遅延した世界
(僕は死ぬのか?
まだ生きてる?
これが死の前のスローモーションか?)
チッ、チッ、チッ...
(それにこの音。それより、せめて女の子だけでも逃がさなきゃ。)
当夜は足元の魔法陣から目を逸らして抱える少女の逃がし先を求めて周囲を見渡す。葉の緑、空の青、レンガの赤、ありとあらゆる色が失われている。風は滞り、日差しの温かみも感じられない。セピア色の静かな世界だけが広がる。
(ヘレナに預けるしか、)
だが、思考が行動に移されるよりも先に、咄嗟に逃げようと動いていた体がその動きに引きずられるように前のめりに倒れこむ。少女を庇って無様に転倒する。遅延した世界であっても当夜自身の動きは日常のそれと変わりない。当夜は自身の感覚が死を目前に研ぎ澄まされたものだと考えたが、実際には彼以外のすべてが信じられないほど遅くなっていた。
世界に色が戻る。その直後、強烈な熱風が二人を襲う。当夜が後方でうつぶせに倒れる少女に覆いかぶさる。ヒリヒリと皮膚が焼ける感覚が伝わる。
(あっちぃーー、後頭部がハゲてたらマジぶっ殺してやる。)
危機的状況の中で頓珍漢なことに怒りを覚える当夜だったが、ヘレナから見れば突然に素早い動きで回避行動をとる当夜、そして、当夜が立っていたはずのところに立ち上がる蒼い火柱という構図が成り立っていた。
熱波が過ぎ去ったところで少女を抱き起してすぐに立ち上がる。ヘレナが青ざめて駆け寄る。
「だ、大丈夫ですか!?」
「あ、うん。こっちの娘も大丈夫。」
(避けれた。でも、どうして?)
死と直面したことで生存本能に呼び覚まされた身体機能がリミッターを解除したのか、普段は聞き逃すような時計の秒針が刻む音すら聞きとっていた。見ると、0時0分0秒を指して止まっていたはずの時計の秒針が5秒ほど進んで止まっていた。
「よかった。よくぞご無事で。私はてっきり、」
「ああ。僕も死んだかと思ったよ。でも、世界が遅くなったみた、い、で、」
(ひょっとして危機にさらされると時間の進みが遅くなるとか、そんな奇蹟か? 【時空の精霊】の加護の力かもしれないな。って、またかよ!)
だが、自身の能力の解明をしているほど余裕はない。屈んだ体の下に再び紋ができ始めていた。今度もやはり当夜の足元が中心。ただし、今度はヘレナも巻き込む形だ。
(僕が、ターゲットになっている?)
当夜の額から汗が流れる。目の前ではヘレナが小さく口を開けて驚愕の顔で固まっている。彼女の美しい唇の紅も、美しい髪の金も画一されたかのようにセピア色の強弱によってあらわされる。周りに目を向けるとやはりセピア色の世界が広がり、すべての存在が動きを止めているかのようだ。それでも真下の魔法陣は当夜たちを焼き尽くそうとシミが広がるように動きを止めない。その殺意さえも鈍るような、当夜だけがその歪んだ世界で抵抗なく動けるという反則的な加護を受けていた。
とにかくヘレナに少女を預けて二人を強く押しのける。彼女の背後が芝生であることを考慮しても謝らなければならない強硬手段だ。当夜にはおぼろげであるがこの能力が彼に取って危機的状況下でのみ作用する類のものだろうと感づいていた。ゆえに彼女たちが危機的距離を脱するまでその場にとどまり続ける。当夜が触れている間は当夜と同期して動いていた二人だったが当夜の手が完全に離れると水あめに満たされた空間に受け止められたかのようにその動きを鈍らせる。それでもわずかに当夜から離れていく二人を見守る。これ以上はこの場を離れることは適わない。
チッ、チッ、ヂッ、ヂッ、ギッ
先ほども聞こえていたあの音が次第に耳障りな音に変わっていく。その変化は当夜に限界が迫っていることを伝える。
(これ以上は危ないか。僕も早く逃げないと。)
今度は勢いよく飛びのく。すると、先ほどと同じようにそのすぐ後に火柱が立ち上がる。だが、今度は結果に予期せぬ事態が付帯する。足に激痛が生じたのだ。
「くっ!?」
それは当然であった。傍から見ると、当夜の動きはまさに異常であった。フレアゴーレムが発動させた魔法陣は当夜の足元に完全に展開され、もう火柱が立つというタイミングであったにも関わらず、当夜はそこに居続け、火柱が立つとまるで瞬間移動でもしたかのような動きで避けていたのである。当然ながら、そんな動きを実現させれば負荷も想像を絶するものとなる。さほど地球で鍛えてきたわけでも無い当夜の肉体で何の補助なくやろうものなら、今回ように激痛程度では本来済まされるはずもなく健のひとつも切れたであろう。【時空の精霊】の力で緩衝されているおかげでまだ動けるのだ。
そして、結果としては先ほどと同じ技を避けたに過ぎないのだが、それにかけた時間は大きく異なる。腕時計に移すと秒針が逆向きに時を刻み続ける。ようやく止まった先は文字盤の6という数字と重なる。だが、時を刻んだのは秒針だけでは無かった。分針が動いていた。体感的には先ほどに比べれば確かに長かった。だが、先ほどの5秒に比べて時計の秒針が進んだ時間は85秒と明らかに過大だ。
(加速度的に時計が進んでいる?
肉体にも負荷がでかいし、粘ることに利点は無いな。紙一重の戦いは極力避けるべきだ。)
「痛ぅううぅっ」
右肩を擦りながら起き上がったヘレナの体を蒼白い炎の余波が襲う。目を隠したヘレナだったがその時は死を覚悟した。だが、熱は強まるどころか一瞬で怒りを治める。どういうことかと左腕をどけて目を開ける。ひざ下に感じる重みの正体が当夜の抱えていた少女の物だと理解した時、揺らいだ空気が蜃気楼のように死んだはずの男の姿を見せる。ヘレナの目に涙が浮かぶ。
(トーヤさんは私たちを守って...)
「大丈夫か!?」
彼女の耳までもあり得ないものを拾う。だが、力強くも緊迫感に満たされたその声が現実のものと理解させる。
「ト、トーヤさんこそっ」
ヘレナの目に当夜の姿が映る。膝を折って顔をゆがめている。明らかに負傷している。
「悪いけど僕が標的になっているみたいだ。君たちはすぐに逃げろっ」
当夜は逃げてきた道を振り返ったままヘレナに向き合うこと無く語気を荒くする。
「ですがっ」
ヘレナとてシスターである以上引き下がるわけにはいかない。
「正直、足手まといになるっ」
食い下がるヘレナに当夜は向き直ると叫ぶ。当夜がこれまで向けていた視線の先の建物から蒼白い火柱が屋上を突き破って立ち昇る。
「わ、わかりました。ですが、これだけは、
“いかなる者にも公平なる慈しみと祝福を授けし心温かき者よ、我に応えよ。傷つきし哀れなる者たちの失い流れた血肉をその肉体を構成する組織の分化を以て補い給え、そのための礎として我がマナを捧げます”【癒しの風】」
優しい暖かな風が当夜と少女の体を包み込む。
(足の痛みが消えていく? これが治癒魔法ってやつか。)
「ありがとう、ヘレナ。その子を頼む。」
「う、ううん? ここは?」
ヘレナの腕の中で少女がうめき声と共に目を開ける。果たして目を覚ますことが救いなのかどうかこの状況ではわからないというのが当夜とヘレナの共通した認識でもあるが。
「任せてください。ですが、貴方も必ず逃げてきてください。約束ですよ。」
「もちろん死ぬ気は無いよ。それより早く!」
ヘレナが何か言いたげに口を開くが当夜にせかされて息とと共に言葉を飲み込む。彼女は少女の腕を引くと前を向いて走り出す。当夜はその後ろ姿を寂しさと共に見送る。
「———こうするしかないんだ。」
先ほどまで視線を送っていた建物が吹き飛ぶ。それは火柱云々というものではない、文字通りがれきの塊を空高く舞い上げて崩れ去る。宙を舞うがれきの隙間越しに青い炎が横薙ぎに払われたのが見える。
「マジかよ。どうにかなんのか、アレ。」
思わず本音がこぼれる。当夜が見たものこそ間違いなくこの無差別攻撃の根源なのだろうという予想は容易につく。問題はここにただ残ることに意味があるのかどうかだ。
(さっさと逃げないとまずい。逃げるなら教会の裏を回って、どうせなら外まで引っ張っていってやるよ。あるいはターゲットがほかにあるなら僕の分は外れるかも。何にしてもあいつは僕の手には負えない。できる冒険者に任せるに越したことは無い、か。)
当夜は悪意の根源から少しでも離れようと教会を盾に北門に逃げる算段を整える。足を動かしたと同時に次の魔法陣が当夜の足者とに現れる。やはりターゲットにされているのは間違いない。例によって無彩色な世界で当夜はその危機を脱する。火柱が立つと同時に、すぐそばの家や商店からも悲鳴が聞こえてくるが、当夜も自分自身を守ることで精いっぱいだ。
嫌な予感がした。当夜はその気配に振り返る。白い漆喰壁に食い込む蒼白く巨大な手。こちらを覗き込むように輝く頭部の白い眼が当夜を捉える。僅かにその輪が縮み、その存在が嘲笑った気がした。腕に加えられた力によって家壁が握りつぶされ、その前身が露わになる。体は蒼く燐光し、3mはあろう体躯に2mほどの腕、足は1mほどであろうか、遅そうな足の運びは名前の通り重量級だ。ついにゴーレムがその姿を見せたのだ。
(これがフレアゴーレム...)
まだまだ距離にして100mはある。そんな油断が当夜に無かったかといえばうそになる。背を向けて逃げ出そうとせず、遠距離攻撃を警戒しながらも当夜はフレアゴーレムの目をにらみつける。途端、売られた喧嘩を買ったかのようにフレアゴーレムの眼が純白に輝いて当夜の足元に魔法陣が構築される。当然のように、当夜はこれを遅延した時空間の中で回避する。フレアゴーレムは何度も自らの得意技を回避する小さな人間にいら立ちを覚えたのか、避けて体勢を崩した当夜にその体からは信じられないようなスピードで迫ると、ラリアットの様相で突撃してくる。そう、ベーケットを炭と散らせ、アリーゼを吹き飛ばしたあの攻撃である。
当夜は、火柱を回避したにも関わらず、時計が進むことに気づいてゴーレムの方向を見上げる。すぐ目の前にモノクロの淀みが揺らめいている。それは蒼く燐光する腕に熱せられた空気の塊であり、当夜の肌をピリピリと焼きながらその大本ごと迫ってきていた。
(嘘だろっ
あんだけの距離を詰めてきた!?)
遅延した世界でありながらフレアゴーレムは十分脅威に感じられるほどの速さで腕を伸ばす。慌てて腕下を掻い潜るように抜けると物凄い熱風が背中越しに通り過ぎていった。同時に全身を襲う痛み、おそらく遅延した時空間で激しく動き回ったことに対する代償であろう。
ゴーレムは勢いのままに大地を焦がしながら10mほど先に進んで止まる。一応の距離が取れたことは歓迎すべきだが、一瞬で詰められた先ほどの距離に比べてもさらに10分の1などあって無いようなものだ。。
「ちっ、このままじゃ、ジリ貧だ。」
そう、当夜は避けることはできても自ら攻撃を与える手段が無いのである。何より、その回避とていつまで続くかわかったものではない。
先ほどの信じられないようなスピードでの突撃を繰り出した存在とは思えない緩慢な動きでゴーレムは振り返る。その無表情な顔が憎たらしい笑み浮かべているような気がして当夜は思わず苦笑いを浮かべる。
そんな時だった。
「よう、手伝うぜ。」
「...」
そこにいたのは【ペール】で寝ているはずのハービットだった。そして、その隣にはもう一人、弓を引く長身で見目美しい男性エルフがいた。




