止められない過去 14
草木をかけ分けて森に逃げこんだアリスの脳裏に忌まわしい記憶が鮮明によみがえる。
(貴女のせいではないわ。)
聞き覚えのあるような声が頭に響く。その声は甘やかで優しい囁きだった。
「私のせいです。」
アリスはかぶりを振る。理由はともかく彼らは彼女を守ろうとしてその命を絶たれたのだ。彼女には守るだけの力があったのに。封ぜられていたとはいえそれは自身の修行不足故とも言える。そして、他者の悪意を知らずに生み出されたことも大きい。だからこそ彼女に自らを許すという発想は生まれない。
(なら、貴女を生んだ世界樹が悪いのかしら?)
声は責めるべき相手を変える。アリスが悪だというなら彼女を生み出した世界樹こそが諸悪の根源であるかのように。そして、当然それが否定されることを見越して。
「そんなはずありません!」
(そうよ。世界樹に非は無いわ。だって、世界樹は世界に平和をもたらす存在、そのものなのだから。そして、貴女は世界樹の願い通りに動き、それを成した。であれば必然貴女にも非が無いのよ。貴女は世界に平和を、人々に希望を届けたかったのでしょう?)
声はアリスに許しを与えた。後はアリスが受け入れるかどうか。だが、声の主は知っている。彼女が他者の悪意を認識し、彼女も知らぬうちに他者へ悪意を向けていたという事実を。その結果、彼女は他者に罪をかぶせることができるということも。
「そうです。私は人々の希望となって世界を救うために彼らを助けてきたのです。」
(そうよ。それなのに彼らは裏切った。思い出しなさい。貴女を守って死んでいった親子を。誰に彼らは殺されたのかしら?)
アリスの目の間でその光景がよみがえる。いや、よみがえったというよりも再現されたという方が正しい。そして、声の問いに対する答えもそこに在った。
「王と兵士たちに。」
(そうよ。本当に醜い存在よね、人って。)
憐れむような声。
「…人は醜い?」
(そうよ。だから世界樹は貴女たちを人に触れさせたの。その醜さに気づいてほしくて。世界を滅ぼす害虫たちの本性を教えるために。)
再びアリスの前に幻影が現れる。それは門兵と彼女をここまで導いた少女の末路。アリスには目にすることのできなかった光景であり、同時に予期していたものであった。予期していたものではあったがその衝撃は彼女の声に溢れ出す。
「人は醜い。」
自身の物とは思えない仄暗い声。
(そうよ。だからその醜い力を集めて自滅に追い込んであげるの。貴女になら見えるでしょう? あの醜い感情が、瘴気が。)
森に迫る兵士たちの体を纏う禍々しいマナの揺らめきを声に導かれたアリスも捉える。
「見えます。ああ、私はそれを知るために生み出されたのですね、【世界樹】様。」
(そうよ。見えたのなら奪うこともできるはずよ。さぁ、その力で思い知らせてあげなさい。)
「はい。お母様。」
アリスが手を伸ばす。途端に兵士たちに纏う瘴気は剥ぎ取られる。
「これが瘴気。己が罪の重さを受け取りなさい!」
その力をアリスは何のためらいもなく先頭の兵士に突き立てる。
「ぐぁあああっ」
胸を唐突に穿たれた兵士はその場に倒れ伏す。それをみたアリスの口元が歪む。笑みを浮かべて。その姿に声の主も同じ笑みを浮かべているとも知らずに。
(良い娘ね。残りの愚か者たちも滅ぼして世界樹の根元においでなさい。)
アリスが残りの兵士たちに向けて同じく手を伸ばした瞬間、彼女自身を覆っていた瘴気もろともに瘴気の槍は霧散する。
「騙されちゃ駄目だよ、アリス。その声は君の知る世界樹ではない。その手にかけようとしている彼らの顔をよくみて見るんだ。」
アリスの目の前に突然現れた当夜がその耳元で囁く。
「お父様!? なぜあのような者たちの肩を持つのですか!?」
アリスは毒気をいきなり抜かれた違和感と未だ心の隅に燻る熱い感情に揺れ動かされながら声を荒げる。
「よく見るんだ、アリス。君の怒りはもっともだ。だけど、今はよく見てほしい。」
当夜は優しく包むようにアリスを抱き寄せる。
「嫌っ」
アリスは信頼していた人物の裏切りとも取れる言葉を受け入れられずに思わず突き放そうとする。そうしてようやく前を向くことで兵士たちを再び視界に入れることとなった。
「っ… どうして?」
その言葉の意味はアリスが見た光景がすべてを物語っている。そこには断頭台を前にして自身の番を待つかのように首をうなだれた兵士たちの姿があった。彼らはもはやそこから微動だにしていなかった。
「よく見て、アリス。」
抵抗を止めたアリスを当夜はそっと放す。
「…はい。」
アリスが次に確認したのは先頭にいたがために最初に殺された兵士だ。その表情は苦痛にゆがむではなく、むしろ苦痛から解き放たれたかのように安らいでいた。つづいて、立ち尽くす兵士たち。表情こそ見えないがその口元は裂け、顎先から幾粒もの赤い涙を落としている。
「どう、いう、ことですか?」
どうにか声にするアリス。だが、その光景だけでも十分に彼女は事情を理解できた。それでもそう易々とは受け入れられない。
「見え方は立場によって異なる。当事者なら客観的に見ることなんてなおさらできるわけがないからね。」
「ですが、彼らはっ」
(彼らは確かに私を殺そうとしていた。それにあの母子に、私を逃してくれた彼女たちを慈悲もなく殺害した。それは事実。
でも、私は彼らの表情を見ていたわけでは無かった。そんな非情な行いをする彼らを当然悪だと認識していた。それが思い込みだったというのですか?
いえ、それでも彼らの行為は、)
「確かに許されざる行為を働いた。
ただ、彼らは国を守る兵士だよ。つまり、王に従うことが義務付けられている。とはいえ、彼らの存在意義を考えると民を守るべきでもあった。もちろんそこには家族も含まれている。そして、君を慕う者の一人でもある。一体、あの状況で何に重きを置いていたのか。その葛藤の中で選んだ答えなんだろうね。」
「・・・」
(わかっています。私を守る民に付くということは王に背くことになります。王の命令に逆らえば家族が危ない。私は彼らが好んで王の命に従っていると思い込んでいました。それでも、)
当夜の問いかけとも言えない言葉にアリスは下を向いて押し黙る。
「何が正解かなんて僕にもわからない。そして、今の彼らの姿こそが彼らなりに導きだした答えなのかもしれない。君がこの国に二度と近づかないようにして命からがら逃げるように追い立てることを選んだんだと思う。」
この答えはこの場にいる兵士たちの導きだした一つの例だ。一部には王への忠誠心から本気でアリスを害しようとする者もいた。だが、大多数は困惑し、何に重きを置くかで一人一人が様々な選択を迫られていた。
「そんな、そんな独りよがりな答えは間違っています!」
アリスが顔を上げる。そこには強い意思があった。当夜がその顔を見て安堵したように笑う。
「そうだね。」
「…何も守れていない。失ってばかりではないですか…」
当夜の表情に落ち着きを取り戻したアリスは不貞腐れた様にいう。
「そうでない答えを選んだ兵士もいたはずだよ。」
そうでないとはもちろん王に歯向かった者たちだ。当然のことであるがその場で粛清されている。アリスは知らないがその選択を取った者たちも少なくない。
「結果は同じだったと言いたいのですか?」
「いや、そう言うわけじゃないよ。」
少しばかり苛立ちを募らせたアリスの声に当夜は苦笑する。
「なら、何が違かったのですかっ」
「どちらも君を守りたかったんだ。でも、その答えは君の中でまったく別の作用を起こした。負の感情の裏に隠れた真意はすごく見づらい。でも、君は気づいたはずだよ。瘴気の中に隠れた正の感情に。」
しばらくの間が2人の間を流れる。
「はい。それでも、私は許せません。」
アリスの真っ直ぐな視線が当夜の視線と交わる。
「なら、裁くかい? まぁ、彼らもそれを望んでいるみたいだけど。」
「いいえ。彼らには本来の役目に戻ってもらいます。本当に守るべき者を思い出してもらいます。」
アリスが力強く首を横に振る。その瞳には強い意志が宿っている。そう言うと先ほどから彫像のように動かなくなった兵士たちの元に歩んでいく。その姿に当夜は嬉しそうにつぶやく。
「その優しさの中にある芯の強さ。君はやっぱりアリスだ。」
(だからこそ救うんだ。彼女が世界樹に戻るにはまだまだ早い。こんなところで死なせるものかっ)
断罪を求める兵士たちに許しを与えたアリスが戻る。
「お父様、私はこの国を導くと決めました。民の心を慮り、負の感情の湧かない、いえ、生じたとしてもそこから少しでも隠された真意を掬い取って伝えることのできる世界樹になります。」
「そうだね。君ならできるさ。でも、君はもっと世界のことを、いや、人の感情を学ぶべきだ。この先でアンアメスさんが待っている。まずは合流して【時空の精霊】が認めた賢者君とともに人としてこの国を立て直そう。僕も手伝うからさ。」
アリスの決意表明に当夜は表情を緩める。
「はい、お父様!」
アリスがようやく表情を緩める。




