アリスネルの誕生 その4
「今日のおかず、これだけぇ?」
少女のあどけなくも非難めいた声がろうそくだけが灯る薄暗い部屋に響く。
「駄目だよ、リコ。食べ物があるだけ今日は良い日だよ。」
少女を窘める青年の声。テーブルの上には黒パンが2つと痩せた野菜のサラダが一皿。ただし、これらは2人のための食事ではない。この家、いやひどく傷んでいるが教会には8人が暮らしている。それでも少し前までは16人が暮らしていた。その時から考えれば食事を分け合う量は少し増えたとも言えるほどだ。消えた8人は病気や栄養失調で死亡したり、冒険者の真似事をして命を落としていたりした。
「…皆、済まない。」
薄汚れた衣服を身に纏うこの男性はこの教会の神父であり、隣の朽ち果てた孤児院の院長でもある。
そもそもこの教会がこのような有様となっているのには訳がある。貧民街が国によって改良されるにあたってその中にあった孤児院が景観や衛生を理由に街の端に追いやられることになった。その際に人々はお荷物が減ると喜んで協力した。その後、教会を目当てに来るものもいたが、街中に新たに別の教会が整備されると誰も寄り付かなくなった。神父は教会の建具や宝物、さらには自身の身に着ける神具衣装までもを妻となったシスターと孤児たちのために売り払ってきた。やがてそれすらも尽きてこのような事態となっていた。
「神父様、僕らこそ迷惑かけて、」
少年が塞ぎ気味に詫びる。彼とてただ手をこまねいていたわけではない。幾度も街に行って小間使いとして雇ってもらうべく様々な店を訪ね歩いたがどこも身元保証を理由に断られてしまっていた。
「そんなことはない。お前たちが居るからこそ乗り越えてこられたんだ。変なことを言うんじゃない。」
神父が少年の頭をくしゃくしゃに撫でる。
「俺が冒険者になって稼いで来てやる。それまでもう少し皆で耐えるんだ。」
赤髪の青年が苛立ちと悔しさの入り混じった声を上げる。彼は彼でギルドに行き、年齢を理由に断られたのだった。だが、彼には収穫があった。あと1週間で冒険者への登録ができる年齢になることがわかったのだ。
「ロア兄さん。」
少年が赤髪の青年を見上げる。栄養不足でガリガリの肉体だが、その強い意志は並みの大人を圧倒する迫力があった。とは言え、その肉体では他の孤児たちと同じく魔物に敵うほどでは無かった。
「駄目よ、ロア。危険なことはあんまり、う゛っ」
今にでも魔物狩りに飛び出しそうな赤髪の青年を制するように1人の女性が顔を出す。だが、その足取りは重く、顔色は土のように悪い。
「ファリアナっ」
「ファナさんっ」
神父と赤髪の青年が両脇からその体を支える。今にも崩れ果ててしまうかのようにその体は弱々しい。事実、彼女の余命はすでにいつ尽きてもおかしくなく、家族への想いだけがこの場に押しとどめているようなものだった。
「大丈夫よ、あなた、ロア。そんな大きな声を出したらようやく寝てくれたヘレナが起きちゃうわ。」
彼女にはわずか4才となったばかりの娘がいた。母たる彼女を生へと繋ぎ止めている大きな存在だった。当人はそんなことなど露知らず小さな寝息を立てている。
「しかし、」
夫である神父が両者を見比べて言いよどむ。
「俺、薬師様のところに行ってくるっ」
赤髪の青年が有無を言わせず走り出す。薬師には幾度となく頼み込んだ。そのたびに暴言と共に追い出されたが、それでもただその場にいるということはできなかった。
「あ、おいっ」
「やれやれ、困った子ね。」
その場に崩れ落ちるファリアナは青年の後姿を嬉しそうに見送る。
「君にだけは言われたくないと思うだろうな。
それで本当に大丈夫なんだろうな?」
ファリアナの肩を抱くように支える神父。
「ごめんなさい。そう長くはないかもしれない。」
そう言い終わる前に口元からは赤い筋が零れる。
「っ、そんな…ヘレナも生まれたばかりなのに…」
神父が力なく抱きしめる。
「大丈夫よ。ヘーゼルに頼んであるから。」
微笑むファリアナ。彼女の脳裏に浮かぶのは引退を考えていた旧知の冒険者の姿だ。彼女の援助が無ければはるか昔にこの孤児院は存在しなくなっていた。そして、彼女が任務でこの地を数カ月離れただけでこの有様になるくらいに依存していた。そして、今回も彼女に頼ってしまう自分が情けなくも感じていた。
「そう言うことじゃないっ」
「寂しがって、くれるかしら?」
視界の失われた目から涙が流れる。
「当たり前だ。俺も、ヘレナも、子供たちも、ロアだって。」
神父の腕に力がこもる。
「ファナお母さん…」
「どっか行っちゃヤダ…」
「僕も嫌だよっ」
子供たちが駆け寄る。
「大丈夫。私は、ずっとここにいるわ。みんなを見守り続けるから、安心して、」
完全に意識を失ったファリアナに皆、抱き付くことで別れを拒もうとする。それがどんなに意味のない悪あがきであるとしても笑うことは誰にもできない。
「お体がよろしくないようですね。」
不意に声がかかる。
「どちら様でしょうか。今は取り込み中でしてお急ぎで無ければ後ほど、」
こんなときにでもやってくるのが借金とりである。そう判断した神父はなけなしのお金の入った革袋を机に置くと妻に寄り添う。
「そちらの女性をお救いしましょうか?」
想像とはかけ離れた言葉がかけられた神父は見開いた目を声の主に向ける。
「な、に?」
「助けて、お兄さんっ」
「私、なんでもする! だからっ」
「僕もっ」
子供たちが一斉にその言葉に反応する。打算を知らない無垢な彼らだからこそ飛びついたのだが、神父はそうは受け取れなかった。彼の頭に浮かんだ単語は人身売買。彼も彼女もそんなことのために彼らを育ててきたのではない。それを許せば例え助かったとしてもファリアナは自ら死を選んでしまうだろう。
「ま、待ちなさい。き、君、ちょっとこちらへ。」
男を相談室に通して子供たちから遠ざける。
「どういうことだね。妻はもう…」
「厳しいでしょうね。確かに完治は不可能とどんな名医でもそう断ずるでしょう。ですが、進行を止めることは可能です、僕なら。」
軋む椅子に腰かけた男は自信に満ちた声音で語る。
「…何がほしい。だが、私にできることまでだ。子供たちには手を出すな。」
神父は自身でも驚くような威圧を込めた声を出す。それは己の死をも覚悟したものだ。
「物わかりが良くて助かります。ただ、厄介事ではありますよ。」
そんな神父の威圧もどこ吹く風とばかりに一切の動揺も見せずに男は続ける。
「命を一つ救う、そのことが容易でないことは承知しているつもりだ。」
神父は覚悟を告げる。
「この娘を引き取っていただきたい。」
男は質の良い布に包まれた赤子を大切そうに机に置く。
出された覚悟に対する答えは思いのほか軽いものだった。そう思えてしまった。だが、それは先ほどまで頑なに拒んでいた人身売買の片棒を担ぎうる状況でもあった。
「それは…」
神父は確認せざるを得ない。
「決して人さらいを押し付けようというつもりはありません。残念ながら出自を明かすことはできませんが、別段高貴な出ではないことはお約束します。」
男は包帯に隠された顔の一部を開く。その隙間から見える瞳には強い力が宿っていた。
「貴殿の子でもないと?」
「そうです。」
神父の問いにも即答する男。その瞳は一切揺らがない。
「断りを入れておくが、見てのとおり極貧の生活だ。その子だけを優遇することはできないし、満足な暮らしもさせてやれないのは明らかだぞ。もっと良いところを探した方が良い。」
そういうと神父は立ち上がってドアに手を伸ばす。
「そういう回答を貰えたのなら安心できます。それにもはや時間は残されていませんよ。」
その手がドアを開けきるよりも早く男が忠告する。同時に子供たちの泣声が響く。
「わかった。だが、私たちの生活が破綻した時のために連絡の取れる先を聞いておきたい。」
ドアノブを離して振り返った神父は男の提案を受け入れる。
「大丈夫ですよ。私は常々こちらを監視しておりますから。もちろん奥様の容態も気にしなければなりませんので。」
「そうか。では、その子は預かろう。だから、」
「奥様の命はお繋ぎしましょう。」
深々とお辞儀で謝意を表す男に神父は妻の命を預けた。
ファリアナのもとに戻る神父の足取りは早まる。だが、たどり着くよりも先に子供たちの叫びが響く。
「お母さんっ」
「ファナお母さん!」
「ママ!」
いつの間にか起きてしまった小さな娘までもがファリアナに抱き付いている。子供たちも涙を流しながら呆然と立ち尽くしている。すべてが遅かったと半ば後悔めいたものが胸中に渦巻く中ついに神父はその問いかけをする。
「お前たち、ファリアナがどうした。」
その問いかけに答えたのは意外な人物であった。
「あなた…私、まだ生きているのね。」
娘の頭を撫でながらファリアナはほほ笑む。顔色も先ほどまでとは打って変わって良いように見える。
「当たり前だろ。これからも先は長いんだ。子供たちを置いて勝手に逝こうとするんじゃない。」
力強く妻と娘を抱きしめる。
「そう、よね。」
涙を流しながらファリアナは笑う。その腕で子供たちを招き寄せると、彼らも待ちかねたとばかりに抱きしめる。
「おい、あんたっ
---いない。子供だけ置いて行ったか。」
どれほどの時間をそうしていただろうか。ふと神父はこの奇蹟をなした男を探す。だが、そこに男の姿はなく、数枚の金貨と一人の赤子が残されていた。




