始まりの日 その2
週一の更新を予定していますが、7月まで仕事が忙しくなりますので更新が遅れるかもしれません。
なお、次週はもう一方の小説を更新しますのでお休みすると思います。
「悪かったな。難しく考えすぎていたようだ。元の世界とは大きく異なる世界のようだ。私たちは理不尽に虐げられていてね、自らを守るために気が立っていた。君を怖がらせてしまったね。私は君たちと争うつもりなど無い。むしろ仲良くできるものならそうしたいのだ。一度、君のご家族に挨拶させてもらえないだろうか?」
ディートゲルムはこれまでの高圧的な態度を急に改めて柔和な雰囲気を醸し出しながらエイラに形だけの願いを口にする。心理研究の一環として囚人たちの心の距離を詰めることに役立ててきた演技力がこの場を支配する。
(どの口が...
そんなものでだまされるわけないでしょ。)
ノーラは知っている。その作られた笑顔はひどく不自然で命が脅かされるような極限環境でしか効果が無いことを。それゆえにエイラは当然気づいてくれるものと信じていた。
「え、ええ。」
(先ほどの不気味で異質なマナは何だったのでしょうか。でも、今は感じられませんし。きっとこの方の崇高なお考えが無知な私に伝わらず歯がゆく思っていらっしゃったのでしょう。)
「もちろんです。きっと村の者も喜ぶと思います。ご案内いたします。」
ディートゲルムの敵意とも害意とも呼べる凶悪な本性を覆い隠す薄っぺらな虚偽がエイラに疑うことをあきらめさせる。いや、そもそもそのような悪意を知らないエイラにその正体を見破れと言うのが酷な話かもしれない。この世界の住人であれば、ありとあらゆる感情や感覚がマナに乗って相手に伝わってしまう。喜びであれば喜びを、苦しみであれば苦しみを共有することになる。悪巧みや隠し事ができないというのがディートゲルムから見た時のこの世界の異常さだ。もちろんそれは彼には適応されない。ゆえに、エイラはディートゲルムから伝わってくる上辺だけの好意をその通りに受け取ってしまっていた。
エイラは2人を大事な客人としてもてなすべく道案内を始める。それはそれは嬉しそうに。
だが、最後尾のノーラはディートゲルムの背の陰で唇をかみしめてその壁を恨めしそうに睨む。なぜなら、その偽りの笑みに良心の呵責から生まれるはずの自責の念が浮かんでいないことは明らかであったからだ。むしろ思い通りに行ったことへの自賛の念さえ浮かんでいるだろう。そうした光景を幾度も見てきたノーラだからこそわかることだ。
「...」
(白々しい。どうか騙されないで。この人は危険な人よ!)
ノーラの心の声はエイラには届かない。ディートゲルムがそのマナの流れを奪ってしまっているのだ。つまり、その心は敵対者に筒抜けと言うことでもある。ディートゲルムのノーラに向けられた視線に強烈な殺気が込められる。
「っ」
ノーラは思わず口元を両手で覆う。漏れ出そうになる悲鳴をどうにか止めた。その声を聞けばエイラにも意思が伝わったかもしれない。だが、三者の視界にはすでに彼女の言う村、すなわちディートゲルムの新たな試験場のある目的地が示されており、ノーラの様子に事情を察したエイラがもはや用済みとばかりに処分されかねないと彼女は危惧したのだった。
(エイラさんはきっと大事に育てられてきた人、人の醜さを知らない人、魔法があっても人を傷つけることのできない人なのよ、きっと。そんな人が悪意の塊みたいなこの人と戦うなんて有ってはならない。間違いなく殺されちゃうわ。今は耐えて、他の人たちに伝えないと。)
だが、ノーラは知らない。エイラが口にした、この世界の住人たちが争いを知らないという言葉の重みを。それこそディートゲルムですら予期せぬほどにこの世界は平和だった。
エイラの案内に従って決して道とは称しがたい草原で足を進める2人は先頭をいくエイラが立ち止まったことで自らも足を止めることになる。一人は鬱陶し気に、もう一人は疑問を浮かべて。その理由は、エイラたちの前をゆったりと横切る動物にあった。彼は彼女らに気づいたのかその場で足を止めて顔を向ける。それは犬と言うよりはオオカミに近い容姿であるがどことなく締まりのない顔立ちだった。まぁ、有体に言うとチワワのようなオオカミだった。3人に振り返ったその獣は一つあくびを見せると慌てる素振りもなく歩みを再開する。あるいは、その獣の足元から手のひらに乗るほどのウサギのような生き物が姿を現す。
「一応、獣はいるのだな。」
ディートゲルムが目線を向けるとと小ウサギはおびえたように毛を膨らませて後ずさりを始める。
エイラはディートゲルムの細く鋭い、それでいてその下に黒い黒いクマが浮かぶその目に苦笑すると、彼の目線を遮るようにウサギとの間に割り込む。小ウサギが助けを求めるようにエイラの足元に駆け寄る。白いローブで小さな存在を包み込むと優しく背中を撫でる。
「はい。ですが、皆、大人しい子たちですよ。」
エイラが頭だけを隠した小ウサギをディートゲルムに差し出す。その手で触れるように促しているのだが、男は彼女の期待を大きく裏切る言葉をかける。
「うまいのか?」
「え? あ、いえ、食べたことはありませんから私にはわかりません。えっと、食べる、のですか?」
「いや、そのような小物では食べた気にもならんだろうよ。まぁ、検体としては使えるかもしれんな。」
人は騙せても小動物にはディートゲルムのおぞましい思考は伝わっていた。自らが解剖台の上で捌かれるイメージを中てられた小ウサギは一層震えてエイラの体に身を寄せる。
「ケンタイ? 食べないってことですよね、よかった。私たちは。果物や野草で十分ですし。肉食の動物たちも私たちのような大型の生き物を襲いませんよ。あ、でもお魚や虫を食べてはいるみたいですけど。」
より素材の質を確かめようと近づくディートゲルムの気配を察した小ウサギは体を大きく震わせてローブのさらに奥に逃げ込もうとする。エイラは残念そうにウサギを地面に下す。ウサギはディートゲルムを大きく避けてノーラの足元に隠れるとかかとを盾に危険人物の出方をうかがっている。ノーラもまた男から守るように身をかがめてウサギを隠す。その様子を目で追いながらほほ笑んだエイラはディートゲルムとノーラの関係を問う。
(ディートゲルムさんは目つきが厳しい方のようですから怖かったのかしら。対してノーラさんはなつかれていますね。ずいぶんと相反する雰囲気のお方々のようですがどういう関係なのでしょうか?)
「そういえばノーラさんと、えっと、」
「ディートゲルムだ。」
男はエイラの視線に笑みを崩さず、それでいて面倒そうにぶっきらぼうに補足する。
「ディートゲルムさんはどのような関係なのでしょうか?」
エイラの中ではディートゲルムの口数の少なさや横柄な態度は一種の照れ隠しとして補正される。そのせいもあってか勘違いしたままにエイラは楽しそうに2人の関係性を問う。期待しているのは2人が夫婦である可能性である。未婚の身であるエイラからすれば憧れの関係であり、2人との会話を進める上でなり染めなど惚気話なら双方盛り上げる話題と見込んだからだ。だが、2人の反応は薄い。ディートゲルムは貼り付けられたような笑顔、ノーラは顔の筋肉を一切動かさない無表情。
「良い関係だよ。」
「...」
「えっと、そうなんですね。」
(2人はそう言う関係ではなさそうですね。
...主人と従者の関係? だとすれば、ノーラさんには申し訳ないことを聞いてしまいました。それにしても、ディートゲルムさんはなぜ否定しなかったのでしょうか。それにノーラさんはずっとしかめっ面なのにマナは拒絶の色を成していない。むしろ好意的なそれすら感じられるのですけど。)
しばらく無言が続く。おかげで歩む速さは増し、2人の人と成りを知る機会も無い。いつしか目の前には胴回り6mを超える巨木がそびえ、森を成す目的地にたどり着いたことを知らせる。
「あ、着きました。」
「ほお、ここが、」
(村と言うよりただの深い森だな。)
入り口を示す門替わりの太い二本の木に手を当てたディートゲルムは目を細める。侮辱の感情を抑えつつ、先ほどからエイラに訴えかけ続けているノーラの危険信号を灯したマナを遮りながら自らの偽りの感情を乗せたマナを漂わせる。
「おお、おかえり。エイラ。そちらの方々は?」
真っ先に門を通り過ぎたエイラの目の前に1人の中年の男が姿を現す。だが、その容姿は中年と表現するのは失礼かもしれない。金髪にして長くとがった耳はこの世界の住人の特徴のようだが、線の細い体、長髪は一見すると見目麗しい女性にしか見えない。その上、声まで中性的と来ては異世界人2人が彼の性別を間違えたとしてもしかたあるまい。
「お客様です。あるいは予言にある精霊様かもしれません。」
「本当か?」
「はい。ただ、いえ、何でもありません。」
(ただ、私には私たちと同じ人に思えるのですが...)
小声で確認する2人にディートゲルムが静かに声をかける。
「貴方がこの村の代表者かね。」
「はい。ダーソと申します。ところでこの世界にお姿を現されたとはどのようなご用向きでしょうか?」
ダーソは異世界からの迷い人2人を精霊と崇めて迎え入れる。それもそのはず男から漂うマナは異質で決して人が持ちえるような量では無い。だが、これはディートゲルムが少しでもマナを集めようと周囲から奪い続けているからである。
「ああ。大した用向きでは無い。観光、物見みたいなものだよ。とりあえず数年住まわせてもらいたい。」
観光と言いながら数年の滞在を要求する辺りがディートゲルムの計算高さを表している。それは同時にこの村が彼の研究所として変貌を遂げることを意味している。そうとは思いもしないダーソは柔らかな笑みを浮かべてディートゲルムに肯定の頷きを返すとエイラに向き直る。
「左様でしたか。でしたら、エイラの家をお使いください。
エイラ、フレイアとともに精霊様方のお世話をしなさい。よいな?」
「はい。お任せください。では、ディートゲルム様、ノーラ様、こちらへ。」
先ほどまでと異なり村長の意に従い、2人を様付けして敬う。苔むした通りを歩くことしばし、門代わりの巨木に比べればさほどではないが、人ひとりが難なく納まる程度は太い二又の木を前にエイラは足を止める。それこそエイラと妹フレイアの住まいである。
「こちらが私たちの家でございます。今は妹が森に採取に入っておりますので大したおもてなしが出来ませんがよろしければおあがりください。」
そう言うとエイラは半身を木の中に文字通り埋めて2人を呼ぶ。ディートゲルムは腕を組みながら思考を巡らせているようで動く様子は無い。ノーラはというとその不可思議な光景に唖然として見つめている。
(しかしどのような原理なのだ。この女が魔法を使った様子は認められないが、)
「そうか。だが、今は良い。私は少しこの村を見てみたいのだよ。」
ディートゲルムは右手を前にエイラを制止するように突き出す。
「わかりました。それでは、ご案内いたします。」
エイラが埋もれた半身を抜き出すと先頭に立つように足を進める。ディートゲルムが自身を追い抜こうとするエイラの肩を掴み、その場に止める。
「結構だ。2人で回りたいのだよ。」
ディートゲルムは後ろに小さく控えるノーラを引きだすと隣に立たせる。ノーラは俯いたまま返事をするでもなく無意思を装う。
「そう、ですか。ではごゆっくりどうぞ。」
ひどく残念そうな表情を浮かべたエイラにノーラが悲愴な表情で手を伸ばす。だが、その間に体を割り込ませたディートゲルムによってその手も表情も隠されてしまう。
「ああ、済まないね。」
「...」
そのまま手をつなぐと2人は歩き出す。一見すると非常に仲の良いカップルにも見えなくもないがノーラの手は先ほどから波打つように関節を握り潰されている。苦痛にゆがむノーラの顔。しかし、エイラには誘導されたマナの効果で彼女が歓喜に震えているように見える。
(やっぱり仲良いみたいですね。羨ましいなぁ。)
程無くしてノーラの体がディートゲルムの脇に引き寄せられる。芯から冷えるような無機質な警告がノーラの心臓を締め付ける。
「貴様は我が意に従っていれば良いのだ。余計なことをするな。」
「———はい、申し訳ありませんでした。」
(どうせ私のことなんてただのモルモットにしか見えていないんでしょ? だったらモルモットにそんな高度なこと求めないでよ。)
ノーラは感情を殺して監獄に囚われていた光景を思い出しながら答えた。
「くくく。まるで謝罪の心が入っていないな。これまでもそのような気持ちで答えていたのだな。貴様の心意など手に取るようにわかるのだぞ。それにしても心外だ。私は貴様をただのモルモットだなどとは思っていないぞ。異世界に渡った貴重なサンプルだ。私自らを材料にするわけにはいかないからな。あまり自身を卑下するものではないぞ。」
科学的に原理を追及するディートゲルムとは異なり、マナを感覚的に捉えるノーラにはマナの動きを読み取られて知らず知らずに心の内を丸裸にされているなどとは思いもしない。それでもディートゲルムのノーラを見る目、発言はひどく不気味で思わず恐怖が体を硬直させる。
「...はい。」
「そうだ。貴様はそうやって従っておれば良いのだ。特にその恐怖。実に心地よい。そして、その憤りも、」
ディートゲルムは顔を愉悦に浮かべてノーラに振り向く。だが、目の前の女性からは怒りに染まるマナは感じられない。むしろその先にこそその源があった。
「ほう、あれは、」
金髪紅眼、見目麗しい少女が水辺を前に憂いの表情を浮かべて立ち尽くしている。その横顔はまさにエイラ、その人だ。だが、その憂いのベールの下に隠された強い怨嗟の感情が渦巻いているのがマナを通じてわかる。わかると言っても精巧に隠されたその仄暗いの感情は一介の魔法使いではわかるまい。まして、悪意を知らないこの村の住人相手となれば過剰な包装とも言える。ディートゲルムはその在り様に興味を抱くことになった。




