混濁の時 その1
「燃える」が「萌える」に変換されるパソコンの学習力に戦慄した
なん━━∑(゜□゜*)━━でやぁぁああぁぁ
(今なら殺せる。)
時刻は午前2時くらいだろうか。その夜、凄惨な現場に立ち会ったせいか寝付けないノーラは可能な限り感情を押し殺して隣に横たわる男の様子を探る。月明かりとでもいうのだろうか、2つの衛星が放つ明かりの中で目を瞑る厳格な表情が見える。寝ている間くらい緩んでもいいのではないかと期待をしたわけではないが、男に油断している気配は感じられない。今にも目を開いて起きてくるのではないか。果たして自身の行動が正しいのか不安になる。それでも今の彼女ならば目の前の男を殺せる自信があった。これまでの彼女は自分が我慢すればと理由を付けて、どこかこの男の命を奪うことに抵抗があったのだが今は違う。
「っ」
マナの気配を感じられないということは先には阻まれた見えない障壁は展開されていないということだろうか。クリーク愛用のククリナイフを振り下ろす。悔恨の念を残さぬように一思いに心臓を突きさす。
「残念だったな。」
薄明りの中に響く男の低い声。ノーラの振り下ろしたナイフは床の木に突き立てられている。その上にあったはずの男の体はそこにはない。
「えっ!?
何が、う゛あっ」
周囲を見渡そうとするノーラだったが衝撃が後頭部を襲い、床にたたきつけられる。重たい何かに押さえつけられた状態でマナを放ち状況を確かめる。
失敗を悟った。ノーラはディートゲルムの足で後頭部を踏みつけられて見下されていた。背中にはフレイアが見たことも無いような長い剣を触れるか触れないかと言うところで構えられている。ノーラはナイフの柄から手を離す。
「くくく。貴様もどうやら眠れなかったようだな。私はその可能性にもちろん至っていたのだよ。」
床に落ちたナイフが金属音を部屋に響かせる。他方で相反するような低い声がそれすらも上回るほどの存在感を以てノーラの思考を奪う。
「可能性? いったい何の、」
ノーラにとって理解しがたい一言が口をついてこぼれる。彼女自身も気づけた可能性。だが、それは功を焦るがために見逃していた可能性。
「我らは眠りから解放されているということだ。あれほどの運動量による肉体的疲労に加えて、ここまでの情報量だ。脳が処理するためにも睡眠が必要ないわけがない。だが、私にはいっさいの眠けが訪れなかった。」
その可能性が次々と明かされていく。集落の人々の体を集め、彼らの一人一人の無念の表情を心に刻んだノーラの方がよほど気づけたはずの内容だった。それでも興奮がそれを妨げたと信じていた。
「それだけのことで、」
とは言え、それだけの情報でそのような推測が成り立つのか。まずありえない。普通の人間であれば精々が興奮したことでの一時的なものと判断しただろう。まして、寝たふりをすることなどあるまい。この男のことであれば今日までのことを記録に残すべくそのような愚挙など起こすはずはなかった。
「それだけ、確かにそれだけだが可能性はゼロでは無い。そもそも貴様が私の命を狙うとしたら今日だ。義憤に燃えていたのだろう? そんな興奮状態では正常な判断などできんか。まぁ、よくこの時間まで我慢したものだ。褒めてやろう。」
興奮、確かにそれは目の前の男にも生じることだった。つまり、睡眠の必要性云々など最初から問題では無かったのだ。今日、この日に事を成そうとした時点でノーラの敗北は決していたのだ。そして、それはディートゲルムの思惑の内の行動だった。
「っ」
もはやノーラの口から反論の言葉は生み出されなかった。ただただ顔を悔しさにゆがめ、下を向く。
「今日、貴様が何もしてこなければ、以後、私に刃向う可能性は極めて低いと判断できた。このような無駄をする必要もなくなる。しかし、これは別に重要では無い。むしろつまらないことだ。だが、貴様は刃向った。ということは、何かあったな。弟の命と言う重みを天秤にかけられるほどの希望でも見出したか。あの集落で何を見つけた?」
ディートゲルムに顔を引き上げられたノーラは目線を逃がす。
「な、何も、」
ノーラの表情はこわばり頑なだが、目は泳いで明らかに何かを隠していると誰の目から見てもわかるほどに動揺している。ディートゲルムはいつになく苛立ちを覚えていた。それは彼女が彼を観察していたということへの苛立ちである。何がそこまで彼をその感情に突き動かすのか。それは観察者であるはずの彼自身がモルモットであったということ。なによりそのことに気づけずにいた愚かさだ。
「気に食わんな。マナに偽りの感情まで乗せられることを学んでいたのか。いつからだ。いつからこの私のことを観察していた!」
ディートゲルムの血走った眼球が大きく挙動してその感情と共にノーラに向けられる。
「ひっ!?」
激しい悪寒がノーラを襲う。ポーカーフェイスを気取る男を手玉に取ったことに浮かれる余裕も無い。生理的な嫌悪感が雷の如く全身に走り、毛穴が粟立つ。
「答えないか。ずいぶん反抗的なモルモットだ。
そうだな。貴様はどうやら異世界にきて以来、私の恐ろしさを忘れてしまったようだ。私に逆らったことを悔いながら見ているが良い。」
まるで津波の予兆のように感情の波が途端に引き、ディートゲルムは冷徹なそれを取り戻す。
「な、何をするつもりですか!?」
先ほどまでの嫌悪感すら手ぬるく感じられる恐怖が彼女の頭から足元までを貫く。まるで自身が地面に串刺しにされたかのように動けないノーラはどうにか声を絞り出したが男は蔑むような一瞥をくれただけで歩き出す。
ディートゲルムの足が止まる。それは決してノーラの声によるものでは無い。緩やかに部屋の戸が開き、魔法の光を掲げたエイラが姿を現す。一歩を踏み出したその顔には僅かながらに緊張が走っている。
「一体何事ですか?」
自らの光によって浮かんだ男の顔に目を丸くしたエイラ。暗闇に浮かぶ無表情のそれはあまりに不気味で違和感がある。あまりの違和感にその隣に立つ存在に気づくのが遅れる。
「フレイア、そいつは抑えておけ。予定を繰り上げて実験を開始する。」
男の無感情な声が響く。突如としてエイラの首に衝撃が伝わる。突然の事態に抵抗することもできずに床に押し倒される。そこにかかる声はもっとも信頼してきた家族の声。それは信じがたい言葉だった。
「はい、仰せのままに。」
「ちょ、ちょっとフレイア、何をするの!?
あ、貴方は私の妹に何をしたのっ」
あまりに無機質な声。普段から聞き慣れている彼女の声は優しいものだった。それが彼女の真実の声とは思えない。妹を疑うなど生じるはずも無い。とは言え、普通では無い。外的要因、男が何かをしたに違いないという疑念が彼女の心の中に芽生えた。ノーラが摘み取ったはずの感情の芽が再び芽吹いた。それは今度こそディートゲルムの目に届いた。男の口元が歪む。
(これは、これは想像以上に良い試料だ。そして、妹の真実を知れば間違いなく堕ちる。ノーラの憤怒から絶望への相転移の試金石に成り得る。もうひと押しだ。そのタイミングはフレイアに任せるのが最良だ。何しろ、これまでずっと観察してきたのだ。このような展開の絶望への落としどころはどれほど思い描いてきたものか。)
「お、お姉ちゃん。助け、て、
———うるさい。黙っていなさい。」
求めていた言葉が降りかかり、首を絞める力が緩む。その隙にどうにか首を回してその表情をうかがう。一瞬、苦悶するかのような表情の後に瞳から涙を流すフレイア。だが、エイラの背中を抑える足に力が入り、続く言葉は辛辣でそのもの。表情は凍り付いたかのように固く、その目には殺気が宿っている。だが、それは姉の中で自らの仮説の信憑性を跳ね上げさせる。そして生まれるは憤怒。それが演技だと気づかずに。
「あ゛う? フレ、イ、ア?」
(こいつが、こいつがフレイアをっ
———許さない!)
とは言え、この状況、否、この状況でなくとも目の前の強大な存在に彼女の力が届かないことはエイラ自身がよくわかっている。機会をうかがうしかないエイラは歯噛みする。
「そやつにもこれから行う実験を見せるのだ。気を失わせるな。」
「心得ました。私も主様の偉業をこの目に焼き付けたく思います。」
「殊勝な心掛けだ。では始めよう。」
妹によって無理やり立ち上がらされる。その力はとてもお淑やかな妹のそれとは思えない。それよりなにより憎き男に忠誠の意を伝える妹にエイラは悔しさに身を震わせて唇を噛むことでしかその言い得ぬ感情を表すことはできない。赤い雫が顎先から滴下する。先頭を歩く男の背中に禍々しい何かを感じながらもその目的に至らない自身の未熟さを感じずにはいられない。
部屋を出る時だった。女性の声が響く。聞き取ることが難しいくらいにか細く弱弱しいものだったが、そこに在るのは凶事への確信だった。
「や、やめてっ
これ以上の悲劇を広げないでっ」
だが、その声はエイラにしか届かない。
「まずは邪魔な世界樹を倒すとするか。」
ディートゲルムはこともなげにあり得ない、あってはならないことを口にする。だが、それを可とする自信がみなぎっている。エイラの顎を汗が血を溶け込ませて落ちる。
「せ、世界樹を倒す? 貴方は自身が何を言っているのかわかっているのですか!?」
エイラは叫ぶ。数少ない実行可能な抵抗の意思表示としての意味合いももちろんある。けれども、それ以上に仲間の誰かにこのことを伝えなければならない。巻き込む巻き込まないの問題では無い。この村に、この世界に居る時点ですでにこの男と言う災害に巻き込まれているのだ。ならば皆で解決にあたるべきだ。マナを通して皆に危機を伝えようにもフレイアが阻む。エイラの心情にかつてない闇が生まれる。普段なら以心伝心とも言える妹の機敏を読む能力を疎ましく思ってしまうほどだ。
「当然だ。これは私の計画を遂行するにあたって必須条件だ。瘴気を浄化されては不都合だからな。」
「瘴気? 瘴気なんて集めてどうするの!?」
エイラが口を開くたびにフレイアがその体を痛めつける。それでも問わずにはいられない。
「まぁ、正確には瘴気となったマナを集めるのだ。そして、理論上の兵器を錬成する。さらには地球に持ち帰り、我が祖国の再起を図るのだ。いや、うまくいけばマナを向こうの世界に定着させ、以てそのすべてをこの私が管理する。それこそ私は神となるっ」
男は戸の前に立つと大仰に腕を広げて己の世界に浸る。
(貴方を世に放つわけにはいかないっ)
エイラが家に封じ込めようと展開した木の障壁もフレイアが難なく解き、悪意が世に放たれる。目の前には巨大な世界樹がそびえている。決して人の手ではどうにもならない存在感を放つそれをしてもこの男の狂気の前では心もとない。エイラは自身の膝が震えていることに気づく。
「人を支配することにそれほどまで取りつかれていたなんて...」
姉妹の家の二又の木を支えにしてどうにか立つノーラの声。相手の計り知れない野望に声を出せないでいるエイラの代わりにディートゲルムを批難する。
「勘違いするな。人を支配するなどと矮小なことに興味は無い。私は私の思う通りに実験さえできれば良いのだ。」
男の無表情な顔に被虐的な感情が宿る。実験の始まりを意味していた。
「そんなことのために、」
「やめて、やめてっ、やめてぇえええぇぇっ」
ノーラの嘆き、エイラの悲鳴。だが、そのいずれもが男を止めるだけの力に成り得ない。凶悪なマナ、瘴気の剣が世界樹の幹に伸びる。近いといえども数百メートルも先にある世界樹をこの場からどうにかするとは思えなかったエイラはその攻撃を前に叫ぶほか無かった。
強力な閃光。世界樹の魔法障壁が散乱し、赤黒い切っ先が幹に触れる。まるで金属が金属を切るような高い音が耳を裂く。どちらも譲らない攻防は瘴気を浄化する力と瘴気を生み出す力のそれだ。だが、その均衡はいとも容易く破られる。ディートゲルムがもう一本の刃を世界樹に向けたのだ。双方向からの悪意は世界樹をして防ぐことは適わなかった。
それはついに訪れる。両脇から幹の三分の一ずつを裂かれた世界樹が自らの重みを支えられずに自壊する。三分の一を残した幹が炸裂音と共に圧潰したのだ。青々と茂らせる葉を散らしながら世界樹が傾く。




