混濁の時 その3
「何が起きた!?」
ガフとメイグが頭上を見上げて固まる。目の前に浮かぶ黒い棺桶からは動きが感じられない。だが、そこにある禍々しい瘴気は尋常では無い。とは言え動きの無いそれにわざわざ手を出すほど危機管理ができていないわけでは無い。いや、単に手に負えそうもないものに手を出せないだけか。ゆえに見守るしかない。そんな中、この戦端を開くにあたって口火を切ったギルフが2人を呼ぶ。
「ええい、ガフとメイグはこっちだ。まずはこの男からどうにかするっ」
「わかった。フィルネットはその黒い塊から、フレイアから目を離すなっ」
ガフがフィルネットの肩を鷲掴むとフレイアを見張るように怒鳴りつける。一瞬目を見開いたフィルネットだがすぐに目を下に落とす。そんな彼女に舌打ちしたガフはその顎を掴むと引き上げてフレイアの篭もる棺に視線を誘導する。
「変化があったら知らせるだけで良い。できるな?」
フィルネットの返事を確認すること無くガフはメイグの後を追ってダーソらの戦場に向かって駆け出す。
「———はい。」
(...フレイア様。できることなら貴女様の隣にいたかったです。)
フレイアから見れば裏切りの立場にあるフィルネットのつらそうな声がその場に響く。そして、その声に呼応するかのように棺の蓋が鈍く開く。フィルネットの曇った表情に悲観が増すと同時に僅かな明るさが宿る。もはや相手に届くことは無いというのに。
5対1という数的優勢を手にしたエルフたちはディートゲルムを取り囲むとじりじりとその包囲網を縮めていく。対するディートゲルムは余裕の表情を一切崩すこと無く身構える素振りも無い。それが逆にダーソらの攻撃の気勢を奪う。世界樹による干渉が無くなったことで何かあるのではないかと疑ってかかってしまうのだ。もちろんその感情は瘴気にまで変化せずともマナを介してディートゲルムに筒抜けとなっている。そのことを彼らは知らない。
それでも均衡は破られる。いつまでも膠着状態ではせっかくの数的有利性の意味がなくなる。正面に構えていたガフが囮の意味も兼ねてディートゲルムに突撃を仕掛ける。
「まずはおまえからだぁああっ」
「おいおい、そいつも言っていただろう。お前たちの相手は私では無い。」
ディートゲルムはガフの刃を手のひらに展開した障壁で容易く受け止めるとガフの背後を指し示すように小突く。ディートゲルムから視線をずらすわけにもいかないガフはその意図を視界の隅に入ったダーソに求める。その目には驚愕が映っている。そして気づく。胸から伸びる世界樹の枝を削り出した刃がもたらす痛み。凶刃を追ってたどり着いたその大本には見知った者の姿。
「何を?
フィル、ネッ、...ト?」
口から溢れる血を吐き出して声を出すガフは信じられないといった表情を浮かべて崩れ落ちる。
「ガフっ」
己の名前を叫びながらギルフの駆け寄る姿が掠れながらも映る。助かる見込みのない自分のために駆けつけようとする姿は彼にとって希望にも見える。仲間に裏切られたことをも忘れさせてくれる。だが、上から押しつぶすような冷淡な声がそれすら閉ざそうとする。
「さようなら。」
フィルネットでは無い。声の主は宙に浮かぶフレイアだった。その容姿はほとんど変わっていないが真紅の瞳、暗紫色の翼は明らかにこれまでの彼女とは異なることを示していた。そのことに言及する前にフィルネットが腰を折って体を近づける。それはガフの体を貫く剣に手をかけたことを意味する。
「あ゛ぁ゛
な、ぜだ...」
ガフを見るフィルネットの瞳に生気はない。その美しさも相まってまるで人形のようだ。フィルネットがガフの胸を穿つ剣を抜く。彼の怒りを表すかのように噴火の如く血が噴き出る。だがそれは彼の命を縮める。ガフは己の落とした剣を拾おうと震える手を伸ばしたがそこに届くこと無く事切れる。力なく地面に落ちるガフの手を目にしたギルフが叫ぶ。
「ガフっ」
「知らなかったかね。吸血鬼にはチャームという能力があるのだよ。彼女はどうやら心に隙間があったようだな。それにしても君たちの作り出す瘴気は実に優秀だ。」
ギルフの怒り、その他の者たちの悲しみと悔しさという感情に染まったマナを愛でながらディートゲルムは種明かしを始める。
「ふふふ。この子には私の手となってもらうわ。」
(私も甘い。結局、この子を殺せないなんて。どうせ今死なずともいずれ世界は滅ぶというのに。それならいっそのこと今殺してあげた方が幸せかもしれない。でも、)
「もちろん、貴方たちはいらないけど。」
ガフの体を抱き起すとフレイアはその首筋に唇を当てる。その奥で純白の犬歯がその首筋に深々と刺さる。途端に体を痙攣させるガフの遺体。やがてそれは夢遊病者のように方向性を持たずに歩き出す。戦いの場から逃げ出すかのように。
「ガ、ガフが...」
メイグの怯えた声が静まり返った空間に大きく反響する。
「もはや、ガフのことは忘れろっ
それよりもチャームとやらがどのような魔法か知らんが洗脳の類であるということは間違いない。五感に干渉するマナに注意を払えっ」
戦いに精通したギルフの警告がその劣勢感が漂い始めた雰囲気を破るように飛ぶ。その意識は最も警戒すべき対象となったフレイアに向けられている。
「注意すべきところはそこだけかね?」
ギルフの背後から先ほどの発言を覆すディートゲルムの声が覆いかぶさる。振り払うように剣を後ろに薙いだギルフの背中を痛撃が襲う。
「貴様っ
ぐぁああああぁぁぁ!」
痛みの元を確かめるようにギルフが身を捩る。ディートゲルムの手が押し込む注射器を満たす液体がギルフの体内に注ぎ込まれ暴れ狂う。
「ギルフ様!?」
フラウがギルフを助け出そうとディートゲルムに剣を向けて突撃する。ディートゲルムは先ほどまでと異なりあっさりと身を引く。フラウはギルフの背中に残された注射器を抜き取りその安否をうかがう。フラウの心配に応えるように振り返るギルフ。だが、その顔には彼女の中で憧れが恋へと昇華した男の印象は薄れ、憎き男の印象が上塗りされていた。
「ほう? 今度は私の因子か。ふむ、こうして自身の面影が他人に見えるというのは気持ち悪いものだな。」
フラウが一歩、二歩と下がる中ディートゲルムが即座にギルフの隣に並び立つ。動揺したフラウは敵たる男に刀を突きさすことができない。ディートゲルムにその顔を覗き込まれたギルフは頭を抱えて地に伏せる。そして胸に痞えるものを吐き出すように苦しそうに声を絞り出す。
「ば、馬鹿なっ
私の中に貴様がいるだと!? なんだこの吐き気のするような感覚は?」
遠目で事態の把握が適わないメイグの岩石の槍がディートゲルムに襲い掛かる。ディートゲルムは降りかかる火の粉を払いのけるように高速の岩槍を粉砕する。その隙をついてダーソが親友を抱えて飛び退く。
「ギルフ、大丈夫か!?」
「ダーソ。俺を、...俺を殺せ。」
ギルフはダーソに顔を向けること無く願い乞う。その声はひどく平坦で感情を限りなく殺しているのがわかる。その表情を窺い知ることはできないが間違いなく悔しさに歪んでいるはずだ。そして、その顔を親友に見られれば思わず感情の限りをぶつけてしまうだろう。それはきっとディートゲルムの思う壺なのだ。ギルフの意地がそうさせた。
「こんな時に何を言っている! 毒か? 呪いか?」
ダーソに親友の言葉の重みがわからないはずがない。それでもどうにかしたかった。大局的に見ても彼の戦線離脱はあまりに大きすぎる痛手となる。だが、ギルフの体を覆い始めた瘴気は明らかに手の施しようのないことを物語っていた。
「こんな時だからだっ
俺の心が歪んでいく。最悪の場合、俺が敵になりかねん。解毒も解呪も俺たちには無理だ。」
(クリーク、お前もこの苦しみの中で無念を抱いたのだな。今ならわかる。あの男の中から救いを求めるお前のマナを。今の俺にはお前を救い出すことはできん。お前は寂しがるかもしれないが隣で一緒に苦しんでやることもできん。許してくれ。)
ギルフは体の中から食い破ろうとする仄暗い衝動を押さえつけるかのように蹲る。その衝動に負ければどれほど愛した者であれ、信頼する友人であれ、誰彼かまわず襲い掛かるだろう。自らの故郷を壊滅させて、己自身のマナも瘴気に変換させられて喰われたクリークのように。
「ほう、大したものだ。瘴気への耐性がずいぶんとあるのだな。だが、死なれては実験にならん。貴様も堕としてやろう。」
ディートゲルムの影から瘴気が噴き出す。その姿は無念に死を迎えた者たちの助けを求めてもがく姿にも見える。その一つにはクリークの姿があるようにギルフには見えていた。
「ダーソ!」
ギルフの一喝。ダーソの背を押す。
「———わかった。すまん、フラウ。私もすぐ逝く。」
「そんなすぐに来るんじゃないぞ。」
淡い光の粒子、マナに変換されたギルフの体は霞むように消えてゆく。その顔はそれこそディートゲルムの因子を取り込む前の凛々しいものだった。そして笑みを浮かべたギルフは母なる世界樹を目指す。例えそれが倒れ、葉を散らしていても。本来あるべき環の中に帰すべくして。完全に消える間際、浮かべたそれはすべての責を親友に負わせてしまうことへの憂い。だがそれは杞憂であった。ダーソはすべてを受け取る優しい表情で見送ってくれている。消えた後ではその表情の先を見ることはできなくともきっと笑っていたとダーソは断言できる。瘴気など生まれなかったのだから。
「ほう。そんなこともできるのか。以後、気を付けねばならんな。」
理想に燃える、意識の高い者たちの希望から絶望への相転移は膨大なマナを生むという彼の予想に反して回避の裏道を示されたディートゲルムはそれでも満足げに笑う。得られたものが己の提唱した説の否定だったとしてもそれは成果であるというのが彼の持論であるゆえんだろうか。
「どうやら貴様の力を見誤っていたようだ。我々では止めることも敵わない。それは認めよう。」
ダーソは己の剣を地面に突き立てて杖のようにして立ち上がる。その緩慢な動きと発言内容はあきらめすら漂わせて見える。にもかかわらず彼の体を覆うマナは膨張を続ける。それは大規模魔法を放つ前兆か目にもとまらぬ斬撃を生み出すか予兆とも目される。
「ふむ。そこまでわかっていて歯向かうか。それもよかろう。」
(これほどのマナの消費となるとこちらの瘴気の対消滅もそれなりか。まず問題ないとは思うが結界消滅の場合の保険としてフレイアを動かすか。)
ダーソの行動は間違いなく彼の秘奥義とでもいうべき一撃だろう。それを防がれた時の絶望に暮れるその顔を思い浮かべながらディートゲルムはほくそ笑む。
「フレイア、お前は村人に新たなる種の祖となる祝福を与えてこい。」
「わかりました。」
丁寧なお辞儀を見せたフレイアは操られたままのフィルネットを連れて悠々と逃げた人々の集まりに足を進める。その背後にはエイラとノーラを閉じ込めた二つの黒い棺が宙を舞う。
「待たせたな。少しは妙案が浮かんだかね?」
フラウとメイグのすがるような視線を感じながらダーソは閉じていた目を見開く。そして、彼の最後の指示を告げる。その瞳には覚悟が宿っている。
「いや、すでにこれよりほかは無い。2人はフレイアを止めに行け。厳しいようならば逃げよ。そして周囲にこのことを伝えよ。」
「———はい。後のことはお任せください。」
ダーソの気迫に押されて息をのんだメイグが神妙に応える。フラウは未だギルフの喪失と彼への裏切りに震えている。その感情がディートゲルムに力を与えているとも気づかずに。それを阻むということではダーソの判断はある意味で正しかった。ただし、この場が答えに何を示しても正解とならない意地の悪い不条理の中で無ければの話だ。
メイグに抱えられてフレイアの後を追うフラウ。その2人の姿が見えなくなったところでディートゲルムに正対したダーソは小さく笑う。それは彼の中での目論見が適ったことを意味している。
「ふぅ。私の準備が整うまで静観とはずいぶん余裕だな。」
「いや何、貴様の得意技をぜひ見させていただこうと思ってね。」
ディートゲルムの期待に反して突如としてしぼんでいくダーソのマナ。
「済まないな。君の期待には応えられそうにない。」
ディートゲルムはダーソの体が薄らいでいることにようやく気付く。それはあまりに微々たる変化。だが、それが累積した結果、すでにその体は半分以上透けている。そして、気づいたその瞬間、風に吹かれて霧が晴れるようにダーソの体が消える。
「薄れて、...消えた?」
(気配と姿を消す魔法か?
いや、これは、この流れは、)
「———マナを世界樹に与えた?」
ディートゲルムの目線がダーソの体が消失した空間から世界樹へと動く。だが、それはディートゲルムをしてすでに干渉できないまでに進行していた。これで最古の森人はそのすべてが世界樹へと還ったのであった。そして、そのことは一つのトリガーを引く合図となる。
次話で主人公を登場させたい。




