知識と知恵 その1
声の主を追う二つの視線。結んだ先には一人の青年。黒髪に薄肌色の肌。片方の少年によく似た雰囲気を漂わせている。だが、その顔には陶器じみた冷たさを持つ白い仮面、目と口だけが穴空く無機質な仮面が張り付いている。
(この子が【時空の精霊】? いや、この時点ではキュエル、か。
顔がある? この顔、どこかで...
そうだ、あれは昔のアルバムで、)
頭によぎる幼いころの記憶。当夜の脳裏に鮮明な映像が起こされるよりも先に視線の主たちが声をかける。
『誰なの?』
「ほう?」
(やっぱりあんただったか。)
『やぁ、久しぶり。このクソ野郎。』
(キュエルの姉は、―――かなりやばいな。とりあえずあいつの意識をこちらに向けることができたみたいだ。それにしてもさっきからまとわりついてくるこのマナ、鬱陶しいな。感情が逆撫でられる。この世界に来てからずっとこんな感じだけどここは特にひどい。それでも、)
当夜はこの過去の世界にきて以来、まとわりつきながら肌を刺す瘴気に不快感を表す。それが自らの世界からもたらされた負の感情が作り上げた瘴気だとは知らない彼にはただただ不快でしかない。しかし、そんな不快感などどうでもよいほどに目の前に立つ男は危険な存在だ。封印されながらも間接的に当夜たちを追い詰め、拭い去りようのない悲しみをもたらした存在だ。鋭い視線がディートゲルムに向けられる。そんな当夜の敵意の意味を図ろうと目を細めたディートゲルムだがそれは敵わない。マナそのものである当夜に彼の走査は不躾すぎた。
「やれやれ。やたらと新しい人物が現れるものだ。どこかで会ったことがあるような口ぶりだが。しかし、私には覚えがない。今度の君は一体誰だね?」
当夜に読心を阻まれて得たい情報が得られずディートゲルムは大げさに徒労をにじませて見せる。だが、本音はそこではない。当夜と言う存在の立ち位置の不確かさが不安なのだ。明らかに自身と同じ世界の出身者であって、ノーラとは異なり支配下に無い存在。さらには文明レベルが上かもされないのだ。自らに恩恵を与えるのか、それとも大いなる障壁となるのか。いずれにしても目の前の青年は男に多大な影響を与えるという予想は的外れではないはずだ。
『おいおい、つれないこと言うなよ。同じ地球に住まう者として遠くからやってきてやったってのに。』
(やはり先駆者たちの中に男がいたか。姉の言葉の中に男の存在は無かったが、弟がいる時点でその可能性は十分にあったのだからな。このガキの要素はこの男譲りか。だが、この雰囲気。こいつは狂気を抱えているような気がする。この男こそこの狂気の仕組みの構築者に違いない。であれば私と馬が合うはずだ。)
「ほう。ならば貴様がこの負の感情の浄化システムを作り上げた東洋人の一人か。これは実に素晴らしい仕組みだ。」
『負の感情の浄化システム?』
当夜は枯れ朽ちた世界樹の姿に気づく。
『ああ、これか。』
(そう言えばアンアメスさんが世界樹の機能を教えてくれた時にそんなようなことを言っていたような。そうだ。マナは負の感情と結び付きやすいんだ。僕の体はマナそのものみたいなものだから負の感情を吸収していたのか。それが感情を逆撫でるのか。それなら分解も可能かもしれないな。)
当夜は体に張り付くような瘴気に意識を向ける。そこには欲望、嫉妬、憤怒、怠惰その他様々な感情が渦巻いている。決して目の前にいる相手を無視してとりかかれるような問題では無い。再び意識を男に向け直す。だが、その先にいた男も何やら思案に暮れていた。
(本人もそうだが、呆けたままのガキも反応が薄い。となるとこの仕組みを作った人物とは無関係。あるいはその子孫の可能性もあるか。いずれにしてもこの男の意図で作られた仕組みではなさそうだ。いや、どうでも良い。重要なのはこの男が私に有用であるか否かだ。そして、今はその可能性がある。)
「...その反応では違ったようだな。失礼した。」
どうやら思考がまとまったのかディートゲルムはやや残念そうに、しかしどこか愉しむように笑みを浮かべる。それはほんのわずかな間。そして、すぐにその顔を引き締めると謝罪を口にする。
(こいつってこんなに理性的な奴だったか? もっと狂気じみていたような気がしたんだが。いや、でもキュエルたちにひどいことをしたのも確か。とは言え、彼らの関係も僕は知らないわけだし、片方だけの言葉を信じるのも危険か。もう少し様子を見るべきか。)
『ああ、関係ないね。こちらも相手を間違えたのかもしれない。出だしの言葉を取り消すよ。』
(ふむ。どうやら言葉は通じる相手のようだ。マナを通しての読心もできない。転移の魔法を使った節もある。未来の知識を持ち、この世界にも私より長くいる、やもしれない。となれば戦闘では分が悪い可能性がある。残りの銃弾も一発。ここで戦っても意味はない。それよりもこちらに引き込むべきだな。)
「気にする必要はない。ところでどうかね、そろそろお互い自己紹介でも。」
お互いに生んだ僅かの間にそれぞれを分析する。先手を打ったのはディートゲルムだった。差し出した手は握手を求めている。
『そうだな。そう言えば名前を聞いたことがなかったよ。』
当夜はその手を取ることは無いが男の意見に同調する。
(未来人でもなんでもない。私と同じ時間軸を生きていた者か。どうやらどこかの研究所ですれ違った程度の存在か。先生の後ろにいたとはいえ私は無名の科学者だ。ならばやはり名前まではお互い知り得ないというのも道理か。)
「そうかね。私と会うことができたということは日本人だね。あぁ、私はディートゲルム シュルツ、ドイツ帝国の科学者だ。」
ディートゲルムの中で当夜に対する評価は未来と言う価値を失うことでワンランク下げられる。
『ああ、僕は確かに日本人だよ。名前は緑邉当夜。いや、当夜緑邉と名乗った方が良いのかな。』
「トーヤ、———君も科学者なのかね?」
ディートゲルムはより当夜から情報を得ようと問いを重ねる。
『...どうしてそれを問うんだい?』
第一の問いから幅広く問うのではなく、職業を絞るという決めつけに近い問いに当夜は不審に思う。
「君たちとは同盟関係にある。私の計画を理解するには第一前提になるのでね。お互い手を取り合えるといいのだが。ところでどうだね、そろそろその可笑しな仮面を取ってくれても良いのではないかね?」
ディートゲルムは微笑みながら見えない仮面を取る仕種を見せる。そんな笑みに当夜の目が光る。
(ああ、やっぱりこいつは狂気に染まってる。目が笑っていない。そして、それが板につき過ぎている。)
『悪いけどそれは僕にとってあんたと仲良くやる根拠足り得ない。
それよりそろそろ本性を出したらどうだ、マッドサイエンティストっ』
当夜が鼻を鳴らして指摘する。そこには明確な拒絶が示されていた。
(こいつは私を敵と認識した。もはや覆すことは難しそうだ。そして戦いは避けられそうにない。こうなっては先制を取ったほうが有利になる。)
「ふう。
...なるほど。どのような理由でそのような判断に至ったのかはわからんが、どうやら君とは分かり合えないようだ。」
ディートゲルムはマナの動きに機敏な当夜に悟られないように微量な濃度で瘴気を散らせる。やがてそれは大気中に色むらの如く濃淡をつくり、瘴気の機雷と化す。その数、50を超える。少しでも体を揺らせばそのすべてが発動し、当夜の体を爆風の元に消し飛ばすだろう。そして、それぞれは今なお瘴気を吸収して肥大化し続けている。
当夜の周囲にまとわりつく瘴気の機雷の外側に黒い球体が出現する。当夜が魔法を発動するために起こしたマナの僅かな変化に反応して機雷が炸裂する。だが、疑似ブラックホールは瞬時にそれらを爆風ごと排除する。ディートゲルムの目が見開かれる。安全が確保されると当夜は指さす。その先には体を地に横たえる少女の姿がある。
『そうなるね。さて、その子も助けないといけないし、さっさと終わりにしよう。』
「なるほど。疑似ブラックホールか。質量エネルギーが圧倒的に足りないはずにも関わらずその短時間でつくりあげるとは。不足分は代替エネルギーとしてマナを使っているようだな。」
(いや、私の瘴気すらも喰ったか。そして、私でも再現することが難しいこの知識。———未来の存在か。よもや私が判断を見誤るとは。)
『さすがだね。やっぱり普通じゃない。』
ディートゲルムは当夜の知識を、当夜はディートゲルムの呑み込みのよさを褒める。そして、互いにお互いの危険性を再認識する。
「よく言われる。」
『駄目だっ そいつは転移の魔法が使えるんだ。魔法じゃ倒せない。』
キュエルの叫び声と同時にディートゲルムの姿が消える。
「もう遅いっ」
次に当夜がその声を聞いたとき、ディートゲルムの握るピストルの口が当夜の蟀谷に触れる。
だが、銃口から玉が飛び出すことは無い。なぜなら、引き金に添える指に意思は伝わらなくなっていたのだから。ディートゲルムのひじを中心に文字通り消失する。ピストルが地に落ち、ディートゲルムが尻もちをつくように後退する。彼の腕を奪ったもの、それは当夜の疑似ブラックホール。
『何が?』
当夜の抑揚のない問いかけが静かに響く。ディートゲルムは信じられないものを見たかのように目を見開く。その視界の隅に赤い尾を曳く二の腕が映る。そして気づく。猛烈な痛みと寒気。
「なんだと!? ぐぁああっ」
『いやぁ、この魔法は人に向けるものじゃないね。まぁ、こいつもそうだけど。』
当夜は足元に転がるピストルを拾い上げると一頻り観察してディートゲルムに向ける。その指は引き金にかかる。ディートゲルムは転がるように距離を取る。
「はぁ、はぁ。くそっ」
(痛みで転移先が定まらん。傷もなぜか塞がらん。おそらくはこやつの能力か。
そもそもどういうことだ。なぜ転移先がばれた?
これは魔法で戦って勝てる相手では無い。だが、こやつは人を殺すことになれていない。そうでなければ先ほどの一戦の中でとっくに止めを刺されていたはずだ。)
『降参かな?』
(最悪、四肢を奪って無効化してしまえば大丈夫かな。なにも殺すことは無いよね。)
殺したいと思ってきた男。だが、彼から直接被害を被ったかといえばそうとは言えない。ここにきて人の命の重みに怖気づいた当夜が妥協点を探そうとする。それを表すかのように銃口が震えている。ディートゲルムがそのことを見逃すはずが無かった。
(私に残された勝機はこの男の心の弱さをつくことだ。止めを刺すつもりがないなら捨て身で勝利をいただく。)
「...まさか、なっ」
ディートゲルムが血液に満たされた十を超える注射器を投げつける。意思ある蜂のように針を突き立てて不規則な動きで当夜の目に迫る。
『———無駄だって言っているだろう。』
当夜の口にする無駄とは迫る注射器のことではない。普通であればそちらに意識が向くであろうが、当夜が告げたその意味はその向こうから突撃を試みるディートゲルムに向けられたものである。
疑似ブラックホールがそれらを無に帰すべく当夜と注射器の間に生まれる。注射器が吸い込まれる瞬間シリンジがはじけて瘴気にまみれた血液が飛散する。それは瞬時に膨張し、赤黒い霧を発生させる。
『へぇ。』
当夜の片目が細まる。肌を撫でる不快感。呼吸をするたびに瘴気とディートゲルムの因子が吸収されるその霧は人を一瞬で廃人にする代物だった。ただし、効果があるとすれば当夜が人であればこそだ。それでも見過ごすことのできない効力でもある。ディートゲルムにして失われた視界の中で当夜が息を殺してその霧の除去に力を注ぐものと予見しての一手である。次なる目標は一つ。その手に奪われたピストルだ。金属質のそれに手がかかる。同時に支えを失い倒れこむ体。痛みに振り返らずともわかる。右足が重力の化け物に食いつぶされたのだ。
「右足もくれてやろう。だが、これならどうだっ」
倒れこんだ先でディートゲルムは体を捻り、銃口を当夜の顔に向けて引き金を引く。もくろみ通りに顔回りの霧が晴れている。仮面に覆われた当夜の顔が銃弾に相対する。当夜が後頭部から地面に倒れる。ディートゲルムの目には仮面を砕き、その脳髄を抉りながら頭蓋骨を突き抜ける銃弾の軌道が描かれる。
「はは、はははっ
やった、やったぞっ」
ディートゲルムの笑い声が響く。弱者をなぶるだけの研究では感じ取ったことのない高揚感が男を包む。
次週はサイドストーリーの方を上げるつもりです。




