飾品の素材として使われるのだが、彼は何を考えたのか料理に使おうとしている。
(そ、そうだ。トーヤに聞けば...
だ、駄目! あれだけ自信満々に言ったのに「お肉も切れませんでした」なんて言えないよぅ。お、お母さん、何かヒントをください。)
そこには世界樹に祈りを捧げるアリスネルの姿があった。その姿は窓から差し込む夕日を浴びて本人の幼さと種族としての美しさとの二面性によって神秘的な姿となっていた。世の人が見れば一つの奇蹟として称賛されたであろう。まぁ、祈っていた内実は肉の切り方の教授であったが。
そもそも、【世界樹の目】とて全ての知識が与えられるわけではない。生活の中で必然的に取得されるものまでは用意されていない。全能性に酔って従者便りだったアリスネルのまさに怠慢だったといえよう。
そんな娘には母である世界樹も花嫁修業の一つでもして来いと言ったかもしれない。何の解決策も与えられない。
(自分でやるしかないのね...)
肉塊に包丁の刃を立てること十数回。未だに一切れもできていなかった。これは【世界樹の目】としてのプライドと当夜に見せた自信あふれる姿を守るため失敗を恐れたためである。
(あ~、もう! ここに刃を入れ、たら駄目だよね...厚すぎるもん。)
そんな悩める少女の耳に当夜の戻ってくる足音が届く。
(ひゃあ~。も、戻ってきちゃう! ど、どうしよう。)
肉を背にしてアリスネルは何やら作業をしている体を演じる。
「あれ?まだ切ってなかったの? ん? 包丁を研いでいたんだね。確かに切れ味悪そうだもんね。どう? ちょっとは良くなった?」
どうやら当夜は近くに偶々あった砥石を見つけて勝手に解釈したようである。
「そ、そうなのよ。切れ味が良くなくて。もう少し磨いてから調理に入るね。」
慌てて砥石を手にするアリスネル。まるで濡れていないそれはまだ未使用の証だ。だが、当夜は彼女が魔法と併用することで成しているものと不思議がらない。当夜の中では魔法はかなりの万能事象として映っている。
「わかった。良ければ俺も研ごうか? 結構大変だろうから。」
「ううん。大丈夫。トーヤはスープ作りに専念して。こっちは私に任せて頂戴。」
(ひー。今ならまだ打ち明けられるよね。で、でも、これってとんでもない恥だよね。や、やっぱり言えないよ...)
依然として強気を見せるアリスネルだが心の内ではすでに泣きつきたい限りだ。そんなところで玄関が開く音共にライラの帰宅を告げる声が響く。
「そうか。じゃあ、任せるとするかな。」
「ただいまー」
「あ、ライラさんが帰ってきたみたいだね。それなら一緒にやってもらえば早いや。アリス、お願いできるかな?」
当夜が声の方向を振り返る。そして、近づく足音。この時のアリスネルには救いの音に聞こえた。
「そ、そうね。一緒にやらせてもらうね。」
(た、助かった~。ライラさん、助けてください!)
アリスネルが張っていた肩を緩める。
「ただいま。トーヤ君。やっぱり、ヘレナさんは無理みたい。夫とテリスールさんはもう少ししたら来るわよ。
あら? アリスネルちゃんだっけ? お肉ずいぶん痛めちゃったわね。そんなに刃を何度も当てたりしちゃ駄目よ。」
ライラは当夜に報告しながら目ざとく肉の状況を見抜く。それはアリスネルにとっては予想外のフレンドリーファイアだった。
「う、うぅ。ご、ごめんなさい。わ、私、料理したことがなくって。知識はあるのに。全然、手を付けれません。」
そう言うと、堰を切ったかのように泣き出すアリスネルであった。そこに居合わせた2人は慌ててフォローする。
「ご、ごめんなさい。こんなことになるなんて。良いのよ。これから料理なんて覚えていけば、ね。私もいるから。」
(うわぁ。地雷を思いっきりふんじゃったよ。折角ふたりをくっつけようとしていたのに、これじゃ嫌われちゃう。)
「そ、そうだよ。これから、これから覚えていけば良いことだよ。」
(てか、肉を切るって料理で良いのか? 良いのか。まぁいいや。なんか保護欲にかられる感じで良いんじゃないか。これはこれで。でも、ライラさんには残留していただかないときついかなぁ。きついなぁ。アリスのためにも残ってもらおう。)
「そ、そうでしょうか? ライラさん、私を見捨てないでください!」
「だ、大丈夫よ! 貴女を世界一の花嫁さんにしてあげるわ!」
花嫁修業に燃える少女とお節介に燃えるおば、お姉さまの二人は強くお互いの手を交わしたのであった。こうして、アリスネルの花嫁修業が幕を開けたのである。
2017/08/28更新




